上映運動とわたし 『青林舎月報』 復刊8号 4・5月号合併号 青林舎 <1981年(昭56)>
 上映運動とわたし 「青林舎月報」 復刊8号 4・5月号合併号 青林舎 

 ある著名な監督は自分の映画を二度と見ない性癖でしられています。またある監督のように、自分の映画をぜんぶそろえ、ひとりで見て往時を回顧しているそうです。私はそのどちらにもくみしませんが、上映運動でつねに観客と一緒に何十ペんとなく見る破目になります。自主上映ゆえ手ではこび、じかにあいさつし、水俣を語る機会が多く、上映中のひとりのあくび、ひとりの中途退場にも心臓が縮みます。暗闇でまっかになっています。
 作る人間と配給する人間と別系統であるのには理由があります。「フイルムに何かうつってれば一銭でも金にするのか配給のプロだ」とある商業的映画セールスマンは言います。妙になまなましくてこたえました。
 本当に欠点が見えるのは各地の上映協力者と一しょに映画を見る場においてです。あわてて自己批判してもあとの祭りですし、逆に、胸をポンと叩いて見得を張る芸もありません。ありのまま呈出し、足らざるは人手によって埋めていただくということの繰返しです。

 おそらくは同じ思いのスタッフ、仲間が「水俣の図・物語」の上映にむけて、いま、何百人もの人たちに遭い準備をすすめています。
 関西では「水俣・患者さんとその世界」以来の水俣映画を支えてくれ、「養護学校はあかんねん」を製作上映した、長征牡・市山隆次氏らが、十月から大阪を皮切りに、京都、堺、奈良、和歌山でのホール上映を決定しています。水俣のルート、映画愛好者のルートの他、丸木夫妻との友誼にこたえ部落解放運動の方方が協力して下さり、上映の巾と深さがいちぢるしく増したとのことです。
 北海道は丸木俊の故郷だけでなく、「原爆の図」展の実績と人脈の上で、旭川市では市長自ら市主催を受けて立ち、北海道新聞の全道的後援をうけるなどして、札幌、函館、釧路等十数都市のホール上映が七月にむけてすすんでいます。人脈の束の太さは格段です。
 九州は水俣の運動歴十数年の山上徹二郎氏が精力的に熊本・水俣を起点に活動しています。福岡では川本さんら謀圧裁判の控訴審の舞台が博多に移ったのを機に、支える会が再び運動体を結成し、映画上映も活動にとりこんでくれ、熊本では告発の人びとに加え、真宗寺等の仏教青年の団体支援も得られました。
 九州最初の上映では大分、中津で、豊前火力反対闘争を闘っている松下竜一さんに会いましたが、上映活動にむりを重ね、持病のあれこれがいっせいにおこり、入院したりしました。
 主催者代表、画塾の先生、成本倫子さんが、四月二十四日の畳の部で数百人の婦人(95%)をあつめ、松下センセの危惧をふきはらう成果をもって病床の彼をなぐさめました。

 水俣での試写会は不安でした。この映画が、「水俣病が終った」とする慰霊碑的効果をもちはしないかという声もあったからです。二晩百人近い方に観てもらい、支持を得ました。
 「これが十年前にでけとれば、もっと水俣病を分ってもらうのに役立った」(浜元二徳さん)とは過分のことばでした。
 坂本しのぶさんは、童子を抱いた水俣の女人像のモデルになっただけに、やはりショックをうけました。「わたしのなかにはいつも二人のわたしかいる。ひとりは赤ちゃんをほしいといつもおもい、もうひとりのわたしはあきらめている」と解きあかしてくれました。

 「水俣病である人も、水俣病でない人も、ともに生きるべき不知火海の世界」そんなテーマの不知火海水俣病元年の記録-をぜひ次回とりたいとの思いしきりです。水俣病発見二十五年、この映画が次の映画行動のバネになってほしいのが私たちの気特です。
 息ながい上映にむけて、パンフ、ポスター、そして現代企画室より単行本の計画もすすんでいます。それは何より誰よりも、私たちが「水俣を忘れない」ための活動として、です。
 (五・三〇)