ふたたび-映画記録者として 「記録」 記録社
『記録』創刊号に、『水俣-一映画記録者として』の一文を書かせていただいてからすでに十八号を経た。この一文に、映画記録の固有の方法を求めるなかで、主に体験的失敗を軸に、私の突破しなければならないネックについてのべた。
そこに例をあげた。身障者からの健全者たる私たち作り手側への「強者と弱者」の厳然たる違いについての指摘(『養護学校はあかんねん』)から、水俣で映画をとりながら、そのよって起るべき問題の責任のとり方(『不知火海』)、あるいはあえて眼をつむるように撮らなかった取材者の自己規制(テレビ『市民戦争』)などを叩き台にして語ったつもりである。映画の人間がイメージで物を語るにせよ、その根本はことばとしての思惟からはじまる。今回饒舌をおそれながらも語りたいことは、記録映画論としては、周辺の問題に属することかも知れないが、記録映画における記録されたものの中味の受けとられ方について、こだわっている問題をのべることをおゆるしねがいたい。『記録』誌が生まれて一年有半、そこに掲載されたものをめぐっての論もゆるされるサイクルを経ていると思う次第だからである。
この間に、私は仲間とともに(しかし私が構成の責任者として)七九年八月二十四日に死去された中野重治の告別葬を記録した映画『偲ぶ・中野重治』をつくった。”資料”であることを願い、一般公開を目的とするのではなく、ひとまず私家版の形で作ったものである。
その映画批評の形で匿名「記録冬夫」氏より『映画「偲ぶ・中野重治」に関する走り書的覚え書』 (記録八〇年二月号・第十一号)が寄せられた。それは「記録時評(ドキュメンタリー・レビユー)」と題され、その第一回であった。こうした相互批判の場が設けられることは『記録』誌の性格上、むしろ遅きに失したともいえる好企画に思えた。そして私は、これを、ジャンルはさまざまであれ、記録の質を問うスペースとうけとった。
だが、それは記録映画『偲ぶ・中野重治』の記録性への批判、というよりむしろ、中野重治氏の告別式への批判というべきものであった。私は当然、そういう意見に耳を傾けるものである。しかしこの映画の記録性について、ある種の断定を下されたことに、一言、記録映画の作者としての意見をのべないではいられない。
この文章は中野重治故人に対する偲ぶ姿において貫ぬかれているが、その葬いの文壇的である事において強く批判するものであった。筆者は、それに先立つ「平野謙を偲ぶ会」の席上での井上光晴氏の爆弾挨拶として、「-平野謙さんは芸術院恩賜賞で天皇のしるしのついた花びんをもらった。しかし合理的な思想と、中野(重治)さんの言葉をかりれば、”批評の人間性”を根底にすえた平野さんともあろう人が、そんな花びんをもらうのはおかしい、文部省の玄関先にでもつっ返してきたらいい、それをそうすすめなかった『近代文学』同人の理念もまたとどめを刺された」というシリアスな発言の消息を語り、その場で得た強い感銘をもって、中野重治氏の葬儀が文壇葬的にもたれたことへの批判を語った。その氏への追慕とともに「”文壇屋”に祭りあげられる余地もあった」として、氏を革命者より、むしろ、「何よりもまず詩人であり一個の芸術家であったとしか思えない」と記された。
筆者はペンネームであるが誰であるか分る。疑いなく彼は私にフェアであった。この映画をみおえてただちに私に対し、内容に於て、寸分たがわぬ批評をのべられ、のち、この一文となった。それは痛恨のようであったようだ。おそらく執筆者の戦後四半世紀の体験をもっての重さがそこにあった。だが次の一文に私は物を思うのである。映画の性格規定についてである。
「・・・中野氏に対して、この葬儀は、いかにも反中野的であった。葬儀に参加することもしなかったわたしが、映画を見ながらそう思った。井上氏だったら、どんな爆弾的弔辞をのべただろうか。(映画)『偲ぶ・中野重治』は、体制的なものに偏屈なまでに対立しつづけた中野氏を、手馴れた文壇葬儀屋の手によってものの見事に葬り去った記録として後世に残るであろう」
はたして、そう結語される映画であったろうか。「手馴れた云々の手によって中野氏を見事に葬り去った記録」という語気に映画もともどもこれに服すべきものであったろうか。記録冬夫氏の言う「日本近代文学史上、屈指の一文学者・思想家」の文壇葬儀者による始末記の映画であったのか-。これにこだわる。
私はこの映画に一行のコメントもメッセージも附さなかった。もし”文字”を附して語ることをゆるされるなら、私の所感は別にもあり得た。しかし私はそうしなかった。そのため冒頭にこう趣旨を字幕でのべた。
「この映画は中野重治をしのぶとともに
今後の記録資料の一部として残すべく
製作したものです 一九七九年一〇月」
右のようにのべた理由の第一は、この映画が中野重治氏の生涯や文学を描くものでは決してなく、氏の葬儀の一日についての記録であることは当然といえ明確にし、第二に、「記録資料の一部として残す」ことに限定したことを明らかにしたかったからである。
別の機会に以下のことをくわしく語りたいが、この頃、私は、人間(人物)の記録は、文字、資料、写真等の他に、音声、動く肖像、つまり映像を加えて”全きもの”になる時代に生きていると考えるようになっている。さいわい前作、やはり葬式の一日をとった『追悼・神山茂夫』の一篇中に、友人代表としての中野氏の追悼の辞をのべる一シーンがあり、製作過程で、NHKに死蔵のLP版に詩『私は嘆かずにはいられない』の中野氏自身による朗読の録音もみつかり、音楽も生前、折にふれ氏の愛聴していたゲオルグ・ザンフィルの「パンの笛」であったことから式場に流していたそれをもって構成した。(作者たちの些意によって附け加えられたものは、『雨の降る品川駅』<朗読・鈴木瑞穂>だけである)
葬儀の一ぶしじゅうに高度に忠実であろうとして、弔辞をのべる人とことばはほぼその順序通り残そうとした。編集上特別の作為はできるだけ排した。それらはいつに、「記録・資料の一部」になればという自己規定によるものである。
もとよりこの葬儀のもち方に、故人にふさわしくないとする声もあったことも聞いた。大出版社の葬儀担当者が進行係として裏方をとりしきったこと。放心状態にあった肉親、関係者のわきで、どんどん事が進められたこと。それらへの異和感ものちにその場に居あわせたある人の述懐として耳にもした。しかし私の映画をとる上での関心はそこにはなかった。生前のフィルム記録をする機会をもてなかった以上、せめてその告別につどう人々の弔意から、逆にさかのぼって生前の氏を浮き上らせるものとしたい、というのが私のこの日に托した個人的感懐であった。そして私たちがフィルムをもって記録できる映画人であるなら、それが弔意のしるしとして許されることとも思った。その八月下旬、不知火海の漁村で氏の訃報を知り、さらに旅をつづけて帰京した私には九月八日の告別式には、なかいち日の準備の余裕しかなかった。その間に”文壇葬儀屋”らしき人とのやりとりは私にもあったのである。
知己の石堂清倫氏に相談し、遺族周辺の応諾は得たものの、異をとなえたのはK社の”葬儀屋心得”氏であった。人の死を撮るとは不謹慎極まるといった声が、受話器のむこうでひびいた。すでに微薫を帯び、テレビの西部劇の音声がバックにあった。不慮の事故の犠牲者の柩に泣きくずれる遺族に、マイクをつきつけ、照明をあて、カメラの回転音が責めるといった図式を想われたのであろうか。
取りしきりの順列、差配、そういった裏の構図がおぼろげながら、私にも分った。
そうした”文壇界”の慣習を改めて遠景に見ながら私は、ただ告別式の祭壇前の時空だけを撮った。その点告別の近景のみとったことになる。しかしそれでも記録冬夫氏が感じとられたように、そこに文壇葬を見てとられたのであろう。
それは記録を映像でとったこと、カメラはそれでもディテールまで描破していたことによって感じとられたであろう。また、前作「追悼・神山茂夫」の場合より、精密な全記録性をこころみたことによって、さらに、鮮明な像を読みとられたかも知れない。それは映画記録の守備範囲の裡である。
しかし主に私はこの映画の方法によって記録し、あらためて同時代の人びとの像を、その質感とディテールにおいて撮ったフィルムの中に見ることが出来た。臨場感は、あながち、その場にいることによって得られるものではない。臨場しつつ、カメラで撮ることによって捕捉され、あらたに構成されるものだという記録映画の特性を再確認できる仕事でもあった。
弔辞をよむ人をとりながら、「中野さんは含羞の人であった。だから政治からすごすごと敗退しなければならなかった」というようなことばを聞くと、敬虔ながら空疎といった異和感を覚えたり、同郷のよしみのみに終始する鳴咽をのみ下しつつ語る人のことばのうらに文化戦線的にともに歩いた歴史から、日本共産党のことにおのずから言及できる数少い立場の人ではなかったかと思い返したりもした。しかし私を圧倒したのは、別れという、ひとりの人間の一回性に対し、弔辞のことばをもって告別をのべるに当り、その中味にこめたあらゆる思いを限られた時間にいかにのべるか、その凝縮された一瞬一瞬についてであった。要するに言葉にならない言葉をもって告別する行為だった。それが私にとっての映画だった。告別とは残されたもののための行為であるとも思った。そうした死に方をすべきだという死者の遺志すら感じた。それが私の究極的に表現できたものか否かが、映画記録の成否として問われるものであるならは本望である。「全然感じられなかった」といわれても、それが映画表現に私の托した主観的意図と客観的事実の齟齬であれは、私は喜んで、その批評を受け、さらに考えるよすがとできる。映画をとることは、観られる時点では弔意行為ではすでになく表現だからだ。
文章をもってこの日を書き記した大江健三郎氏はこうのべている。「・・・弔辞を聞きながら、しかし、僕は祭壇に赤旗が見られぬことに欠落感をいだいたのである」とのべ、石堂清倫の言葉を引用した上「・・・この石堂をふくめて、遺族や中野のために弔辞を読んだ人びとが、遺影にささげた葉鶏頭は、しかし、いかなる旗にもましてあざやかな、赤い色をしていた」と。(七九・九・二五、朝日新聞、文芸時評)
大江氏は自ら作家として、文章をもって”旗”をかざった。それが氏の弔意のあらわし方であったろう。フィルムに赤はなかった。
ひとつの社会的現実を撮影記録の対象とした以上、映画によって示されたものにたいし、映画批評と社会的批評、あるいは思想状況への批評が一かたまりになっていくことはむしろ当然であろう。記録冬夫氏が、中野重治氏の全集を読破されており、同時代をともに生きる上で指標としていた人であっただけに、その告別に対し、言わねばならぬことの「走り書」であったことは分る。しかし「映画をみての感想」としてかかれ、この記録映画を「文壇葬儀屋の手によって、ものの見事に葬り去った記録」になった-と文脈のなかで言い切られるとき、私はフィルムの痛みの声を開かないわけにはいかない。私はそのようなものとして「偲ぶ・中野真治」を作ったつもりはなかった。また仮に資料、あるいは公判記録的な証拠を無機的に残したわけでなく、私なりの記録の情動をもって作ったものであり、有機物なのである。
もしそれが私の映画の総印象・総括ならば作り手たる私も”文壇葬儀”に声を和して、その葬儀を”美化”して作り、中野重治の死のかたちのみうつした非ドキュメンタルな映画であった-と全体を想定し、そこから批評を展開さるべきだろう。それならは映像にとって記録とは何かを、論じ及ぶ”記録時評”となり得たかもしれない。
私は映画・映像の記録の強さとともに、脇の甘さも、不確定性にみちたイメージなるものも、映像と感性のはてしない空隙も感じている。文章の精密な表現に拮抗する映像言語の精緻さをまだ手に出来ていないことを知るからだ。
私にとって、このような体験はこれで二度目である。映画の志したものと全く違った視座から批判された『水俣一揆』の場合がそれである。(同映画のシナリオ・未来社刊『映画は生きものの仕事である』参照)但しそれは運動の評価と運動論から映画が裁断された例であった。これは記録映画をとる上で、今後も繰返しかねない質のものである。
一九七三年三月二十日、水俣病裁判は熊本地裁で判決をむかえ、はじめてチッソを加害者として法的に確定した上、一千六百万から八百万円の慰謝料の支払いを命じた。だが患者は裁判後、上京し、「チッソはおるが一生の面倒を見るかな」と端的な言葉を冒頭にのべて、東京・チッソ本社での直接交渉に入った。以後七月上旬に至るまで本社に泊り込みの長期戦に入るとはこの時誰も予想もしなかった。すでに御承知のように、その交渉の眼目は各派患者を差別するな、全患者に判決の慰謝料を支払え、そして一生の生活と医療を保障せよというものだった。
私たちは医学映画をとるつもりだったが急遽、予定をかえて、患者とともに”上京”しロケに入った。
この交渉の実質を担ったのは、今後の一生を思う青年・壮年の患者とその家族であり、とりわけ胎児性・小児性患者たちと肉親でもあった。裁判とは別に一律三千万円を要求しすでに、一年半坐りこみを続けていた川本輝夫、佐藤武春さんら新認定患者・家族がその先頭に立った。その激しい気迫は、私に”一揆”の言葉を思わせた。水俣の土着性そのままの人間観と、その尺度で対峙し、生きた水俣弁で語る言葉がチッソ社長には一向に刺し通らなかったが、都市の生活時間と無縁に、理にかなうまで語り、返事をまち、話の筋を立てる倦むことのない患者のありようは私にその言葉を選ばせた。
映画の中で、私は社長の発言にも多くのスペースをさいた。一見、誠実にもそれは響いた。それに応答する患者の物言いはその分だけ深く、悲しいまでに無常をくぐってきた人の声であった。もし水俣に水俣病が起きなかったら、この漁民たちはかくも圧倒的な思想をかち得ることはなかったであろう。映画はその公理ともいうべきものの記録だった。上映に先立って私は映画について次のように書いた。
「『人間は何のために生まれてきたち思うか』『水俣病にさえかからんばなあ・・・』のあとにつづく元漁民の夢のような幻の一生と、いまの地獄のような語りは稀有なまでに雄渾な人間の言葉でした・・・その激しい言葉のぶつけ合いからたち昇る人間固有の香気は、患者さんの闘いの匂いであり、その親しくも大らかな体臭は『人間なるもの』を問うてやまないのでした」(『水俣一揆』のプレスシートより)
今、読みかえしてみて、その上気の様が目に浮ぶ。患者の”終らざる永久闘争”への思い込みにまっ赤にふちどられていなかったとはいえない。しかし映画の完成・公開後、一ケ月ほどして、現実の患者の闘いは終息したのだ。急いで編集にとりかかり乍らもっていた私の映画のイメージは、東京での泊り込み闘争は続行されている中で、映画が全国で上映され、各地の支援の人たちに直接交渉の”公理”を読みとってもらうことであった。その点、短焦点の目標はずれ、タイミングは逸した。
それでも映画の上映に意欲をもってとりかかろうとしているさなかに、水俣病を告発する会(熊本)の機関誌「告発」はその終刊号(七三年八月二五日)の社説に代えてM氏論文が出された。そこで論文は次のように闘いの終息を追認し、その経過を分析した。それは冷徹さと正確さにおいてひとつの範型を示してもいたと思う。
「・・・東京交渉は、水俣病闘争についての様々の幻想が打砕かれていく過程であったともいえる。闘争はその掲げられた要求が満たされたとき終る。水俣病闘争もつまるところ、それ以上のものにはなり得なかったとしなければならない。”今日ただ今から、私たちは国家権力にむかって立ちむかうことになったのでございます”これは裁判に踏みきった訴訟派の人達の第一声である。・・・当然のことながら判決の時がきた。その間に公害についての世論は大きく動き、立ちむかわれた国家は患者反逆の鉾先を鈍らせる程の判決を下した。闘いはそれを乗りこえることは出来なかった」
たしかに、このM氏の論文「一つの局面の終りにー水俣病闘争総括」は水俣病闘争を支援の側で負うべき総体に照らして、支援の闘いがその質として不充分だったことを自ら責め、「私たちの力及ばなかった、余りに多くのことを愧じる」との言葉を結語とした。
水俣病闘争史の中で、国家権力に危機感を与えたかに見える昂揚期があったとすればこの七三年の前半はまさにそれに思えた。
水俣周辺に患者発生を押さえ込んだかに見えた医事行政は、裁判”勝訴”の風圧によって破綻をみせ、不知火海対岸・天草、その外洋側鹿児島・阿久根市にまで人的汚染の事実は拡がり、水俣湾の水銀汚染も最高二千七百十PPMが再調査の結果明らかになり、十余年ぶりに水俣湾の漁獲規制が実施された。
また同年五月二十二日、有明海にも水俣病患者八名、その疑い二名発見され、新たに日本化エ(宇土)、三井高圧(福岡・大牟田)も汚染企業として疑われ、九州の二大内海・有明・不知火海の全漁民の間にデモ、交渉等の実力闘争が拡がっていった。それは水俣病患者の闘いぬきには惹起されなかったであろう。
だが東京での直接交渉は日を経るにしたがって、戦闘力が落ちていった。地元水俣の地域社会は全国的な反公害闘争の声の中では、めだたなかったが、着実に訴訟派患者の闘争力を補償金受領を幾に解体していった。M氏論文は、その情況を先取りし、一見昂揚期にあっても、水俣病患者による闘争の下り坂を予見していたようだ。その眼からみると、映画『水俣一揆』はどのように映じたであろうか。前述の論文はまず映画の分析から始まった。
「『水俣一揆』というタイトルのフィルムが上映された。どういう経緯でこのようなタイトルが決定されたのか、いまだに審かにしていない。判決から東京交渉にかけての、それが記録映画としながら、若干の撮り落しはあるにしても、評価は出来る。しかし映画のその気負いすぎたタイトルが混乱させているしかない。村はやしのようなバック・ミュージックは都会人の安易な田舎好みでしかない。ましてラストシーンはどうにもいただきようがない・・・」
(註、ラスト字幕「ハ月一日、チッソは水俣での交渉に固執し、チッソ本社交渉団との交渉を拒否ー”生涯にわたる医療・生活保障”問題を空白にしたまま今日に至る。交渉団代表、現在、チッソ本社内で泊り込みを続けている』
それに重ねナレーション「・・・一生の生活という問題は、たとえ分断されていても、全ての患者さんにとっても切実な要求であることにかわりはありません。人間の生き方を問う患者さんたちの闘いはチッソの態度がかわらない限り、決して終ることはないのです」)
論文はつづける。
「旗が立てられているから一揆であるという理屈が馬鹿々々しいように、旗も立っていないから一揆であるというのも筋が通らない。風一つ動かない一揆というものが想像できるとしても『水俣一揆』のラストシーンは、もし製作者の意図がそうであるなら、それは水俣病東京交渉の実感とは乖離していた。・・・東京交渉は『水俣一揆』などではなかった。すでに訴訟派の人たちは、不満は残ったにしても、しかるべき判決というものを抱えこんでしまっていたし、東京交渉団の要求として、自主交渉派はその要求(注、一律三千万円だった)を判決並みの線まで引き下げていた。それをなお一揆と称しようとするのは、製作者たちが、ある種の実情に疎かったか、あるいは対象に接着しすぎて、見るべき現実を見落したかでしかあるまい。」
執筆者M氏も真摯で率直なひとである。『告発』の終刊号にあたって、水俣病市民会議の戦術的指導の誤りを自説をもって公然と指摘し、批判し、なおかつ患者の獲得したものとして、「しかしさすがに、東京交渉の大枠の流れが以上のような方向を辿りながらも、患者の生涯の生活の保障を迫り、新旧認定の壁を突き破ってゆく個々の噴出は圧倒的であった。二十年の水俣病を闘い抜いてきた魂は脈々としていた」と評価した上で、「それだけになお東京交渉が十分な展開を示し得ず終らざるを得なかったことが惜しまれる」と状況を総括した。
この冷徹な批評の一貫性の中から、ではあるべき記録映画はどうであったかにも触れている。「余談になるが、あのフィルムは丹念な、判決・東京交渉の記録に徹すべきものだったのではなかろうか、あるいは、タイトルや、ラストシーンに製作者の重大な意図があったとするなら、それは全くのフィクションによるべきはずのものだったのである」以上るる引用したが、もともとこれは映画批評では決してなく、水俣病闘争の総括論文である。その中で展開された映画批判であり、”余談ながら”映画論を含むものだった。
そこには題名への批判、音楽への異和感、ラストシーンのコメント批判といった具体的指摘がある。それには一理がある。とくに音楽にしの笛を採用したのは、人の声、叫びと並び立って音楽的意図のみ上すべりした気が私自身していた。そしてラストについて弁明すれば、この闘いの記録をまず現地水俣よりはじめて全国上映に及びたいと念ずるあまり、エンドレス(終りなし)に思えた闘争の長期的展望を思いつつ、取材としてはその前期をとることで映画にまとめたことから、附した字幕でありナレーションであった。だが一局面の終りの訪れを予見しないそれであったと言えば、事実の進行の方が雄弁に私の映画の非を告げていよう。
だが承服しがたい点が二つある。
ひとつはラストの”闘いは終らない”ということばに重点がおかれている映画ではなかったということだ。主眼は患者の「二十年、水俣病を闘いぬいてきた魂」「新旧認定の壁をつき破っていく個々の噴出」(M氏のことば)そして、人間なるものの公理ともいえる患者さんの到達した思想を描くものであった。もちろん、全記録の克明さを問われれば、そのように闘争の全期間という撮影設計はしなかったし、映画としてその任とはしなかったと答える。映画を議事録とは思わないからである。
第二に、題名『水俣一揆』の批判をもって論文の展開をはかることのM氏の方法についてである。現実の患者の闘争の全局面に一揆性が貫き通さなかったとしても、その心情の噴出にうたれ、映画の題名に”一揆”としたことが、内容とは別にひとりあるきして、世をまどわすほどのものがあったかどうかである。私たちが患者の噴出する声にそれを感じたことを、運動論に照らして考えもしなかったし、その題名をつける上で抑制もしなかった。それは私たち表現者の自由にかかわるものと思う。「もし”一揆”とするなら、フィクションにすべきである」として、映画記録でなく、劇映画の方向を採るべきであったとのすすめは、劇映画の世界にあっても、そうであってはならないテーマであるはずだ。こと水俣病闘争のあの局面を描くものであれは劇映画にも同じ批評軸があるべきだと思うからだ。やはり記録映画としての指弾であってほしかった。映画内容の正面からの批判、そして題名選択の過り、または誇張として正統に指弾しぬいてほしかった。M氏は言う、「単なる記録映画としてなら、若干の撮り落しはあっても、一応撮るべきものはとってある」と。もちろん映画の記録として欠陥部分もあり不充分としても、そこに患者の闘いの姿が多少とも描かれているとしたら、題名に附するに”一揆”としたことで、たらいの水ごと嬰児を捨つるような批評はこたえるのである。”単なる記録映画”としてもである。
この映画『水俣一揆』が上述のような形で批判された七年前、私は運動の先ゆきをはかりかね、”たかだか”映画のこととして沈黙した。そして、水俣、不知火海の現実を見ることに徹する思いを新たにし、映画『医学としての水俣病-三部作』『不知火海』と現地主義に固執した。それらの仕事が終り、海外上映、とくにカナダ・インディアン上映の体験をへて、私は水俣病の入門映画『水俣病・その20年』を作った。『水俣一揆』以来三年目であった。この映画は発表、未発表を問わず必要なフィルムで再構成したが、その中軸に、やはり最も多く『水俣一揆』の患者像を採録した。二十年の歳月の噴出はやはり、あの映画にもっとも簡明、鮮烈に記録されていたからである。M氏の批判を耳朶に残し反芻しながらもそうした。それは決して、あの映画の”一揆”性ゆえにのみでなかった。
さきに私は、記録冬夫氏の映画”記録時評”においてはその現実への批判と映画のそれとの位相のちがいについて指摘し、ついで、M氏の水俣病総括論文における記録映画批判についてのべなければならなかった。現実批判と映画批判の間の薄い隔膜をあえて剃刃ではぐような作業であり、私の出血もまたおびただしいこころみであった。そのなかで私は、現実を見る眼で映画を切るな、映画を見る眼で現実を切るなと訴えた気がしている。誤解の生まれやすい整理で恐縮だが、言わんとするところは、映画の固有の記録性をあるがままにうけとって、その全体性について批判を乞いたいのだ。そして、”記録映画”とはいえ、それは資料集や証言速記ではなく、文字による文章と同じく映像による表現であることから相互批評がありたいと思う。『偲ぶ・中野重治』のように資料的にハイ・ファイであろうとした映画ですら、カメラはフレームの外は写していない。全進行時間の三分の一の映画時間であり、そこに時間・空間の映画的処理が働いているのである。その点、資料でありたいとその存在を理由づけようと、やはり表現であり、ジャンルとして映画でありその記録であるというほかはない。
私は記録映画がすきだし、それで飯を食っている。ときにテレビCMをやり、ときに、PR映画や受註映画も撮る。その都度、スタッフは同じとしても、題材によって異なる社会集団とつき合うことになる。劇映画をとる仲間は演技者・スター・流行作家とのつき合いが繁く、相互に影響されあいもする。製作母胎が営利を外せぬ企業であり、そこで働けば秩序ある体制集団と”隣接”せぬわけにはいかない。しかし私は社会的なテーマや現代の矛盾に強くひかれつづけ、そうした仲間の渦中で映画をとりたいと願う。とくに「記録」について、ジャンルを異にするにせよ、その方法の深化に学びあいたいと思っている。個なる私に”隣接”する集団を各方面に求め、その影響によって、私は個から集団への運動を促されたいと願っている。その運動因子は連帯の心と批評という動力子であろう。その意味で其の批評を求める気持にかわりはない。その場のひとつに、この『記録』誌があるのだと思っている。
だが、今、映画記録について真実とは何かというフラットな論をここで立てようとは露思わない。眼前にある私たちの映画を俎上に具体的な作品分析と批判を望むものだ。作り手の私は「そう受けとられなかったのは、私の映像の未熟だからだ」といった伏眼もやめたい。そして、”記録”を試みたどんなささやかな営為であれ、それをその全体性において批評しぬいてくれることを切に求める。一つの現実、同じ現実に、ことなったジャンルが並び立ってそれぞれに行う記録作業もあるだろう。文学・写真・詩・戯曲・映画・音楽とそのドキーメンタリーの方法はジャンル毎につきつめられるとしたら、ジャンルを超えた協同作業とはそのジャンルの特性を正面に見すえた上でユニークな関係性をつくり出すことでもあろう。私の映画、私の記録の自由さの探求は、もとより見る人の自由さに期するものでありたい。その点つまるところ、「具体的にかつ自由に語れ」とでもいうべきであろうか。
(一九八〇・一〇・二五)