記録映画と行動 『ルポルタージュの書き方』所収共著 初版4月25日 明治書院 <1981年(昭56)>
 記録映画と行動 『ルポルタージュの書き方』所収共著 初版4月25日 明治書院

 映像こそ世界の共通語

 私がようやく映画の演出をまがりなりにやり出した一九六〇年ごろ、私たちは作品をつくる上で”何を背に担ったか”を省みると、数人のスタッフ、あるいは同世代の映画仲間たちの眼と声だけであった。PR映画で製鉄工場の設備や製品をとったり、地理テレビシリーズで一県ごとをどう映像化するかといった技術上にウエイトをおいた仕事をしている頃、私はまだ背に負うべき人びととの出遭いは数少なかった。まして、PR映画のように株主総会と一般株主むけ映画に利用される場合にはその”観客”を意識することから逃げもした。いわば、ぜひとも見てもらいたい”観客”がつかめなかった時期であった。
 およそ手さぐりで我流の映画作法をたどっているとき、ときに外国の映画祭での受賞は、当時やはり大きく私に作用した。受賞したことで私の映画がインターナショナルな理解に耐えたと思い、「やはり映像は国境を越えるものだ」などと思ったりもした。処女作『ある機関助士』(一九六二年)がベルリン映画祭で、次の『ドキュメント・路上』(一九六三年)がエジンバラとベネチアの両映画祭で何らかの賞を得た。だからといって、これが各国で上映され、公開されたわけではなかった。映画はその意味では全然「国境をこえ」てはいなかったのである。
 この二作品とも注文映画であった。その主たるテーマは企業や行政に属する。その意味で額にその旨のハンコを押されている。私がその枠内で試みたのは、そのテーマを私の感性のなかにとりこみ、私固有の映像を創り出せるかどうかという個的レベルでの闘いであり実験でしかなかった。ゆえに賞を得て、私は”映像作家”とか”実験性のある作品”とかいわれたりもしたが、いまになってみると何とあやうい尾根つたいを歩いていたことだろう。あるいは半ば意図的に映像作家、前衛的実験作家の道を歩こうとあがいたのかも知れない。外国での受賞めあての作家の”精進”に狂ったのかも知れない。だが幸い、私なる駄馬を駆る騎手は外ならぬドキュメンタリーであることが幸いした。私のもっとも心ひかれるものはドキュメント以外になかった。そしてその鍵たるドキュメンタリー映画によって、私は私にとっての客を見いだすことが出来たし、また友人として意見ものべてくれる”外国人”たちにも出遭うことができたと思う。
 もともと映像はそれを具体的に撮影行動として語るとき、それに固有のコミュニケーションの方法のなり立つものだ。たとえばカメラマン同士であれば、国籍のちがいを超えてすぐに協力と理解が可能である。かつてモスクワの「赤の広場」での軍事パレードを撮影したとき、日本人カメラマンは一人であり、ひとつのポジションしか持ち得なかった(映画『シベリア人の世界』)。私は演出担当だが、やはりカメラをまわすことにし、その他もう一人、もう一ポジションを持つカメラマンを必要とした。その時、ロシア人で当然ロシア語しかしゃべれない青年を起用した。その青年と、これもまた、日本語しかしゃべれない日本人カメラマン・日映新社の山口武朗との対話はその例として秀逸だった。カメラを手に各シーンのコンテや、フレームを語るのだが、レンズの選択、撮影時間の長さ、フレーム、画調(トーン)、ズームのスピード、その心理的なポイント、それらをカメラの現物の上で、そのレンズ、絞り、ファインダー、ズームカメラの目盛の移動、フィルムゲージといった各部分のリアルな操作を仲介にして間然たることなく説明できていた。カメラの上の単なる目盛やF値が、表現の意図を解く鍵として共用され、理解をたしかめる上で決定的な意味を持った。そこには言葉はなくてすんだ。カメラ表現の共通性だけあればよかった。
 編集作業も、ともに映像の表現者であれば、何の言葉も不要である。実際につないで、その結果をみればよい。もし意見の違いがあれば、それはあと何秒多ければその意味が変化するか、あるいはショットを入れたり、外したり、入れかえたりすれば、更に意図が鮮明になることを編集台の上で実地に確かめ合えばよい。勿論、音声・セリフ・インタビュー・音楽などの要素はともなうが、フィルムはそのすべてを表現として受けとめる質を持っている。だから言語をそれぞれに自国語として念頭に思い浮かべながら、映像のみで語り合うことも不可能ではないのだ。このような具体的な表現素材で語れるのも、映像の持つコミニュケーションゆえである。

 記録すべきことが重く、大きいものである場合、しかるべき準備と仕事の規模が必要であることは自明の理であるが、ときに、それを撮影すること自体妨害されることもある。それが映画の表現の手段であるフィルム、カメラ、テープなどのすべてが奪いとられるといった、いわば映画として成立する根本がおびやかされたとき、どこまで、記録の原点に下降し、固執せねばならないかを、私はやはり海外体験で悟らされた。
 一九七六年春、私はあるアジアの宗教団体から、インドにいくことを求められた。その当時、インドは第一次インディレラ・ガンジーの政権のもと、戒厳令が敷かれており、外国人新聞記者の報道はすべて事前検閲制下にあった。写真取材も望遠レンズを持ったものは、プロとしてその規制に準じて没収されるといった緊迫した話が、新聞の外信部の友人から伝えられていた。
 撮るべきものは、あきらかにインド政府の好まぬテーマだった。それはスラム街の強行移転の記録である。しかも、ボンベイ市のスラム街のなかで最も人口が多く、しかも二十年間のスラム街形成の中で、キリスト教会・モスクのほか、家内工業・学校・託児所・貧民救済所さえ持つ、四万人の住む通称”ジャナタコロニー”の軍隊による一掃作業を撮ることであった。その跡地はインドの原爆製造とその成功に結びついた原子力発電所(カナダ、カンドゥ型原子炉)に働くエリートのためのリクリエーション・センターになるということで、幾重もの不条理に彩られた事件であった。この移転に当たって、住民はもとより広い反対運動の動きがあったが、戒厳令下、ひとりキリスト教系人士の救済活動と国際的なアッピール運動しかできなかった。そしてそのアッピールはフィルム記録により、その年五月末よりカナダ、バンクーバーで開かれる第二回国連環境会議と時を同じくする人民集会と展示会に届けられるものとして計画された。だがインドの映画人の公然たる参加はむずかしいので日本から映画人に来てほしいということになり、私に白羽の矢が立てられた。「生命・自由・安全について百パーセントは保障できない」とあらかじめ言われる仕事だった。しかも、何の職業的な身分証明書もなくプレスカードもない。インドへの入国にあたっては税関はパスするように手をうつから、なるべく旅行者のいでたちできてほしいという。私は好奇心ゆえに決断した。
 ボンベイ空港に降りたったとき、兵士と官憲によって、私と同行のカメラマン高岩仁はすぐさま連行され、出迎えの牧師の懇請と弁解もむなしく、私たちは二台の映画用カメラ、テープレコーダーのほか、私用の写真機からマイクロカセットコーダーにいたるすべてが出国まで上屋に保管という形でインド滞在中は没収され、パスポートと替え着とトラベルチェックだけでボンベイに入った。見通しの甘さにほぞをかむ思いをしつつ、当然のことのように映画をつくることを半ば断念せざるを得なかった。だがひそかにスラムに導かれて見たその街と人びとは撮るに値し、責務を果たす念を再びかきたてられた。そのとき、”映画”をつくるのでなく、”記録”をとることに考えを切り換えた。インドの友人にとっては映画人による映画であるよりも、まずアッピールの素材をつくることが至上目的であることがわかったからである。そのためには何でも活用することにした。
 日本の商社員からいつわって写真カメラを二台、インド人牧師から日本製ラジオカセット、古いインド音楽テープを再生してつかうこととし、スライド用フィルムは闇市で入手した。一掃前の数日間、私たちは住民のインタビュー、住民指導者の声明、闘争の中で生まれた歌などを採録しつつ、スライド用フィルムを撮った。そしていよいよ一万五千人の武装警官による実力行使の日を前に、コダックのインスタマチックを二台と、中古のテープレコーダー一台をもとめ、活動家にわたした。彼らにフィルムのかけかえやテープのチェンジを教えるいとまもなかったので使い切るまで撮り、回せばよいとした。こうして、十本の写真フィルム、五本の録音テープを得ることができ、ともかく私たちの最低限の”映画的行動”を保つことができたのである。
 このフィルムは帰国時ボンベイ空港で、再び官憲によって没収され、カナダでのアッピールにはついに間に合わなかった。だが、そのあとインドの友人たちが、それをとりもどす方法を説得と買収の二段構えで講じて、のちにインド政権交替を待ってオーストラリアに運び出され、現像され、ともかくスラム一掃の人民サイドの一本のスライドとしてインドに残された。
 このインドの旅は二日間の軟禁の体験も含め、いかに”非映画的”であろうとも映画人としていかなる映画行動で対処すべきかを教えられた。そしてさらに、日本の映画人が外国の映画人、あるいは記録者とどのように違うかも知らされた。当時のインドにあって、もしインドの映画人がかかる取材活動をすればただちに緊急措置法により、「弁護士なし、裁判なしで三か年収監」される目に遭ったのである。そしてそこでは緊急に国際支援を求めるに当たって、映画でなければ写真で、それもなければ録音でもよい、どんな表現によってでも真相を伝えたいという切迫した原衝動だけがあったのである。

 一九七六年初夏、私は水俣病の英・仏版のフィルムを持ち、患者代表の川本輝夫と通訳の大石裕子とともにカナダ・インディアンを冒した水銀汚染地北ケベックへの巡回映画の旅を試み、この経験を日本に持ち帰って、一九七七年夏不知火海七十七漁民集落をめぐる巡回映画の旅を構想したのであった。
 映画をとることと上映とは、すべてひとつの映画行動といえる。インドにおいて、不発の”映画”製作活動といえども私の映画生活の一つの嶺にちがいなく、自作をたずさえての旅も、そうすることを私自身がもとめた映画生活の新局面でしかなかった。そのことを私は外国での体験によって、ほぼ豁然ともいえる認識に立ち得たのである。このことは今日世界の人びとにとっても日本の人びとにとっても、このような記録映画活動の持つ活力の総体をひきだす点においてまだ不充分であり未開拓であることをあらためて知らされるのである。

 記録映画が拓く第三世界の文化

 私のささやかな国際交流について、とくに第三世界、第四世界の人びととの交流について、いま少し紙数をさくのをお許しねがいたい。そして現在、私のかかわりたい外国とはどうもアメリカやヨーロッパではなく、これからドキュメンタリーが登場するであろう国ぐにと、その人びとなのである。
 先日、ある酒の席で、そろそろお互いに初老の域に連した仲間とそれぞれの”晩年”を肴にした。この十年、私の”晩年”のイメージはすこしも変わっていない点で、自分でひとり面白がっているのだが半分は醒めた心で語ってもいたー。
 「もし十年ぐらいして、ドキュメンタリー映画の現場に耐えなくなったら、第三世界、できればアジアのどこかの国の、記録映画を生み出そうとする映画青年たちのそばで、編集室の小使いさんになりたい。いろいろ相談にのりながら、彼らの新しい映画の誕生に立ちあいたいものだ。」もし老人海外協力隊でもあれば老眼鏡と鋏を持ってボランティアとしていきたい……こういってもあんまり人は本気にしてくれない。だが私には次にのべる一連の生活史あってのことだ。
 一九六六年夏、日本テレビの新企画『すばらしい世界旅行』の取材でカリブ海に浮かぶドミニカ共和国を訪れることになった。当時のチーフ牛山純一氏(現日本映像記録センター)の数年あたためた企画とあって、その意欲は欲ばりに近いものであったが、一方、番組キャラクターはまだしぼり切れない時期(放映同年十月)であった。リズム名を失念したが、ドミニカでその音楽をベースに人びとの暮らしをとってくるように頼まれた。音楽の世界は縁がないので気が進まなかったが、幸か不幸か着いてみると、そのリズムは同じカリブ海でもハイチのものであった。やむなく自由に題材をみつけてドミニカで一作品をものにせよ、ということになった。
 当時のカリブ海は一九五九年のキューバ革命を軸に激動期にあった。キユーバ危機(一九六二年)、パナマ紛争(一九六四年)と相次ぐなかでドミニカも独裁者トルヒーヨの暗殺(一九六一年)、共和制となったが間もなくボッシュ政権は親米派の軍事クーデターで倒され(一九六三年)、その親米路線に反対する民族自立派のカーマニョら青年将校たちは首都サント・ドミンゴの中心部にたてこもって革命戦争をたたかった(一九六五年)。今日この一連の政変はCIAの策動に誘因するといわれているが、私の訪れた年のその前年の市街戦には米軍が米州機構(OAS)軍の名目で軍事干渉し、革命派を掃蕩し、一年後の当時なおOSA軍の準戒厳令下にあった。これではとても音楽番組などに眼の向くはずはなく、私たちは革命を体験した未成年の若ものを主題にした『若きサント・ドミンゴ』を作ることにした。
 こうした企画変更もあって一か月近い滞在となった間に、私はドミニカの若い映画青年モーリスに会うことになった。彼は生まれたてのドミニカ・テレビ局のただひとりのカメラマンであり、同時に演出・編集・現像もやる映画部の責任者(といってもただひとり)であった。年齢は当時二十七、八歳であろうか。彼は開局にあたり、国費で映画技術をマスターすべく、旧宗主国スペインの大学の映画コースに四年間を費し、帰国してまだ一年足らずであった。まったくの新人でありながら、彼の双肩にはドミニカで初めてドミニカ人による映画を作る、その最初の人としての責任がかかっていた。
 ドミニカのテレビでは、常時スペイン語にふきかえられたアメリカの西部劇や市民もの、漫画番組がその九割近く、ドミニカの番組はクイズや、いわゆる素人歌合戦といった聴視者参加番組しかなく、”ニュース”でさえアメリカから空輸されたトッピクス風のものばかりであった。私がテレビ局を訪ねたのは全くの好奇心からであった。紹介もなしにぶらりと玄関をくぐったのだが、小さな首都のなかであってみれば、私たちが日本からきた映画人であることをモーリスはすでに知っていた。彼から私たちに話しかけ、ついで彼のルームに招いてコーヒーをすすめてくれる。ここで映画の機材をなかだちに私は彼と映画の実作についての話にふけることができた。準戒厳令下、彼には国内ニュースの仕事もできず、ひまをもてあましている様子であった。
 その映画部の小部屋には、彼のために購入された新品の十六ミリカメラ、録音機、そして最も簡略な編集用ピュア、そして手つなぎ用のスプライサーに、フィルム接着剤、フィルムまきとり機などーつまり最低必要な機材はそろえられ、しかもすべて新品であった。いかにも、この室からドミニカ映画は始まるといった感じで、私はある感動すら覚え、その一つ一つをなでさすったものである。それらは私たちのような貧乏な独立プロでも最低備え持つ機材であって、それ以上ではなかった。当時ですら、日本の民間テレビでは地方局に至るまでスタインベック(一台三百万円以上する西独製の絵と音声のシンクロ編集機)が導入されており、カラーフィルムの自動現像機も急速に普及しはじめた頃である。それにひきかえ、一国のテレビ局の中枢の映画部門の創立期はまさにこのようなものであった。
 せめてCMでも撮れないのかと聞くと、地場産業の広告物品としては蒸溜酒”バガルディ”があるだけだが、それもアメリカ人が一万五千ドルで一手にひきうけており、あとはすべてアメリカ直送の航空会社、自動車、フルーツ会社などのCMで、その点ではここはアメリカだと彼は言うのだ。
 二度目に会ったとき、彼は試作品だがといって四、五分の『私たちの町めぐり』といったルポ・フィルムの編集用ラッシュを二本みせてくれた。あと二、三本とった上で、放映してもらうつもりだが、批評してほしいという。「これは政治的なものではなく文化紹介だから、きっと放映されると思う」という。首都サント・ドミンゴと第二の都市サン・ディエゴ篇だったが、いずれも同じ展開であった。まず車の前進移動で街に入り、スペイン植民地特有のセントル公園、そのわきの教会、公園のモニュメントと市場といったパターンで、とても意見のいえるものではなかった。だがその編集用フィルムはつなぎ目だらけ、あれこれと彼ひとりで編集に迷いつなぎかえた跡があった。それは彼の真摯さと意欲を物語っていた。
 「いずれ、まとまったドミニカの歴史や文化をドキュメンタリーにしたい。いまは準戒厳令下で管理されているが、私にはその義務がある」と言う。
 私たちが、ドミニカの若者の革命体験をフィルムにとりに来たことを知ると、あからさまにくやしがり、「外国人だから自由に取材できるのだ。しかしドミニカ人は外国カメラマンにうらみをもっている。前年の市街戦のルポで本当に民衆の側に立ったフィルムはなかった。皆、その放映の日、テレビをみるのを心待ちしていたが、裏切られた。だから、あなたがたもくれぐれも身辺に注意しなさい」と言うのだ。私たちが近く決行される非合法デモを取材する計画と知って、「それなら、どこそこのホテルの屋上からとるとよい、鉄砲は軍隊からだけではなく、民衆側から撃たれることもある。私が手配するから、公園わきの二、三のポジションを当たりなさい」と世話をやいてくれるのだ。本来彼がとるべきものだ。彼に代わって日本人の私がとるものではない。おそらく、この国からドキュメンタリー映画が生まれるとしたら、この彼の切羽扼腕の情念からだろうとそのとき思った。

 近代の映像文化の歴史の中で、私たちは写真、映画の順をふんでテレビ時代に入った。しかし、第三世界では国営のテレビ機構がまず導入され、そのなかから映画製作が始まるという逆の形成順序が多いであろう。まずその全国ネットのニュース、ついで”ローカル”な報道番組づくりで人材と技術を養い、そしてドキュメンタリー映画番組と進んでいくー若いナショナリズムをバックにこのようにしてその映像メディアが生まれ育つのではないだろうか。だがニュースはともかく、本来的に社会批判の芽を内包するドキュメンタリー映画に志向する過程で半ば必然的に、放送を支配する実権者によって彼らは迫害と忍従を強いられることであろう・・・。
 
 そのように前途を悲観的にみがちだった私は、その後、革命十周年のキューバを訪れ、解放後の十年間の全ニュース、全ドキュメンタリーを見る機会を得て、いかにめざましいスピードで、初心の若者たちによって映画が作り出されているかに、眼を洗われる思いだった。
 一九六八年、黒木和雄監督『キューバの恋人』のプロデューサーとして四十五日間ハバナに滞在したのだが、その間、大半を歴年順にニュース、記録映画をみることで費した。キューバ国立映画局(ICAIC)はすでに白黒現像機をそなえ、ソ連の映画技術援助をベースに、西独・フランス・スイス製の撮影機材をそろえていた。スタッフは二十代、三十代の若い映画作家ばかりだ。革命の一九五八年以前までにはキューバに映画は絶無であり、アメリカのマフィアが、ハバナでエロ映画を作っていただけという。だから、一九五九年一月のカストロの革命のハバナ占領別後のニュースは、アメリカのムービートーン社製のものであった。革命までの歴史を自らつづったフィルムはキューバになかった。キューバ映画は全くの無からのスタートだったようだ。
 傑作『ナウ』や『ハノイ・金曜日-』の作家、サンチャゴ・アルバレスにしろ、革命前はペンをとる新聞記者であり、他の監督もハバナ大学の映研メンバーがそのままICAICの創立期をになった。だが『ハリケーン被害とたたかう人民の記録(原題名は失念した)』や、六一年の『プラヤヒロンへの反革命軍の侵攻との闘い』のドキュメント、また『文盲一掃のために教師となって農村に赴く中学生の集団的下放運動』などは、いずれも革命後三年間に作られた中篇ドキュメンタリー映画であるが、まざれもなくキューバ人のオポチュニズム、革命的ロマンチシズムと体質的音楽性とを混交したキューバ映画となっていた。
 まだ国際的著作権協定に未加盟のころ、サンチャゴ・アルバレスはアメリカのテレビ画像(キューバで受像したもの)から黒人暴動のシーンを撮り、支配者の暴圧の象徴シーンには臆面もなくスウェーデンのイングリット・ベルイマンの『第七の格印』の中世の暴君のカットをぬき出し、モンタージュするという自由奔放きわまる映画を作っていた。また現像コストが国立映画局ゆえただのせいか、ありとあらゆる特殊な画面処理をふんだんに駆使していた。一見、意欲的だが失敗に近い一シーンをストップモーションやソラリゼイションなどで別の映画言語に作りかえてしまう力量の背景に、編集台上の魔術を許す、製作体制そのものの若わかしさを感じた。
 私はドミニカのモーリスのことを合わせ考え、映画と革命とかくもスピーディに結び合うことに驚かされた。第三世界での映画の分野の遅れとは、映画をめぐる政治と社会の遅れでしかあり得ない。映像を志す現代世界の若者には、機を得れば奔流する映画的感覚がグローバルに育っているのだと思い知らされた。これに私たちはどう共同動作をとっていけるのだろうか。
 自主製作の多い私につてを求めてくる第三世界の青年たちは、母国の体制から外れた人が多い。貧乏ゆえ無力だ。彼らから見ると、私などは日本という最も映画づくりに活力があり、カメラもテープもフィルムも自国産のすぐれたものを入手できる宝の山の住民に思えるらしい。それは国内であると海外であるとを問わない。
 あるときパリでアフリカ人留学生に会った。帰国後、文化活動を民衆の間でしたいという。文盲率の高い国では視聴覚を通じてのマス教育、マス啓蒙しかない。そのために、やっと写真用の一眼レフカメラを買うことができたという。私は同機種を持っていたので、交換レンズをカンパした。まずスライドからはじめるが、できれば映画を作って社会的な仕事を始めたいという。その志向は彼ら新しい世代に共通していた。貧困と疾病、身分的差別をうけ、識字の機会を持たなかった民衆たちに、その集団まるごとの教育や行動をうながすとき、彼らにとってはビラや大字報でなく、集会を前提とするスライドや映画によるアッピールをまず着想する。スクリーンのなかの現実とその人びと身辺の現実とのスパークこそより劇的なのであろう。西欧や日本に学んだ青年・学生が母国に映像カを運び帰りたいというねがいの、実践性とその具体性は私たちの想像をはるかに越えている。

 道具でものを考える

 一九七二年の終わり、映画『水俣』の上映にたずさわっているころ、東大自主講座の松岡信夫氏から電話連絡があり、「松岡洋子(評論家)さんからの依頼だが、二人のメキシコ女性の映画の勉強に便宜を与えてほしい」という。氏はいまは反原子力センターを主宰し、もとより映画関係者ではない。「実は日本・メキシコ文化交流協定で、教育番組づくりの研修に六か月間留学、その間おもにNHKでシステマティックな教育をうけたが、このまま国に帰って映画をつくる自信がないので、あと私費でもいいから六か月間ほど勉強したいという。とても切実な願いなのでかなえてほしい」と氏も懸命だった。
 ふたりの女性はともにマルタといったが、ひとりは三十歳をすぎ、すでにウーマン・リブや育児の著作を持つ中堅のインテリであり、ひとりは二十八、九歳で美術史を学ぶため長いパリ留学を終えてのち、日本に再留学した。ともに帰国後直ちに新規に開設される児童・婦人向けの教育テレビ番組の製作者に予定されているという。
 「恥ずかしながら、メキシコの地方の小学校では、教師は収入を保証されたエリートです。ひとつの小学校に先生ひとりといったケースもざらです。その教師の職は一旦手に入れたら一生はなしません。他人にゆずるときには高い権利金で売り買いされるほどです。その教師が病気やレジャーで休めば生徒は何もすることがないーだからいま全国放送の教育番組によるテレビ授業方法の開拓が急務なのです」という。NHKだけではその要望にどこが不足だったのかと聞くと、機械的レベルが高すぎて、とてもそれで学んだテクニックでは、まだ遅れている自分たちの職場での役成立ちそうにないと答えるのだ。おそらく、NHKはフィルムの実技・編集・録音、さらにビデオからエレクトロニクスの粋を集めた最新技術まで惜しむことなく教えたであろう。「担任者『タツムラ』は親切であった」ともいう。その翌年に『キヤロル』をつくり放映拒否され、ついで自主映画『キヤロル』をつくって懲戒免職処分された竜村仁氏であれば、恐らく懇切丁寧であったろう。ただ彼女たちの不安は、オートメ化・合理化・エレクトロニクス化されすぎたNHKの世界と、彼女たちのメキシコのそれとのへだたりに起因しているように思えた。
 職人は道具でものを考えるといわれる。映画の実技修得もそれに近い。いかなる編集理論もその道具のシステムの修得によってしか実現しないものだ。おそらくNHKの最も進んだ放送機材システムで学んだそれらは、まだ母国メキシコでは獲得できていない”明日のシステム”であったにちがいない。ドミニカを知り、キューバに学んだ私は、よりメキシコを想像できる。こうした段落差を予想しないで、どうして発展途上国の留学生のためのカリキュラムが作れるだろうか。
 「初めから”違う違う”って二人で話をしていたんですけど、あっという間に六か月たってしまって、終わり頃になって怖くなりました」という。
 さいわい私の古巣の岩波映画で二人を引きとってくれた。「どのスタッフの仕事についてもよい、そこでの関係者は誰でも、請われれば実技を教えることを約束する。ただし人件費は払わない」という条件で、アシスタントの場が与えられた。この会社には古いタイプの機材から最新のものまで使われており、企画・撮影・編集・録音といった一貫作業が学べる。また作品の予算規模も数千万円から数十万円の作品まで多様である。まさに彼女たちにはうってつけの学習の場であった。
 単刀直入に私は聞いた。「メキシコでの現実性からいって、数百万円の予算規模の作品と、数十万円の金しか使えない作品と、どちらが今後のあなた方の仕事に近いか」と。ふたりとも即座に後者を選んだ。少ないフィルム、小スタッフ編成、レンタルの安いありふれた機材と手づくりの仕上げといったイメージである。それはドミニカで見たモーリスの映画部の部屋を思わせた。その後六か月、彼女たちは岩波映画をベースに勉強をつづけた。新宿のスナックのウェイトレスで生活費をかせぎながら頑張った。そして帰国後、三年ほどして、第一線で活動していることを便りに送ってきた-。
 私はこの例でNHKを非難するつもりはない。私をふくめ、われわれの、第三世界の人びとの実情への理解不足がベースになったら、あとどんなに努めてもボタンの掛け違いに終わることを怖れるのだ。
 革命後十年たったキューバ、長い間、巨人アメリカの”半植民地”であったこの国でさえ、食堂で人のことばの端に”マドリッド”と聞くと、まわりは一斉に耳をそばたてる。かつて圧制に苦しめられたとはいえ、旧植民地の青年はその宗主国を留学の地に求める。言葉・習慣・文化に歴史的につくられた相似性がそうさせるのであろう。中米の人はスペインにおもむく、ベトナムの映画には旧支配者フランスの映画のスタイルが強く影響しており、中国のそれにはソ連映画のモンタージュがすけて見える。日本に学びにくる留学生は何にひかれ、何をメリットとしているのであろうか。彼女たちの場合、政府間の文化協定による公費の教育の機会であったに過ぎない。餓えと貧困と社会差別のある国に対し、われわれひとりひとりにいたるまでの飽食・安逸の富国は、それ自体もはや埋めがたい精神的亀裂なのであろうか。もし彼女たちが六か月の日本での”落第生”を自らに課さなかったら、彼女たちは眼高手低のまま帰国したであろう。

 体験交流の道具

 この約十年、仕事の対象を水俣・不知火海に選んで映画をつくってきたものとして、心ならずも、世界の水銀汚染地を訪ねる月日を持つこととなった。三回、のべ三百日近く、そのフィルムを持って世界中を上映してまわった。スウェーデン・ソ連・西ドイツ・ハンガリー・イタリア・フランス・イギリス・カナダ(インディアン居留区)・アメリカ・イラク・スイス、そして配給もしくは依頼上映は、中国・朝鮮人民民主主義共和国・タイ・豪州に及ぶ。文字通り『ミナマタから世界へのメッセージ』(英・仏版)と題するものも最近作としてつくった。だが一部の国のテレビ放映を除き、目下は市民運動・住民運動者の手で自主上映されていて、決して観客の人数は多くない。だが、その中で最も強い効果を持ったものは私たち自身によるカナダインディアン部落の巡回上映を含む、カナダ主要都市を縫って上映した”カナダ・フィルム・ツアー”(一九七六~七年)ののべ百六十日の旅であった。総観客数は一万五千人たらずにすぎないが、水銀汚染にさらされているインディアンや当該地方の白人社会、ひいては各州政府、最終的にはカナダ政府(オタワ)にかけのぼる意図的な運動上映であった。汚染源企業の重役会上映、水銀中毒専門の医学者の学会、政府の厚生省・保健機関とねらいうちの上映であっただけに、カナダの要路の人の中には見てしまったこと自体によってある義務感を持つことにもなった。狡猾な医学者(政府委員でもある)によって部分的に上映され、「インディアンの被害は、この水俣病のようにひどくはない」との否定的判断の材料とされる苦汁も飲まされたが、状況へのミリタントな映画”交流”体験であった。
 旅行中、しきりに、彼の地の人びとから私の上映活動の資金的背景をたずねられた。「政府か、さもなくばキリスト教組織か」と。そのいずれでもなくボランティアとして、作家として来たというと、ワンクッションあって、「日本の政府は何故カナダ政府にこのフィルムの所在を知らせ、交流しないのか」と聞く。やむなくここで水俣病事件史の二十年間の被害民と政府との不幸な関係に言及しなければならなかった。
 冷静に思えば、映画は娯楽-やはり楽しいものとする予定調和的な思い込みがある。だが辛くても知らなければならないこと、滝にうたれる想いのする映画もあろう。まして、地球的な危機の時代に同根同種の悲劇が世界中に同時多発する現代-、映画こそもっとも体験交流の道具とされてしかるべきであろう。しかしこれは”べき”の論である。私はアメリカ、カナダを初め政府機関にも接触したが、彼ら自身、見たくはあったし、見てわかりもしたが、買って上映するといったアクションには決して連動しなかった。
 カナダの場合、二地方での水銀汚染を、アメリカでは同時期(一九七五年)農薬キーポン汚染事件でジェームス川を死の川とする問題を、そしてイタリアでも先ごろセペソでのダイオキシンの大気・土壌汚染をかかえている。そしてどの国の行政もその文明内部の毒性の噴出の事態に、水俣病事件史と瓜二つの姿勢をとっている。すなわち、汚染事実の秘匿、ついで過小評価したデータの粉飾発表、調査の壁となる企業と政府との癒着、解決に当たり第三者調停委員会方式をもってする責任の回避、被害者の反対直接行動への抑圧など、程度の差こそあれ本質的には同じである。どうしてその政府の手で『水俣病』映画公開や普及のモメントがあろう。これは社会主義の国ぐにでもこと公害に関する限り、官僚の出処進退は同じに思える。結局、国家・政府・国連の諸機構とは逆縁でありつづけるたぐいの映画が誕生してしまったのだと思わずにはいられない。そしてもっとも強い需要の声をいまも送りつづけているのは被害民であり、差別されている人びと、いわばその国の弱者たちなのである。

 映画流人の夢

 この一連のことは私の体験した”映画交流”の実態そのものである。情報の交流、映画の交流の前提には、人間の交流、人びとの交流なしにはーそれも微々たる力でしかなかろうが、それに頼るほかにはーいかなる変化も期待できない。ロボットが映画をつくるのではなく、人間たちの営為である以上、ものそれ自体の商品的交流が主体となって動くマス・メディア状況こそ本来異常であるのであって、ひとりひとりの人間の交流の志があって初めて映画にせよ文化にせよ交流の動因を生む。その核なる志が人の心をうつものだと思う。
 いかなる映画にせよ、フィルムが映像による人類史の記録作用を合わせ持つことは、映画百年の歴史のなかで追認されている。ましてや意識的に記録作業をこめた映画が世界の国ぐにのそれと交差しないはずはない。その点で私は限りない楽天性に支えられている。
 私たちがいま作っている自主製作映画は別の言い方をすれば手渡しで運んでいける”交流映画”そのものと言えなくもない。こうした映画と、世界的なネットワークを走るテレビや商業映画とが、いま規模と力は比較にならないにせよ、押し潰されることなく、並行して、現にこの世に存在して十五年になる。いわゆる主流・主潮の情報から漏れ落ちた情報を求める人びとが、増えこそすれ、決して減っていないことに気づく。アメリカの第三世界映画運動にせよ、フランスの”スローン”労働映画運動にせよ、その灯を消していないのみか、前者はこの十年に数倍のフィルムをストックし自主配給している。そして第三世界の中から、彗星のように劇映画が出現し始め、その秀作ぶりに驚嘆の眼が注がれている。だがこれが、ただちに第三世界のドキュメンタリー映画の登場といったふうには即時的に期待できない。記録映画が、その持つ批評力ゆえにそれぞれの国家で端的に作りにくいことから劇映画の中にその暗喩をこめてそれぞれの思想を展開しているのが現状と思える。だが、そこにドキュメンタリー映画の土壌も必ず並行して育っていくであろう。
 私にかかわる例だけでも、インド、フィリピンなどから、スラム一掃の暴挙や、日本企業の公害輸出に対する住民の闘いを、映画で、それが無理なら八ミリで、それもむずかしければスライドで作りたい、それへの連繋を求める声がしきりである。その観客は第一にその国の住民であることは当然だが、映画を運び、隣国に、ひいては世界にその声を伝えたいという一途な映像的肺活量はあるのである。
 改めて、私は日本で映画をつくれる幸せを思う。文化・経済の力、・映像人口の層、小さなコミュニケーションの輪、それらがあいないまざって、私ごときもドキュメンタリー映画を作ってこられた。この”特権”に対し、第三世界の人びとは、日本の人びとの可能なかたちでの支援と協力を暗黙に期待しているように思えてならない。私たちの自主的な映画づくりの方法のかたちとは、「いついかなる場所にも携行でき、それを求める人びとの前で上映できる」という機能とその固有の融通無碍さにあるとすれば、この方法へのアジアの第三世界の映画を志す青年の嗅覚はずれているだろうか。私は正解と信じる。
 小さく、弱い立場に立たされる国ぐに、矛盾をかかえて苦しむ第三世界・第四世界の人びとは、一方に、とうとうと流入し支配している多国籍映画、世界市場的ネットワークのテレビを、彼らの生まれた時からある”天与の映像世界”として受容しなから、一方でその国ぐにの映画の創世紀をまさぐり、自力で自分の国の映画を作ることをその国の映画の”主潮”と見なす日を求めつつある気がする。そうしてできるささやかな映画づくり方式には、世界市場理論とは異なったもともと民主的であるべき各国人民問の連帯にもとづいた互換性が内在しているであろう。
 それら映画群が、物々交換され、”交流”される時代が、南は南、”黒”は”黒”、インディアンはインディアンの世界から、それぞれに生まれてくる必然性を予感しないわけにはいかない。そうしたインターナショナルな動向をうながすカが二十世紀を生きぬいた”映画”にそなわっていると信じるからだ。
 その日を思うことは私の愉しみである。その時、私は最も安あがりで手づくりのドキュメンタリー映画なるものの快楽をふりまきつつ、いくばくかの技能を持つ一職人として、鋏と老眼鏡を持ってアジアや第三世界を流浪する「映画流人」となることを夢みるのである。