不知火海水俣病元年の記録-第二部・完 ー深海の町に水俣病を想うー(承前) 『暗河』 春季号 暗河の会 <1981年(昭56)>
 不知火海水俣病元年の記録-第二部・完 ー深海の町に水俣病を想うー(承前) 「暗河」 春季号 暗河の会

 知事殿の年中行事

 水俣病事件史の四半世紀に及ぶあいだ、不知火海の南西の端、大瀬戸に位置する、天草下島、牛深市深海町はしばしばのべたように漁民補償はおろか、水銀汚染のいかなる危惧の可能性にも、つねに圏外にいた。先号で一本釣りの村、深海の衰弱について、それが海の汚染によるものでなく、漁民社会内部の腐蝕、漁民どうしのせめぎあいといった感をのべた。水俣湾とその周辺漁民が漁業を失うにいたるいきさつは、ひとえに、水銀汚染であり、水俣病事件による漁民社会の崩壊であったその鮮烈な像に比べ、深海のそれは不知火海の”内海漁業”の変遷の基本的な様態にすら思えた。じわじわと、それも抜きさしならない流れにゆるやかに押しながされて逼迫の度を年一年と強めているといった形においてである。
 私は八〇年春から夏にかけてのわずかなロケ期間の宿にいて、この深海をみたにすぎず、関心をよせてからといっても、ただ四年間のべっ見でしかない。だがその地で得た人々との話や実見をつなげるとき、私には水俣病事件という耳目をあつめた事件のかげで、一見、何の記録にもあたいしないような些事のつみ重ねで、いつの間にか崩れゆこうとするこの「深海の鯛」のこの村の一時期に立ちあっているのだと思う。ここにさらに、この村について紙数をついやすことをおゆるしねがいたい。

 五月半ば頃から、深海はおしのびで鯛つりに来る沢田一精熊本県知事一行の受け入れが進んでいた。「やっぱ、深海に来らすもんなあ、毎年とはいわんが、いつもおしのびで来らすとよ。魚つりのすきな人らしか、あん知事は。鯛つりといえば、よそはいかれんもん、まっすぐここに来らす。深海は鯛じゃちと知られとるばってんなあ」と漁師たちは相好をゆるめるのである。
 その五月一日、沢田知事は県の水俣病認定の答申で一人をみとめたほかあと九一人を棄却処分という蛮勇の大ナタをふるったことを知るだけに、そのおしのびの遊びはひどく私の胸につかえるものだった。予定の五月二十五日日曜日が来たが、彼らはこなかった。ヘドロ再開(六月六日)や川本輝夫・高倉史朗両氏の不当逮捕の処理に追われたのであろう。
 「来られっとなら、釣れればよし、釣れんとなれば大ごとたい。まこてせからしか、気をつかいますもんなあ」と。これはまさに大名・旗本の鷹狩りを思わせる。が、そうした話題でにぎわうとき、深海の鯛の本場意識がおおらかに人々の面に浮かぶのだ。それをみることは私には慰めではあった。が、同時に一面で見るなら、知事殿のこの年中行事は、深海の鯛があの水俣病と無縁であることを知事に証明してもらうことにもなる。それは一本釣の深海が、売り出すまでもなく遊漁地として、年一年と地力を発揮してきたことの裏付けにもなった。のちにのべるように、深海の生きる道として、観光漁業が大きく登場することにつながる。この知事に選ばれたおしのびの行楽は、その象徴的エピソードでもあるのだ。

 マイホーム仕様の建築

 深海の町の変貌とそのディテールについて、いくつかのことを書きとめておこう。細部にこそ真実が宿ると思うからだ。
 水俣にすでに一カ所の海あそびの浜もなくなってから十数年になろうか。その海岸線の埋立てや護岸の推進因子は、チッソの廃水プールや、積出港、工業港など上からの工業都市型でありいわば”外圧型”であったのに比べ、深海のそれは町とその生活の内部からの近代化、むらの公共性といった”内圧型”ともいうべきものであった。
 天草の不知火海沿岸の漁港の多くが、リアス式の、山の迫った入江に発達したものが多い。上島の姫戸、竜ヶ岳町の樋島、池浦、倉岳町の宮田、下島の大多尾(新和町)、宮野河内(河浦町)などの港みなとがいずれも山を背負い、漁家は過密ともいえるほど軒を接し、その間の細い漁師道は、人の肩幅と魚の荷を通すには足るものの、自動車の通れるほどの幅はなかった。深海の”中央道路”なるものも、そうした漁師道を明治以来、長年かかって通りにしあげたといったたたずまいである。
 通りに面して網つくろいの民家の縁があったり、五右衛門風呂や廓が外から見えるようにあけっぴろげであったりするのも、漁師町の道の文化から言えば奇とするものではない。さぞもらい風呂には便利であったろうし、祝い事があれば、いまでもその路地は煮たきの場所になり、となりのくどは当然のように、煙をだす。漁師道は共同体の内部につくられた”通い路”なのだ。
 街にバス停は二カ所、一つは下島を縦断する国道ぞいの河浦町・一丁田方面ゆきであり、一つは沿岸ぞいに牛深市につながる。朝七時頃、牛深ゆきのバスは勤め人と牛深高校の生徒でラッシュになる。ついでダンプやコンクリート・ミキサー車が、両方面から護岸、築港現場にむけて走り出す。新学期の四月、交通安全訓練のデモが小学生によって行われるようになった。

 この町にも新築・立替えの時期がやってきた。金と格式のある一、二の漁家が、小庄屋さんの古いレンガ塀をまねたのか、高塀をめぐらしたが、それは例外のつくりであり、多くは当世どこにも見当る規格品の住宅である。しかし、その間取り、とくに台所、玄関の寸法は、都会風のチンチクリンなセセコマシイものばかり、土間もなく、あみつくろいの縁側もない。古い家のときは、土間においていた、ハエナワかごや、かしあみなどは、新しい仕様の家の場合には置き場がない。ひろげてするハエナワの餌つけのしごとなどは、青々とした畳の上に四畳半ほどの漁業用ビニールシートをひろげてしなければならなくなった。
 もらい湯にいくにも、下駄をつっかけて五右衛門風呂をかりるといったわけにもいかない。まずは玄関から入って、居間のわきをぬけ、ちょこんとしたガス風呂のある浴室にいくのだから、一寸気づまりではある。
 こちらの台所から声をかければ、窓ごしにおかずの鉢を隣家に手わたすといった窓の風情も閉じられ、何とも文化住宅は家を個人単位に区劃して、家々の独立を強いる。かつては、漁家特有の汐風の通りぬけのよさそうなたたずまいや、生活空間そのものであった路地は、コンクリート・モルタルの建造物の膚の間のただの通路になり、ごみ袋やプロパン・ボンベの置き場になってしまった。路地を歩けば疎外感が足もとから這い上がるようだ。「気に入らんですばってん、むかし風の大工のおらんもんですもんなあ。選ぶちゅうことが出来んでしょうが。むかしは狭か家でも天井うらつかったり、土間のすみつかったり・・・。わしらが新しい家を作ってみて分かったばってん、いろいろ漁の道具のしまわるるとこがあったもんです。そいが新しい住宅は、これは子供べや、これは客間、これは食堂とありますばってん、あみつくろいの手をやすめて、ゴロンと寝るとこもなかですよ。」
 家のうちもそとも、個人の占有の規格がやけにくっきりとした反面せせこましさが鼻づらにさわるようだ。かつては職住をかねた漁家に、いまは勤め人のマイホーム仕様の建築を有無いわせずあてがっている。

 核家族をモデルにしたこのような規格品の一戸建住宅は、人口の過疎化にもかかわらず住宅の過密化をもたらした。いきおい土地問題がここ深海でも深刻になった。まして中学を新設し、老人ホームや消防小屋を建てるとしたら、すべて埋立てや、窪地を利用しての土地造成をするしか土地の余分はない。土地のその造成費によって、町の中心部の地価は新設の郵便局うらで坪一五万円、町はずれの造成地で坪数万円にもなった。それでも土地があればまず良しとしなければならない。
 飲み水にも金がいるようになった。
 急斜面の山を背にし、たえず飲み水に不自由をかこった町は砂防ダムをかねた貯水池をつくった。簡易水道は個々の家にひかれ、以前のように天水桶に雨水をためたり、日照りの渇水の苦労からはのがれたが、その水道料は「日本一高い」ものとなった。私たち映画のロケ隊が宿をかりるのにも風呂の水道代が宿泊費、室の貸代と別立てであるのに、金をあつかう青年は目を白黒させていた。スタッフは、仕事のあと、湯水のように汐にあたった体を洗い流すことが、ここではどんなにぜいたくかを知らされた。住むというただそれだけのことに、何千円ほどのかかりしか按配しないですんだ生活はあっという間に変わった。新建築の家に電化製品、とくに冷蔵庫が漁家には要った。テレビ、電話代は勿論のこと、それにプロパン・ガスと水道が台所革命に拍車をかけた。「みんなたべものは切りつめとるですよ。切りつめられるとは食費だけだもんな。外からは分からんし・・・。」と私の一時下宿のあるじは言う。「坐っとるだけで月三、四万はかかりゃせんでしょか」
 彼はかつては北九州や佐賀、長崎で採鉱の現場技術者であったが、閉山あいつぐのち、その現場経験を買われて、天草陶石の深海事業所の主任となり、この地に永住の意を固めた人で、その観察は細かかった。
 「昭和四十二年でした、私がここに来たのは。新築の家は一軒もありませんでした。肉屋もまして魚屋もなく、宿も船宿が二軒だけ。テレビは三軒しかもたなんだー学校の先生とお医者さん(鶴田医院)と。それがいまはここらで一家一人あたり三万は要るちますもんな。三人家族で九万円ですか。それに冠婚葬祭じゃなんじゃで、一世帯、年間一五〇万円はなからんば暮せんでしょなあ。そん前はあんまり現金な持たんとじゃなかったですか。」

 「遊泳禁止」の波止場

 家と道と土地の変化が内圧となって、海岸線が乱暴至極と思えるほど変わった。昭和二十八年制定され五十四年度で打切られた離島振興法はたしかに幹線道路、港湾、簡易上水道、農業関連施設の建設などに絶大な力をはたした。二十余年間の天草における事業費一、三四二億円、うち国庫補助は六四・四パーセント(『熊日』八〇・四・二六)という。全島いたるところが工事現場のようになった。
 私達の滞在中、八十年四月末御承知のように、牛深市の入札談合事件が明るみに出た。牛深市の西村武典市長らが市の大手建設業者北時鉄晴らと組んで、三月の総選挙に園田直(晃山会)のため票のとりまとめを実行する見返りとして、同年度の国庫補助つきの護岸工事、港湾工事の枠の三割アップという”政治的取引き”をし、有力土建業者たちで組織的な選挙違反を展開した。市長は公共工事の入札にからんで、北時ら大手業者に談合の形でほぼ独占的に仕事を発注していたという。昭和四十八年から六年間で約六〇億円の公共事業のうち、業者の不当利得は三億円にものぼり、市長は成功報酬としてか、一千万円を収賄(現金)していたことから五月ついに辞職に追いこまれた。事露見の発端は深海町の市会議員の告発によるものだが、地元警察は動かず、直訴をうけた熊本地検は、五カ月かかって傍証をかため、収賄罪で告訴にふみ切ったという。(以上『熊日』による)
 「そういう事は、どこでんあることでしょうが。政治家も市長も、それが政治力ちゅうことで、今までもやっとったことじゃなかですか」と事もなげに老漁師はいう。「わしは福島譲次(自民党)派じゃが、地元にどれだけ便宜をもってくるるかで決まることで・・・」事実、不正談合で落札した船だまり工事がとなり部落下平港で一日も休まずつづけられていた。地元の切実な護岸、港湾工事の要望とぴったり噛みあった構造汚職であった。

 護岸とは人びとにとっていかなるものであっただろうか。漁家の密集する船津地区の浜での護岸の歴史は近々十数年のことである。その前のたたずまいを浜辺の人はこう再現してくれた。「先につき出た赤灯台のある堤防がまずはじめに出来たとです。昭和のはじめ頃じゃなかったですかな。こん家の前は、みんなで夫役をして石をつんで、階段にしとったです。船は汐の満ち引きを考えて半分位は陸にのせとったな。
 コンクリートの堤防ができるまで、漁家と渚との間に土もりの道をかねた砕石づみの堤がつくられ、海際までは階段が作られてあった。ときに干満差三米をこえる不知火海では、いまもこの石づみの堤をみかける。深海から牛深にぬける浅海、山ノ浦の海岸あたり、漁家をかこむつつましくも堅牢に積み上げられた堤には、熊本城の城壁のように必要にしてむだのない機能美があった。かつてNHKの連続ドラマ『藍より青く』のロケーションは海とこの石づみの堤をふんだんに景観として生かしていた。だが住民にとっては台風、高汐のときの辛さの方が身に恥みていた。
 「そりゃ、岸壁はわしら浜に住むとには悲願でしたな。大汐のとき台風でもきてみなっせ、海のなかとおんなじ、波ばかぶって家中ずぶぬれ。ふとんとたたみも塩ふいてな。いまでもひどか東南の風のときにはしぶくとですばい。しかし昔と比ぶればうそんごとある」
 背に山を負い、海を目の前にして、石積みの工夫だけで自然の災害を防いできたそれまでの才覚にとって、この護岸工事が安定した四季の生活をひとびとに与えた。だが一方、「遊泳禁止」 の立札の立つ波止場ともなった。老人や婦人たちの再現図を辿る。
 「石の階段は子供の遊び場でしたよ。こまんか子でも・・・。そう高か段々じゃなかったですばってん。それがですな、この堤防は高かでしょう。目が届かんことがあっとです。子供が海にはまったちゅうても分からんとですよ。そんで禁止ちゅうことになったわけ。コンクリートは石とちごうてひらべったくしてつかまるところがなかでしょうが。むかしは誰かが見とるし、見えとるし。子供の遊ぶとにゃ誰も心配はしとらんでしたもん。いまチョコマカした坊主でもひとりでさるきゃ危なかもんな。そんで今は”安全第一”ということで一応ああやったるわけです」 と立札の理由を話してくれる。
 町の子どもは夕方まで、開放された小・中学校の校庭で遊ぶ。水泳は中学校にあるプールに限られた。「近ごろじゃ漁師の子で泳げん子がおるとですたい。おかしかなあ。わしら、河童の子か何じゃやら分からん風に育ったがなあ。うんにゃ、養殖のせいじゃなかです。海のよごれはあるばってん、そのせいじゃなかです。危なかちゅうことです」
 波止場にカメラをもって子供たちのスナップをしているとき、かんだかく「アブナカゾォ」ととぶ女の声をきく。ビクッと幼ない子のすくむ顔がある。海を”怖い”ものとしてうけとる漁師の子らの幼児体験はどのようにあいなるものか、とその時思う。

 消滅した自然海岸

 漁家の密集地区の渚だけが岸壁化されるのではなかった。海ぞい二キロに満たない深海町、その船だまりの外の海岸線もすべて護岸堤防がならび立った。まず町の公共スペースが埋立てでつくられ、それが牽引力となったのである。郵便局、農協、駐在所、老人クラブ等が一かたまりの新造成地にあつめられた。深見中学の校舎・運動場等もすべて海の方に張り出し岸壁で仕切られて造られたものである。
 町の西のはずれに町の船大工もまとめてうつされた。二つのプラスチック船の造船所を中心に工場団地がレイアウトされ、一方東のはずれには埋立て地の分譲宅地団地が作られた。三月深海に入ったときには引き潮どきに浜あそびできた砂浜も、夏には漁協の冷凍庫用地として海に基礎ブロックがつまれ、海にまっ黄色な濁りを拡げていた。
 船で深海に近づけば満潮時は海に浮かぶむらとして一幅の画のようであるが、干潮時は、見上げるばかりの城壁にとりかこまれ、海を拒んでいる砦のようだ。かくて深海町の全海岸線、そのほぼ百%が人工岸壁化された。
 加えて天草下島沿岸の町々をむすぶ県道は、岬部をのこして、海際を走る。その路肩はすべてコンクリートで護岸された。こうしてこの十数年のあいだに、ここ天草においても、自然海岸はつき出た岬とはなれ小島をのぞいてほぼ消滅した。
 「日本本土の海岸線のうち、自然海岸は四九%に減った。残る自然海岸は総延長の四割を占める離島の自然に負う所が多い」(八〇・八・一二環境庁・全国海岸調査)この調査にのべられた自然海岸を保持する離島のうちのひとつと思われた天草は、その実情は本土以上とすらいえるのだ。

 水俣でもよく聞かせられた話が、ここではより可視的に語られる。「前はですな、そん石垣のとこまでスズキのチヌのってきよりました。ポラ仔は夜にゃはねて、バチャバチャしとったですもんね。”父ちゃん、酒の肴に何すっと”ちいえば、父ちゃんなタモもっていきよらしたつばい」
 おそらく砕石は小魚の魚礁であり、小がにやエビや、貝のすみかであったろう、魚と共生の自然のリングのひとつが浜であり、石づみの堤であったに違いない。
 切り立った六郎次山から流れでる深海川はエビの棲息地に適した砂をはこんで、小デルタを形成していた。”エビで鯛をつる”のそのエビもそこに生きていた。
 「そんエビがバタッとへりましたなあ。ごくこまかあんハサミばチカチカ鳴らすチカチカはおりますばってん、エビはおらんごつなりました。エビのおる砂は、しょっちゅう網ばひいとらんと悪うなります。放とけば藻でん泥でんついてエビがすみにくくなるらしかですな。網ひけば、藻もエビもひっかかるが、そんで砂地も砂地らしゅうなるわけ。エビはひるまは砂にもぐっとるでしょうが、そのもぐる砂がよごれたり藻のついたりすればだめじゃもんね」
 その漁師たちの指さすところ、舟だまりのむこうは、大汐のときに砂地がその姿を見せる。チカチカエビやビナが棲むものの、エビの棲息するに足る微生物群は斃死したであろうか。「いま生きエビ、あん鯛つりや鯛なわにつかうこまかエビは鹿児島の獅子島の与一ガ浦まで買いにいくとです。深海の鯛とりがエビを鹿児島に買いにいくんですからなあ」と老人は辛そうだ。
 鹿児島県獅子島といっても、船足の早い今の船なら一時間あまり、若い漁師には苦もない距離であろうが、老人の育ったろ舟では「いきかえり一日仕事」だった。繊細な生物を岸壁は破壊した。一本釣の基盤はこのミクロの世界に依拠していたのである。

 漁師が魚ば買う・・・

 あくまで滞在中の見聞にこだわっての話をつづけよう。
 深海の町に、本格的な冷凍装置つきガラスケースの鮮魚店ができた。小さなエアポンプのくだのついた生けすの水槽のあるものの、もっぱら、やすい大衆魚を売る店である。しかも、農家の多い多々良地区あたりにではなく、漁家集落船津の中心にである。サバ、サンマ、養殖ハマチ、キビナゴ、イワシ、イカ、タコ、生ぼしの干物、アサリ等が並んでいる。それまで、これらの大衆魚は、野菜や果物と一しょに行商の車で運ばれていた。二台の行商車が夕方、宮野河内と河浦からそれぞれテープで民謡を流しながらやって来たものだ。
 せんさくずきの元海軍軍人鶴長千年氏によれば「漁師が魚を買う時代になったんですなあ。十年前までは、いろいろのしかけで、いろいろの魚をとっとったでしょう一つ家で。それが、いまはフグの、タイののほかはとらんもんなあ。高級魚をとらんことには暮しはたたんもんですけん。自分らの口には入らんですよ。ですけん、安か品物を買うとですよ、金ばはらって。いまどき女房も働いて金もっとらすからな、真珠工場とか縫製工場とかで働くですから。で魚店もなりたつと思うたんでしょ。あん商店はじめたとは漁師じゃもんな。」
 たしかに女・子供でも魚は海から得てきた。築港工事や護岸の土方仕事に出ている老婆や主婦たちが、昼休みに、釣と糸だけの道具でガラカブを釣るのをよく見かけた。煮つけにして晩のおかずにするという。
 根っからの浜辺の漁師、浜崎さんは、「小さか子供のおもちゃたい」といって柴カゴをふたつ、眼と鼻の先、水深二、三メートルの瀬につけている。金網のネズミ捕りのお化けのようなカマボコ型のかごの天井に、広い葉の小枝が組んでくくられている。餌もなにも仕込んではいないが不思議と小魚が入る。それを手漕ぎの伝馬舟で夕方に揚げては、おかずの一品にする。それがまた子供の毎日の遊びでもある。
 「魚は海ん中でも陽かげにつくですたいなあ、ガラカブやときにクロ(ダイ)もイカも何でん入るとです。大体魚はこまかときは浅かとこを好きますばってん、岸によってくるとですが、そこに日かげがなからんばつまらんらしかですなあ」。その日かげをつくる海辺の樹々が見当らなくなって久しい。
 「ほんに岸壁ぽっかりになってしもて・・・。そん家のそばも漁協の冷凍庫をつくるとかで掘っくり返してしもてですなあ。浜とか磯とかで魚は育っとになあ。こんカゴももっと離れたとこになおさんばと思うとります」
 女・子供も自ずと身につけたお菜とりの才覚、その意欲のひだにあった自然そのものが削りとられ、人工の海岸に変わったとき、わが庭なる海は消し去られた。そして店での魚買いの習慣に急ピッチに変わった。だが変わり方はさまで痛みをともなうものではない。新しい経験であり、すでに行商車で魚かいにならされてきて、ごく自然に受け入れやすい形で目の前にこぎれいな店があらわれたのだから。  鶴長さんはいう「矛盾してますよ・・・、しかし漁師ばかりじゃなかとです。百姓もそうですよ。もうこのあたりミカンは箱代にもなりゃせんから、いまは温室キュウリでしょう。花がよかれば花ばかり、なっばのネギのと野菜は買っとりますもんね。現金の入らん品物な作らんとですから。漁師が魚ば買う・・・百姓が野菜ば買う・・・どげんなっとかと思うですたいね」

 スーパーもスナックも

 私の宿をかりた陶石現場主任の森田さんの家は三年前坪二万で買った造成分譲宅地にある。そのむかいがM縫製工場で婦人の下着のミシンぬいの下請工場である。四、五十人の主婦の労働力をあてにした進出企業だった。日給月給で平均七、八万円とのこと。この現金収入の途は、土工や真珠の仕事より清潔で、拘束時間がきまっており、若い主婦層に好まれた。町はずれのため二輪車で八時定時に出社する。その八割がミニ・バイクである。自転車でも十分の距離だが、八千草薫のテレビ・CMのイメージそっくり、つばつきヘルメットでモダンな主婦の出勤風景がある。さすがに漁家の主婦は船にのる機会の多いため少ないが、町の二十代から四十代の主婦の希望の職種であった。町に公立(2)・私立(1)の保育所があり、育児(授乳期を終えた一歳児以上)の収容力にはゆとりがある。主婦たちは婆さんに帰りの子どものむかえをたのんで心配なく働くことができる。そこには内職とは別世界の労働イメージがある。家事労働から身軽になった主婦の行動力を吸収するにたる新規事業が、時宜をえて町にはまっていた。
 海の畑作業ともいうべき真珠のしごと場として、天草海真珠、九州真珠の二事業所が入江の内側にある。計二百人近くが働いている。婦人の稚貝の手入れ、タネ入れ、タマとりの労働力を求めはするものの、冬場三、四カ月は”冬眠”し、婦人たちをレイ・オフする。その間収入が安定しない。そうした仕事につく婦人は中高年世代に限られるようになったが、小さな町にほどほどのバランスをとって縫製工場と真珠事業所が婦人に現金収入の途をいまや生活費の上で不可欠のものとして与えている。

 急ピッチの都市化の数カ月を私は深海で目のあたりにした。
 春、よろずやのように米・塩・酒から衣服・靴までうっていた町の中心地の古い店が、食料、日用品を分離してスーパー・マーケットスタイルの店を新築した。全店内冷房でセルフサービスの珍しさからか、子供から婆さんまで、一日に何回とのぞいたり、買いぐいしたりする、新社交場ともいうべきスペースとなった。町の商業マップはこの一店の出現ですっかり変わったといってよい。所々にあった小さな店はまともに影響をくらったであろう。その若主人は地元育ちだが都会生活の経験もあった。あかぬけた妻も、その都会からともなって帰ってきた。大げさに言えば、深海の正真正銘の自然色の中に人工色夜光塗料ぬりの世界がはまりこんだようだ。都会ではあたりまえの宅配のサービスも、ここでは新鮮だった。バイクで十分以内に配達される。「店にいかんでもすむもんな、電話一本で、まこて楽なもんだ」とひとりぐらしの老人などはいたく気に入っていた。卓上電算機の勘定書きのカードが束になって手許にあった。
 夕方五時、漁家集落に夕餉の煮たきの臭いがただよい、五右衛門風呂のまきの煙が、ひと筋ふた筋立ちのぼる頃、制服姿の縫製工場帰りのバイクにのった奥さんがスーパーに立ちより、軽く爆音をたてて帰り去る。その生活のリズムは、都会的というより新たな消費者層の小世界が出現したようだった。
 同じ頃、純都会風の深夜まで営業するスナックが開店し、従来あったものに加えて三軒となり、更に便船の舟つき場に、スペイン風の屋根と窓をもつスナックも建築されていた。
 一九七七年巡回映画の体験によれば、天草では北は上島の姫戸から下島は牛深に近い山ノ浦までの漁村部でコーヒー兼スナックのあったのは深海だけであった。そのときの一店が三年の間に四店になった。
 その店のカラオケ装置は都会でもカラオケをうりものとする店の規模、性能と匹敵していた。四囲にめぐらした鏡や、シートはその店のつつましい営業のなかみに比べ、資金を投じ過ぎたのではないかー、いずれの店も若い夫婦と近縁の娘、牛深に働きに出ているOLの手伝いといったもので、人件費はかさまぬとしても、この濫立とも思えるスナック群が人口二千六、七百人のむらの中で成り立つものか危ぶまれてならなかった。だが成り立っていた。
 客は公務員(郵便局員、教員)、団体事務員(農協、漁協事務員)のほか漁民、商店、農民と雑多であるが、近くの牛深町に勤め人として働く若い層がこの町のスナックに吸収され、夜ともなれば、どこから湧いたかと思うほど青年が集まった。Uターンのほとんどないといわれるこの深海のことである。旧青年団が形をかえて、この形をとって復原したのかとさえ思われた。しかし決して青年団ではない。消費型レジャーに集まった個々の青年たちでしかない。団結の場でも青年団のかつてのルールの生きる場でもない。理屈ぬきにスナックであり、カラオケバーであり、テレビカメラつきの独演会で唄いまくれる場なのだ。それは、かつて都会にあこがれたいくつかの要素のひとつを充すものの御当地における出現であった。”外資”が入ったのではない。”内需”のあらわれなのだった。
 「牛深にいくとも、本渡に遊びにいくとも、ゆきも帰りも車でしょ。かえりは酒気帯び運転ばっかしよ。パトカーは怖いし、遊びはしたしで、辛かよ。ここでならいくらのんでも這ってでん帰れるもんな」「女はここはおらんが、女と遊ぶとは熊本よ、熊本までいかな。本渡もだめ、途中はどこもなし、熊本だけ。酒を友達とのむとなら、ここでよし、じゃなかですか」
 「東京の、大阪のって、盛り場は一通りは知っとるつもりよ。でもあんたこん店どげんですか、ちょっとしたもんでしょう。ボトルも安かけんな」
 たしかに夜、四囲の静けさと暗さと早寝の人びとのすむ漁民集落の中で三カ月もロケ暮しをしていると、心が乾きがちである。映画スタッフの若ものは毎夜私の眼をまいて通うのもむりはなかった。そしてそこは全く都会もんも深海の人もへだてなく一様になじめる”顔みしりのスナック”になっていた。他所者の差別感もなく、映画スタッフへの排他的な雰囲気は皆無だった。むしろみなに楽しく遊んでもらったようだ。深海はやはりやさしい町であった。

 あえて都市化とは言えない。日本の典型的消費型文化の波のひろがりがここまで来たまでのことである。その消費型文化の染色力はごくなだらかながら、しかし強く、即乾性をもってくっつくものだと思う。深海の漁民のあとつぎはごく稀だ。二十代のあとつぎは指折り数えるほどだろう。この”夜の深海”に見る青年たちも、この町育ちながら牛深市の近郊住宅地型の意識をもつ勤め人である。この青年たちと漁業の将来とを結びつける共通項は今のところ皆無といっていいだろう。

 漁家の後継ぎ

 一九七八年、牛深市教育委員会は、漁業の後継者の把握を眼目としたアンケートによる調査を行った。牛深の地場産業は何といっても漁業である。人口二万四、八八一人、七、七七三世帯。産業人口総数九、六四五人中、漁業・水産養殖業二、二八五人である(一九七五年・牛深市統計要覧一九七七版)働く全人口のうち二三・七%をしめ、七九年自然魚の水揚げ三万三七〇三トン、養殖魚のそれは二、六四二ン、推定七七、八億円の産額を上げている。(市・広報記事より)。全市の人口の赤子まで含め一人あたり八十万円近い金額を海から稼ぎ出している、いわば漁都である。
 だが牛深の中学生中漁家子弟を対象として、将来漁業者となるかどうかを問うたが、「漁業をする」「漁家を継ぐ」とするものは漁家の子弟の六%にしかすぎなかった。(牛深市教委資料による)
 私は映画のための予備調査で、深海小学校六年生の卒業にあたっての文集を分析してみた。五十名前後の卒業予定者の中で漁家子弟一六名。それぞれが将来の志望をのべているが、勤め人、教員、保母さん等いろいろであり、漁業をつぐとはっきり志望をのべたのは双生児兄弟の二人、つまり一家庭の子弟だけだった。漁家後継者としてはまさに牛深市の示す六%である。
 その後この双生児兄弟、大作・祐作君には映画に出演してもらい、その性質を親しく知る機会を得た。その父親鶴長明秋さんは漁師として中堅ながら信望厚い人であり、慈愛にみちた育て方をしていた。船になじませ漁に親しませた。兄弟とも絵がうまく、とりわけ漁村の写実画は私を唸らせた。漁の道具、浜辺の生産具がひとつひとつ描き分けられているものだった。他の「いい大学に出て出世したい」と書く子より成績も優秀と聞いた。
 ふたりはそれぞれ”漁業者”になると卒業記念の文集にかいていた。だが”漁師”という言葉遣いではなかった。ひとりは「水産業の中で働き、両親を楽にさせてあげたい」とかき、ひとりは「出来れば鶴長水産という会社をつくり、社長となりたい」とその将来を描いていた。そこにいう「水産業」とか「××水産」とはこの深海町にも漸次数をました養殖漁業でありその用いる法人名なのである。漁師をもうひとつの仕事として視野に置いていることは確かにしても、主眼は、もはや一本釣にはなく、養殖漁業者、つまり企業家として一家を成そうとする志をのべているのだ。
 深海の養殖は他のそれ、とくに鹿児島県長島の養殖に比べたら中企業と零細企業ほど規模がちがう。それでもハマチ、鯛を中心に十七経営体に達している。それらは夫婦プラス兄弟の労働力か、親族の共同出資による小規模相応の安定した経営を計っている場合が多い。他に雇用する人件費を捻出する余裕はまずないからだ。仲のよい双生児兄弟にとって、周辺に見ききする養殖業ならば手のとどく範囲の生活設計であり、一家兄弟で生きる上でもてる展望なのであろう。
 このただ一ケースの少年について、もう一つのエピソードを語ろう。六月五日、全町民あげての体育祭が開かれた。大人も子供もすべて集落別にチームが組まれ、その対抗競技で競争心を盛り上げていた。全町が十部落ほどに分たれていたが、漁家集落船津はそのひとつ、しかも強豪ぞろいの名門チームであるらしかった。誰もが自分の集落チームの勝ち負けに熱狂する。大人の場合、親しみをこめた罵声も飛び交うのだが、そこは子供、子供たちの出場のレースには”みなひとしくわが子”のような思いやりがある。いわばとびぬけて早く、つよい子より、しんがりをつとめる弱い子を専らはげますといったように。しかし大作・祐作のときだけはちがった。船津の衆の見る眼が、部落の生んだよりすぐりの駿馬を愛でる風情があるのである。リレーにせよ徒歩競争にせよ、それぞれふたりとも当然のように先頭をとり、首位をかち得た。「ほんに良か子じゃのう」「いい若い衆になるぞ、あいつどまあ」といった優生種を誇る気持が流露していた。誰彼を問わずいずれは漁師として育つことになるかも知れない。「大学を出て出世」の坊主も、親のタコ壷を継ぐかも知れない、しかし、この双生児兄弟に、おのずとそなわった”むら長”の資質を船津もん全体で抱きつつんでいるーそうした後継ぎ待望の願いが無言のうちにこの二人に伝わっているのではないかと思われた。そのふたりにして、将来は”水産業”なのである。

 零細な養殖漁業

 深海の海に二〇年近く前から、最良の湾内部にイカダを並べているのは真珠業であり、いわば外来資本である。その契約は十年更新である。その最適海面を真珠にゆずった深海は後発の養殖業がたとえ地元漁民であっても、真珠会社にその”一等地”を立ちのいてもらうことは考えなかった。更新期こそ十年区切りであるとはいえ、ほぼ半永久的に海面利用権を認めている。「『また十年更新して下さい』『ああそうですか』これだけじゃもんね。簡単も簡単」と若い養殖者が笑う。残る湾や入江の海面は真珠イカダのある場所より波浪に脅やかされやすく、生活排水のにごりの多いところから一段と利用効率の悪い”二等地”である。しかも他の海区に比べ入江が深く入り込んではいない。その有限な海面を分かちあうのだから一経営体あたりの規模はすぼまらざるを得ず、四角のいけす十台前後が平均であった。他の漁協では一経営体少なくとも数十台から百台が普通といわれる。
 深海での平均例とみられる浜元牧男さんは、千五百万円を投資し、ハマチ八千匹、タイ一万匹、クロイオ一万二千匹、計三万匹を十台前後のイケスで養殖している。二年目である。ハマチは出荷に近づいているが、三、四年の養殖期間を要するタイはあと二、三年。今年はタイの自然生の稚魚(二五センチ)が一匹一五〇円とも言われる。人工フ化のタイの稚魚はほぼその三分の二か半値だが、人工フ化の過程で背骨の曲ったものや、尾や背のひれの変形したものが少なくなく、餌代をかけて育てても、買い叩かれるといったリスクを背負う。そして深海は吾智網のときもそうであったように、何事も周辺漁民の成功譚の後を追って始める-、だがそのときには養殖の投機的要素が変動を始めているのだ。
 「思案に二年かかったですばい。親兄弟、漁協から金かりて養殖に踏み切ったときから、”魚ばなれ”でしょう。値は上がらんといいますもんね。ハマチ(キロ八百円~千円)はもう品物があっちこっちに多かで、飽和状態じゃちゅうし、タイもこん頃は安かもんなあ。養殖んとは天然もの(キロ三、四千円)の半値でしょうが。最近はカレイが脚光あびとるもんなあ、天然カレイとそう変わらん値で売れるちゅうとこで、カレイじゃあ、カレイばやってみんかと仲買いがせからしか言うし・・・、”新製品”ちゅうとこですたいな。まこて、くるくると目先の変わる品物ば言うてくるもんな、どげんするとですか」たしかにカレイについでトラフグの養殖と情報は入りみだれて入ってくる。流通過程から”新製品”製造へと尻を叩かれている内実が聞こえるようだ。               
 「やがて一本釣だけでは立ちゆかんごつなるちゅうことでやり出したばってん、こん深海で”一ちょうやって見るか”ち思う頃には、世の中の方が、ころんころんと変わってしもとるでしょうがー。何ばたよりにしたら良かですか・・。いけすですか。それが増やしたかばってんもう深海では、いかだをのばすとこ(海水面)がなかでしょうが」

 たしかに海岸線の深く、大小の無人島の島影を利用できる対岸の鹿児島県長島のような地形の利はなく、養殖に全組織の力量を投入して、超人的な采配をふっている東町漁協の宇都時義氏のような領導者も深海にはない。更に、東町のように国、県に働きかけて、岬や湾口に消波堤をつくり、海水面に人工的に養殖用水面を造成するといった、事の是非は別として”養殖業者組合”ともいえる東町漁協のような政治力ももてない深海にとって、養殖事業はすでに限界状況に来ているといっても過言ではないだろう。こうした状況の中で、大作・祐作君の”水産業”への志はどのように試練の多きものであろうか。

 この深海のまちに、現金経済を軸とする生活に音をたてて捲きとられていく不知火海の漁民社会の一端をみるにつけ、その現金経済のいわば被害者自身、さらに現金信仰を篤くし、みずから現金経済への工夫に身を砕くのを見ることになる。そして、同時に、一本釣の漁師に、そのながい生活史のなかでおりたたんでしまわれている「一攫千金の夢」もまた全くの虚妄ではないのだ。そこに海がある。魚がおる。それは漁師のすなどりの本性をゆすぶる無上のよろこびであり、戦いでもあった。金銭はその成果として返ってくるもの、千金はその一攫の報酬であったのだ。今も、この現金経済の押しよせるなかで、腕一本に自侍をもつ老練の漁師はいかにとれない日々がつづこうとその一攫の機会をのがすことが恥のように精励に船を出して漁場を一巡しつづける。

 遊漁船の船頭

 たしかに海の賦活力と人意をこえた海のしくみはいまも不知火海に漁民伝説を生みつづけている。海の衰弱に年毎に打ちのめされているさなかに、たとえば深海の場合、一九七六年・七七年の大鯛の大挙しての八幡瀬戸への回遊がそれである。古くは、一九七三年の熊本県計石沖の赤エビの大発生や、七五年のカタクチイワシの大漁などが、漁民に恵みを不意打ちのように与えて去る。一晩に夫婦で大鯛を二百キロも挙げる日が半月もつづいたといった話が、その後数年の不漁にもかかわらず漁民の心をとらえつづけるのである。
 深海での新型プラスチック船の建造ブームも、三、四年前の大鯛の大漁を機に湧き起った。百馬力の高速漁船の登場もその後である。標準的なプラスチック船(四トン前後)・四十馬力前後のジーゼルエンジンの場合、当時で船体二百七十万、エンジン二百二十万、魚探等六十万円で、五百五十万円であった。その二割を自己資金として作れば、漁業近代化資金で残る資金を得ることが出来た。金利は年五・五分で銀行金利より安いものであり、五年間の分割返却制度は、当時の大鯛の漁況からみれば、楽なものに思えた。しかしその船は今までの夫婦での操業の仕様にきりつめられた船体設計とは全くちがって、遊漁船も兼ねられる仕様に変わった。もし”自由漁業”が間断なくつづけられない事態となっても、遊漁船で稼げる方便をそこに見込んでいたのだ。日よけの天幕をつけ、客の二、三人もぐって雨露をしのげるブリッジをしつらえ、船上酒宴のためのプロパンガスから炊事用具まで入れるスペースが作られた。船のスタイルも流線型がより追究され、高出力のスピードは不必要なまでに競われた。この遊漁船化はしかし本業の一本釣の”保険”であり、好んで客を取る遊漁船の舟頭にはなるつもりではむろんなかった。
 だが、この傾向を方向づけ組織化したのは次々に新築・改装された遊漁客用の民宿だった。昭和四十年頃深海に二軒しかなかった船宿は、新築の三軒を加え五軒となった。そのいずれも釣客用である。民宿は練達した漁師をその新造船とセットで専属化し、自分の漁より優先して遊漁船の舟頭となることを求めた。一日平均燃費餌代こみ一万五千円前後である。民宿では客を収容できる部屋数ぶんの専属漁師を系列化し、満客の場合も船と舟頭を確保することで同業の民宿に対抗した。こうして、漁師は○○荘所属、××屋所属とおのずと分たれた。
 そして深海の場合、やはり”深海の鯛”なのである。雑魚ではなく、ましてフグでは勿論ない。
 水俣の湯の児温泉の太刀魚つりと深海の鯛つりとではアマとプロほどの釣り客側の欲の差がある。深海に来た以上、鯛を釣り上げなければ甲斐もない。しかも、昨今の客は自分のつり上げた鯛のキロ数にうるさい。それで時価いくらの鯛と金に換算する様子に漁師はおどろきを隠せない。水俣・湯の児の太刀釣りのように、あの銀鱗をふるわせる太刀魚の魚信をたのしみ、舟上でさしみにして喰らい、風景をめでてこころ充たされるという風雅さはここにはない。それはいつに鯛が高級魚だからだ。さしみにして船上でたべもしたいが、一方「売ればいくらな。あんた漁協に売っちくれんですか。」と欲を出す。「近頃はあんた、常連さんに、料亭の板前さんや、セミプロみたいな釣師さんがいてな、とったとば『ぜんぶもって帰ることはなか、金にして帰ろい』とこうですもんな、そりゃ、わしが釣ったごてすれば漁協は何もいわんで引きとってくるるがな。またな、大きな声じゃいわれんですばってん、板前さんなあ、自分の料亭に魚河岸値段で引きとらすちゅうもんな。そんなことをとやかくはいいはならんが」とことばをくぐもらせる。
 漁師にはやがてなじみのお顧客さんができる。どうだ釣れるか、いってもいいかと電話でせっつく。「もともと天候と魚況は天の運、来たければ来させりゃいいのに」と私は思う。しかしそこは漁師はかたくなだった。船を出せば、釣れなくとも手間賃なと出るのに・・・、自分だって客のあるなしにかかわらず、海に舟を走らせているのにと思うからだ。
 気ばかりはやる遠くの客の声を聞き流して電話口で確実に釣れそうな頃合いを説明して倦まない老漁師はいう。
 「来てもろて、釣れませんでしたじゃすまんばい、わしらは漁師が天職でしょうが、舟頭は舟の上じゃ大将ですばい、釣れんと分かっとるとに、遊びにきてよかちたぁいいならん。」
 
 そして汐どき、遠来のお顧客さんと沖に出れば釣客の手ぶらの場合を思んばかって、「借りをつくるのはいやじゃけに」責任すら感じて、鯛をつり、生かしておく。そして、最後には客がつれようとつれなかろうと、「まあ持って帰んなんせ」ともち帰らせる。それは深海の漁師ならばだれでもしていることだという。
 「なぜかちな。そりゃ舟頭の手間はもう客から貰うとるでな。そん鯛はそんお客に縁のある品物じゃちゅうとてろですかなあ」これを聞いて、私は心の中でむせんだ。全国どこの遊漁船にこのような”文化”があろうか。どこにこのようにたぐいない優しさが残されていようか。だがこうした深海の漁師の心根を、釣り人誘致の殺し文句にしかねない風潮の登場する日をおそれる。現金経済の風潮のスピードと同じ風速をもってである。”釣り人天国・鯛つりの秘境・深海”といった観光だけの価値に、ここの漁師さんたちがとりこまれていくことを痛むのだ。
 深海の漁民はもともと観光漁業を進んで求めたものではない。
 浜元重男老人の鯛についての語らいはかくのごときものであった。「鯛にも魂のあっとと思うときもあるし、あ、こりゃちと魂のうすかと思うときもあっとですよ。しかし一ペん痛か眼に会うた鯛はまず二度と鈎にはかからんとです。わしゃ養殖やっとる息子に聞いたばってん、いけすの中の鯛ば釣ってみたことがあったそうな。一匹ひっかけて、揚げれば何ともなかそうな風で、他の鯛はまた次の餌にくうとです。じゃが、一ペんわが口にひっかかって、糸切って逃ぐれば、あとの鯛はどげん待っても喰わんそうで。他の鯛に知らせるらしかですな・・・。わしゃ思うたな、ああ鯛も魂もっとるってなあ。で、わしゃ遊漁船の仕事は本当はしとうなかです。客人な鯛の魂は分からんとですもんな。ああして鯛にひっかけちゃ逃がせば、鯛はこりて次はくわんーちゅうことはわしらにはねかえって来ることになりよりますもんな。そこんとこをわしゃ考えると、あんた、夜の寝られんことがありますばい、まこて」
 船の新造船にあたって遊漁船の方途を思案したことはやはりひとつ漁民の暮しのベースを変えるきっかけになった。船の建造費の返済が、苦しい年も容赦なく迫る。その中で深海は夏場から中秋にかけては、誰しもが一日一万五千円の遊漁船収入を年間収入に不可欠のものとして組みこまざるを得なくなった。
 天草の縦断道路の標識に釣人用の案内がめだつ。天草の観光は釣とキリシタン遺跡の二本が柱である。離島振興法の打切りのあと、観光開発は激化の一途を辿るであろう。観光マップが本渡市から天草下島の外洋コースを大浦の五足の靴、崎津の天主堂コースまではのばしてきた。だが、深海とその周辺は観光事業の上では末だ空白に近い。天草の不知火海沿岸を、観光の面でその開発を押しとどめた要因に不知火海の水銀汚染、つまり水俣病事件が影を落して来たことは確かであろう。だが水俣病事件始末の好機を選んで、もうひとつの”汚染”を、観光処女地のこの深海に到らしめるのはもはや時間の問題である。

 一本釣は早う死ねちゅう・・・

 一九八〇年、異常気象もあってか、深海沖に鯛の訪れは二カ月もおくれた。桜の咲く四月初めに、外洋から入るべき”さくら鯛”も五月の声をきき六月に入っても深海に訪れる気配はなかった。不振のフグつりが五月半ばに終ったあと、例年ならば重なって鯛釣りにわく漁場に、ガラカブ漁とかイカ漁、土地のひとのいう片手間の隠居仕事しかなかった。ポッカリと間の空いた六月、七月、深海の街全体に、切ないまでに心細い気配がゆらゆらとしていた。そのなかで活気づいたのはダブル選挙と、あの入札汚職で起きた市長選挙である。そして深海では漁協組合長の改選期をも迎えていた。
 衆参両院とも選挙は、自民党二派(園田派・福島派)へのただの信任投票でしかないと思われるほど確執はなかった。ただ賑わったのは漁協役員人事である。そして今年はじめて、最も早く養殖事業に手をつけ、収入を挙げた若い養殖者が推挙された。これまで一本釣の漁師の間からしか漁協長は出なかった。だが殆んど異論なく、むしろ押しつけるように組合長の職をその青年事業家に托した。専従の参事(事務職)にはいくばくかの月給が出るが、組合長は殆んど名誉職あつかいで、寸志ほどの手当が出るにすぎない。これは天草の漁協のいずこも似たりよったりである。だが最たるものの交際費はやはり要るのである。それには個人的資力のあるものしか耐え得ない。こうして新興の資産家と目される四十歳そこそこの”青年″が選ばれた。
 外にむかって、主張すべき漁村部落の”声”も”政治”も衰えた深海の今日を象徴するような”人事”に思われた。
 鯛の一本釣で不知火海にユニークな存在であった深海の漁民社会の中で、遅ればせながら、急ぎ足で訪れた近代化と現金経済の全面化、そして漁業の分解によって、一本釣の生活力への自信を失っている既成の老漁師の支配力の崩壊のしるしでもあった。
 「一本釣は腕さえあれば、どこの海でん、どこの灘でん仕事ばでくる。それが心の中で誇りだったですばい。しかし漁師の暮しのなかみは一本釣だけではなかです。わかめもとれば、あおさもとる。ひじきも干して売りもする。鯛の下ってとれん十一月頃時分でも、ガラカブは釣れるでな。冬場はガラカブはえなわをすれば暮すしこのことはあった。あれは準備にゃ時間かかります。一箱百何十本って針にえさをつくるだけな手間は要るばってん、沖さに出れば二、三時間で勝負でくるもんな。二月、三月は甲イカとりですたい。さしみによし、煮つけによし、売るにも値のよか品物じゃで甲イカは。岩ダコやいいダコもこの海にゃいつも棲んどらすもんな、こやつどもは。いろいろ、道具をかえれば遊んどるはざはなかじゃでこの深海というところは。それは恵まれた海ですばい。フグの鯛のは日頃はそうくわん。イカ、タコ、ガラカブじゃなあ、常食すっとは。これであきもこんしなあ。・・・じゃが、フグのとることになってから、暮らしも変わったですばい。あれはわしらは喰いよらん魚じゃもんな。そいで高ううれるというとこで、研究したり教わったりしてやってきたでしょうもん。鯛は大きすぎたらかえってキロ当りの値段の落つるですよ、味の大まかで、身のしまりのなかちゅうとこでな。しかしフグは大きければ大きいだけ値はそのままつくもんな。そんでフグ中心の暮しになったわけよ。じゃが、そのフグがこうまでとれんとなりゃ、どげんするですか。まあ九州一帯どこもかしこもとれ具合が少なかときはキロ当りの高うなるばってん、吾智網の何トンとフグを一ペんに捲き上ぐれば、こっちはとれん、値は落ちるでひどかことになりますもんな。・・・
 鯛は不知火海に来んばならんとです。鯛も困るとですよ・・・産卵のしごとがここでなからんば出来んとですけん。じゃが、困ったもんで、網はひく、稚魚はひくでしょうが・・・。稚魚は育てばまた大人になってここに卵をうみにくるでしょうもん。五年、六年となって母親の鯛になればなあ。それを稚魚のうちにとってしもてどげんするとですか。鯛の養殖せろ、金ば貸すといわれるばってん、どこに海面が残っとるですか。養殖は保険をかくるで、のん気なもんですたい。事故にあえば保険金がくるでなあ、養殖組合に入って、保険をかくればなあ。しかしわしらは一匹の鯛のために油代ばかけて、海を走ってさるくというとに、目と鼻の先にゃ、まっ黒けの鯛が、イワシのサバのばっかしくうて生けすで群れとるでしょうが。天然の鯛なあ、あのきれいか色の鯛をとるのに、生きエサのイカ、生きエビの、蛸の足のと、美味しかろうとするものを餌につけて、一本釣の腕をかけて勝負しとるとに、片っ方は何万匹の黒か鯛をやっとりますもんな。それもわしの家内のもんじゃが。・・・一本釣は、早う死ねというのがいまの自民党の本当の気持じゃなかですか。養殖業者にゃ金を借した分だけ情もかくるが、自由気ままな一本釣は好きにやれちゅうだけじゃなかかな。海のくされるとはあんた水俣の水銀だけじゃなかですよ。養殖の、吾智網のって幅利かすもんが、わしらを追いたてよるのかも知れん。わしらの若かときのいまは十分の一じゃろかい、百分の一ちう方が近いかも知らん。こんなわしの一生のうちに、こんなに魚の掃いたように失せるということがあっただろうか、わしのじいさんの代に、そのまたじいさんの代に・・・。」

 何度もの話の中味はかようなものとして繰返された。老人の漁師たちの描く未来図は、いまのところ、暗さばかりだ。しかし明日の事は明日でなければ分からんのも漁師の世界なのである。
 しかし私が深海だけを切りとって、不知火海の衰弱を描いたこの裏には、水俣の受難を頂点とするこの内海の漁民のなしくずしの受難を相対的に見たかったからにほかならない。水俣病事件を疫病のように忌みきらい、水俣病患者の受難に目をとじ、多くの場合、水俣病を敵視してきた不知火海漁民のなかで、ひとり事件の渦中に入ることのなかった、深海の一本釣漁民社会の総地盤の地くずれ的崩壊過程をみるとき、資本主義とその政治は、つまるところ水俣病患者に対すると同等の差別と無視、放置をもって、彼らの生活をその淵にまで追いやったのだという、複眼的視点をもたざるを得ない。

 ”わが一代限り”のふるさと

 一九八〇年三月をもって、天草への離島振興法は終った。さきにのべたように、牛深の選挙違反がらみの構造汚職に、深海漁民はにべもなかったように、地方の政治ボスたちは”離島振興”の国費をおおっぴらに政治利権に利用しぬいてきた。ぬいたであろう。私ごときにびっくりして眼をむいてみせる必要はさらさらなかったのである。
 だが、離島振興を切実にその内実に求めたのはほかならぬ地元のひとびとであり、それは可視的に、道となり護岸となり港湾となり学校となって実現した。二十七年間の離島振興法を通じての政治操作は体制のほしいままであった。その操作の中に、水俣病事件もおさえつづけられてきたであろうし、今なおその抑止力には余力すらあろう。
 深海からの出郷は海の道を通じてであったであろうが、いま巨大な消費財の流入は整備された国道を走りぬけて天草のすみずみにまで及ぶようになった。日本の平均的文化の恩恵を待ち望んだのは僻遠の地の人たちである。しかしそれは固有のムラの文化によりそうのではなく、土砂流のようにムラを襲った。その流れの一方性の前に、逆流の選択肢はあり得ようもなかった。この十年余の現金経済中心の生活様式への強行的転化のつけはまだ十全に出ては来ていないかも知れない。しかし内海一本釣にたよってきた深海の漁業の将来は、”水産業”の下で被雇用者として働くか、観光の下で遊漁船の舟頭として働くかいずれかを支えとしない限り成り立たなくなっていることはたしかである。それは一本釣を成り立たせた基盤そのものをさらに汚し、弱め、はずかしめ、うちこわしていくことであろう。

 深海より東方を眺めれば、水俣ははるかである。産島、獅子島、長島、御所浦島の山脈のむこうにヘドロの海がある。不知火海は水深平均五、六十米、その浅い分だけ繊細かつ変幻極りない海の営みをもつとはいえ、その干満時をみれば、”水源地”水俣より、潮は川をなして瀑布のように瀬戸を下り、下島沿岸を洗って河口深海より東シナ海に出る。その潮流の法則ゆえに、水銀ヘドロの恒流的な汚染があやぶまれたのであろう。昭和三十四年当時の熊本県の諸調査は正当にも牛深までを調査範囲としていたのである。だが行政は生態系はおろか人体被害の調査すら、今後、絶対にせぬと意志決定をひそかに、しかし牢固ときめているかに見える。「今日的生産性のないものに一切の投資をしない原則」が工業社全日本の政治鉄則であったことを水俣病事件史の縦に貫く黒い芯棒と知れる今、一本釣に生き、あるいは零細養殖に生きのびようとする深海漁民つまりは不知火海内海漁民に対し、国と資本はつまるところ棄民の途しか残さないであろう。
 深海漁民が、いかに水俣病事件に無縁に身を処してきたとしても、水俣病事件は漁業の真の構造改革に足かせになったであろうし、健康であるべき不知火海への信頼と愛が水俣病の影によって脅やかされることがなかったら、今日のようにすべて後手後手に陥いられ、後発性のくびきにとらわれることもなかったであろう。
 水俣における漁業崩壊の因果関係はほぼ鮮明である。漁場破壊と漁師の肉体破壊の元兇にチッソが見えていた。だがこの深海の内海一本釣漁民の崩壊、その利害得失の前景にみえる敵は養殖業や近代的大型漁業者であり、合法的な海区や海水面の独占者たちなのである。そこにはチッソの影はない。補償金により一大消費者階層に強行的に転化された水俣漁民=患者の生活に異和感をもったであろうこの深海にも、経済を必須とする消費革命の波が急速におそってきた。それは次の後継者たる息子・娘たちのこのムラでの人生を予定した変わり方、わが一代かぎりの時間の目安においてである。海の衰弱もさることながら、漁師一代限りの諦念の中でからまりくる衰弱と敗北感にとらわれているように思えてならない。
 水俣病事件は不知火海の痛覚の核であることに変わりはないにしても、零細自立漁民の切り棄て政策を徒し事の近代化過程をみるとき、同根の悲憤を思う。”わが一代限り″のふるさとの意識ほど水俣病患者と、この漁民とを通底させるものはない”てあろう。ゆえに私は、水俣は天草を想い、天草はまた水俣を想う新たな思案が導びきだせぬものだろうかとおもう。それは、かつて同じく不知火海に生きる人びとにあったであろう、ひとつ海への愛恋の蘇生を思うことでもある。それにむけて、私は眼前の海を凝視しつづけることからしか何事も浮かび得ないとかたく信じている。
 (不知火海水俣病元年の記録・第二部 完)ー一九八一・二・二三-