丸木夫婦の剛きに打たれる-映画『水俣の図・物語』を作って- 『信濃毎日新聞』 2月13日付 信濃毎日新聞社 <1980年(昭55)>
 丸木夫婦の剛きに打たれる-映画『水俣の図・物語』を作って- 「信濃毎日新聞」 2月13日付 信濃毎日新聞社

 はるか三十年は原爆賃料が占領軍に秘匿(ひとく)されていた時代、丸木位里・俊さんご夫妻が描かれた「原爆の図」の公開は衝撃であった。今井正監督の手で映画にもされ、私たちの仲間のプロデューサー高木隆太郎は九州でそれを見て、両面に大写しされたその描法のすばらしさを脳髄に焼き付けていた。反戦・反核・反公害と現代の証言を描き続ける位里・俊さんお二人の仕事は、しかし私の映画の題材と考えたことはなかった。
 お二人が「水俣の図」を描く構想をもっていると知ったのは一九七九年(昭和五十四年)の夏ごろであった。お二人は既に作家石牟礼道子さんと親しくされていた。「原爆の図」第十四部「からす」と題する長崎の朝鮮人被爆者をテーマにした作品は、石牟礼さんの「キクと長崎」という文章から画想を得たものである。石牟礼さんの文章には、屍(かばね)となっても差別され、放置された朝鮮人の死体に鴉(からす)が群れをなしていたという光景が書かれていた。このころから既に丸木夫妻に水俣への旅の準備があったようだ。

 水俣へスケッチ旅行をされ、八〇年(五十五年)正月、いよいよ制作に入ってから、私たちは、私たちが撮った水俣の映画数本を埼玉県東松山市の丸木美術館に接するご自宅に運んでお見せした。その折、制作中の絵を見た高木は、制作過程の撮影を申し込んだ。位里氏の答えは「ええよ」だった。それから急きょ、撮影が始まった。
 だれも私に”美術映画”を期待しなかった。が、カメラマンには「法隆寺」その他で秀作を撮り続けているカメラマン生活五十年の瀬川順一が決まり、また、われわれには日ごろ手の出ない三五ミリ・フィルムを使うことになった。絵の質感を極限まで撮るためである。資金の準備もなく、一日十分も撮ればフィルムのなくなる日が続いた。見るに見かねてか周辺の人びとが「映画を応援する会」を作ってカンパ集めのパーティを開き、フィルム代を援助してくれた。私は追われるように絵の完成まで撮り続けた。制作の過程とお二人の発想、人柄は次々にフィルムに収められ、その量は見る見るふくらんだ。
 私は、しかし、どこか落ち着かなかった。
 この五年間、実は、いつ撮り始めるかもわからない次回作として、不知火海・天草の人と自然の「病み方」をテーマとした「不知火海水俣病元年の記録」といった長編を考えていたからである。そのため、降ってわいたようなこの企画に入りながら、先の長編後回しにしたようで後ろめたかった。なにより、いま作る緊急性がない素材を撮るのは、水俣の映画ではこれが初めてのことだったのだ。

 八〇年代に入ってのこの一、二年、水俣病事件を息長くとらえる仕事があちこちで実を結んでいた。不知火海総合学術調査団(団長色川大吉東京経済大教授)の現地での五年間の調査完了。四年がかりの「水俣柄自主交渉川本裁判資料集」と三年近い写真記録活動をまとめた芥川仁写真集「水俣・厳存する風景」の刊行。そして、砂田明の演劇「苦海浄土・海よ母よ子どもらよ」が十年ぶりに全国勧進興行の幕を開けたことなど。その一環に、水俣を描く初めてにして本格的な障壁画「水俣の図」(縦三メートル、横十五メートル)が記念碑的スケールで登場したのだ。
 現地・水俣では、水俣病認定申請者の九割が申請を棄却され、水俣病は厄介視のまま石化凝固されようとしている。いわばその最も「へこみ」の時期に、表現・記録活動が活発化してきた。「闘いが苦戦のとき文化がそれを支える」といった今日的状況があるのではないか。水俣の精気が不思講に流転していると思った。

 この映画に武満徹氏の音楽表現を、石牟礼道子さんの詩の表現(朗唱)を加えたいと心に決めた。音楽の世界で「水俣」はほとんど取り上げられてないに等しかったからである。
 武満氏は即答をもって応(こた)えてくれた。「海はすべての母という曲を十年ほど前に作ったが、いま海は病んでいる。海を汚した人間のごうまんさをいたむ曲を作曲したい」と言った。いわば伴奏音楽としてでなく武満作品として提出してくれることになった。それは私の頼み方に合致していた。石牟礼さんも、慎み深く映画の運ばれ方を見ながら、ようやく承諾してくれた。
 丸木位里さん既に七十九歳、俊さんの年齢と合わせると百五十歳になろうとする最晩年に、絵画表現として至難のテーマに取り組まれたお二人の剛毅(ごうき)な志。それが武満氏、石牟礼さんの胸を打ってのことだが、そのすべての背後に「水俣」の影があってのことであろう。

 「今回はこの「水俣の図」は徹頭徹尾あるがままの暗さで描ききった」と位里さんはいう。描かれた受難者群像二百八十余人、圧倒的な地獄図・苦海絵巻となった。「浄土を次に描かねば」と思いつめるなかで、八〇年春、位里さんは心筋梗塞(こうそく)で倒れた。持ち直して昨秋行った一両日の水俣の場面、そして浄土編に相当する画想を筆にし始めたところで映画は終わっている。実にジグザグの旅に私には思えた。
 表現者にとっって水俣とはーそれは、絵画、音楽、詩、そして映画それぞれの独自の表現の底の共通のテーマであった。映画はそのなかにもうひとつの水俣を描けたどうか。見る人びとのご批判を持つのみである。