水俣を映画に撮りつづけて 「草の根」 6月5日号 ふさの会
映画『水俣の図・物語』中津上映会(4月24日)で、この映画の監督土本典昭氏は昼夜にわたる講演をして下さった。以下に載せるのは、昼の部での講演記録である。その前に土本監督のことを紹介しておきたい。氏の近著『わが映画発見の旅-不知火海水俣病元年の記録』(筑摩書房)に載せられた略歴は、次のようになっている。一九二八年、岐阜県に生まれる。早稲田大学文学部除籍。映画作家。著書に『映画は生きものの記録である』『逆境のなかの記録』(以上、未来社)が、映画に『留学生チュア・スイ・リン』『パルチザン前史』『水俣-患者さんとその世界』『医学としての水俣病(三部作)』など多数がある。『わが映画発見の旅』は、多くの方々にお勧めしたい感動の記録であるが、同氏を紹介する意味で、右の本の「まえがき」を引用する。
『わが映画発見の旅』 まえがきーから
不知火海は私の虜われの地です。どこにいて、何をしていようと、ふり返り、帰りゆきたい因縁の海です。もちろん水俣病ゆえに結ばれたものですが、この海の美しさとやさしさは、私にとっての祖国であり、仮託をねがっていうところの故郷です。物をつくる人間として、映像と記録する気持の沸々と湧く何ものかをたえず喚起してやまない土壌をもつことほど幸せはありません。毒の海、老廃の海も、別の方角に立てば再生をねがい、賦活力をまだもつ海であり、その二重の動態は、日本の縮図そのもののように私には思えます。
私はあす作る映画のプランももたず、流れに身をまかせ、眼の前にある映画を抱擁することで二十年余、映画を作ってきました。その半ばが水俣・不知火海とのかかわりであったことは奇縁にすぎません。その人生のなかで、私たち水俣スタッフは映画をその海辺にはこんで人びととめぐりあう行動を試みました。この意図のなかから、私は、はじめて、次なる映画をイメージすることになりました。その実現の可否は漠としたものですが、目標は明確です。この志がみのるかどうかは別として、一映画作家としていま逢着している地点をありのまま呈示したいと思います。
序章は映画に入るまでの私の青年時代の苦い記憶です。あえて人に語るべきことではありません。しかし、筆をそこに染めたのはもはや退路を用意できない私にとって、先輩の胸をかり、今日にねばねばと尾をひく青春の不確かさに別れを告げたいからでした。ゆえにこの文章と旅の記録は、私のこれからの映画のためのシナリオ以前のモチーフの断章でありましょう。
私は企業と国家の不知火海でほしいままにした犯行を旅で辿りました。しかし私は政治の人間たり得なかったし、のぞんで映画を選んだ人間です。水俣・不知火海の数万、十数万の人びとに対する惨苦を強いた資本と政治は、水俣・不知火海からのみ狙撃できるのではないことは明らかでしょう。だが映画で事を起こし、映画に収斂することでしかこれと関われない以上、フィルムの何十万駒、何百万駒のなかに、あるべき不知火海を描きつづけたいと思うのです。
ー風成に寄ってきました
今日は、あの、私ども多く映画会やってまいりましたけれども、私の映画でこのように女性フアンの多いということはどういうことか、さっきから考えているんですが、多分、主催者の成木さんその他、何人かのご婦人の方が本当に献身的に準備をやって頂いたおかげだというふうに思っております。
注、24日は金曜日で、昼の部の観客の大半は婦人であった。
それであの、(主催者の一人である)松下竜一さんは、殆ど私は面識はないんですけれども、私達の仲間が作りました『公害原論』という映画で、豊前火力の問題について、映画の中に出て頂いたことがありまして、非常に身近な方です。
今日は何か身体が-多分、今度のことで無理をされたと思うんですけれども、身体をそこねられて、電話口にもちょっと這って出られないといった状態だと承っておりまして、払、非常に残念ですが、また映画が終りましたあとでも、ちょっと御挨拶によろうと思っておりますけれども……。
うちの娘が彼の熱狂的な本のフアンでありまして、娘が買った本を私が読むという順序になっておるんですが、本当にすばらしい著作を残されて、私もあのう、カザナシと読むんだそうですが、私はカザナリ、カザナリというふうに覚えておるんですが、『風成の女たち』という本を読まして頂いて、その中で、あそこの御婦人達が海上での測量を断わるために、筏に乗って寒い氷雨の降る中を、みんなで身体をくくりつけて測量隊、機動隊に立ち向かったというくだりを読んで、私はあまり本で涙をする人間ではないんですけども、何回か本当に泣きました。
それで、あの、実は今回、この中津に来る機会があるというので、松下さんの書かれたものを本当に休験してみようと思いまして、昨日、フェリーで日向に入りまして、日没前に少くとも景色だけ見ようと思いまして、風成(大分県臼杵市)に行ってまいりました。
ー日没の海岸に立って
で、あのう、車で来たもんですから、津久見のセメント工場の方に行きまして、風成に出ようと思ったところが、どうまちがってか、会社の中にまざれこんでしまいまして、そして、あの無人工場みたいに誰もいないもんですから聞くわけにもいかず、中に入りまして、どこまで行っても大きいセメント工場があって非常に不気味で、やはり全部、粉雪が降ったようなところで、これが風成の隣りの大泊ですか、あそこに出来るような話だったんだなあと思ったら、あの、本当によくあの本の意味がわかりました。そして、水俣のこともすぐ思いました。
水俣よりもっと威張った形で、あのセメント工場はあるというふうに思いましたし、多分いろいろな毒が流れているとは思いますけれども、あるいは粉塵を通じての気管支ぜんそくか、いろんなことがあると思いますけども、水俣のようにけたたましく、ああいう形で病気が出なかった分だけ深くなっているんじゃないかというふうに思いました。
ですから、日没のときに風成にまいりましたらホッとしたんです。あそこは決して豊かな所じゃないと思いますけれども、本質的な豊かさがあるということで、何も建ってないわけですね。建つことを防いだわけですから。
あそこの海岸で、ちょうどいまシラスをゆがいていましたけれども、それを一つまみ貰って食べながら、しばらく佇んでおりまして、やはりあのう、あそこの御婦人達が、はじめは小学校の先生をしておられた方を中心に数人の方々が、しかも男の方達が突きん棒漁で三陸沖やなんかに行かれたあとを守る習慣があるというのか、女の方が頑張る習慣があったというのか、まあそういう人達が頑張って、ともかくあれだけの斗いを、全国的に誰も知らない者はない斗いに発展させて勝ったということは、私にいろいろな考えをもよおさせたわけです。
ー病む子らとの出会い
それと申すのも、あの、ちょっと水俣の話を申しあげたいんですが、私、最初参りましたのは昭和40年で、最初の映画を撮って、この映画に登場してきます病気の女性で、加賀田清子さんと坂本しのぶさんという人が、映画の後半に出てまいりますけれども、私が最初に会ったときは、本当は八つくらいだったと思います。八つか九つだったと思います。
しかし非常に発育が悪いので、しかも這い這いしてるわけですね。余り立って歩けない、辛うじて立って歩くというので、私の見た眼には三つか四つくらいに見えたんです。
で、あのう、非常に人なつっこい子供達で、あのう私に対しても……要するによそから来る人には、病院生活で退屈ですし、非常に好奇心の強い育ちざかりだったと思うんです。
そういう子が僕にまつわりついてですね。そういった時に、私の娘がちょうど同じ年頃だもんですから、何ともいえない気持になって、それでまあ、それ以後水俣が忘れられなくなって、やってるようなものなんです。
この水俣の中で、たとえばこの映画に出て来る石牟礼道道子さんという人がいますけれども、私が昭和40年に水俣に行きましたところがですねーいまの水俣からは想像もできないんですがー患者の数がいまは一七〇〇人です。一七〇〇人ですが、当時は一二人なんです。で、それ以後出ないと、もうこれで(水俣病は)終りなんだという話だったんです。
しかしながら困ったことにですね、医療の予算が少ないので、「君たち、映画を撮ってくれ」と、で、すこし訴えてもらいたいと、ともかくケースワーカーも有料で頼んだ人は一人しかいないということでですね、まあ、予算をとるのには、世の中に知られたいから、映画を撮ってくれといわれたんです。
僕はテレビで最初行ったんですが、その後ずっと(水俣の映画を)撮ってますけど、その時一回撮ってくれといわれただけで、あとはもう撮ってくれちゃ困るということばっかりいわれてるんですが、そういうふうに、まあ、世の中移り変った。
注、『わが映画発見の旅』を土本氏は次のように書き起こしている。<私と水俣病との出会いはいわば不意打ちのようにはじまった。昭和四十年春、日本テレビの「ノンフィクション劇場」の三十分ドキュメンタリ一本を作るために水俣に足をふみ入れたのだ。水俣への心の準備はまったくなかったといってよい>
ー伝染病棟のその奥に
昭和4 0年に水俣に行きまして、水俣病の患者さんはどこにいるのかなあと思ってもですね、誰も教えてくれないんです。で、あれは済んだことだというようなことをいいますし、外部から知らない町にポッと行きますと、口をきいてくれるのはお店の人か、タクシーの運転手さんか、あるいは喫茶店の女の子か、バーの女の子とかいうようなことに、まあ、僕らだとなるわけなんですね。
行ったとたんに水俣病ってこと聞くと、誰もですね、隠すわけじゃなくて、へえーつて……そういえば、なんか暑い盛りの時に病院のそばの氷菓子屋で食べてた人があれらしいとかですね、そんなような状態だったんです。
それで、まあ、私はテレビの取材で行きましたから、いろいろ調べるルートがありますから、市役所に行って病院にも行って尋ねていきましたらですね、その子供達はどういう所にいたかといいますと、水俣の、出来ました病院のですね、病棟が何棟かありますけども、外来の人がウロウロする所は一番手前にあるわけですね、それから幾つもの病棟を行きますと、最後に伝染病々棟があるんです。
で、それはもう、そこから先は入ったらいかんということになってる。その伝染病々棟のその奥に水俣病々棟があるわけなんです。まあ、伝染病患者というものは、たまにしか出ないから隣りでもよかったのかも知れませんけども……。
だから、水俣病々棟に行くっていうのは、そこに行って水俣病の人に会うっていうのは、家族か、よほど水俣病のことを調べようとする人かでなければ会えないわけですね。
それで、そういう所にいるから、こんな子供の時代だった清子さんやしのぶさんもまあ、非常に歓迎してくれたわけです。
そういうわけで、水俣でいま運動をしておられる人で、水俣病の患者に会ったというのをずって聞いてみますと、私が会ったより三、四年あとなんです。たとえば、水俣病の運動をになったのは、やはり女性の方でした、日吉フミ子さんという、学校の校長になる寸前でやめて市会議員になった人なんですけど、お名前は御存知の方もあるかと思いますが、その人が(患者に)会われたのは昭和42年なんです。あ、いや?年です。
それで、初めて見てびっくりしたと、自分の町にこんなひどい患者があったのかということでびっくりしたんです。で、例外は石牟礼道子さんという人と、もう一人、赤崎さんという、市役所に務めておられる人の二人だけなんです。その二人共、文学者としての良心だけで、水俣病ってものにずっとつき添われていた方なんです。
ーえらい所に来たと……
その当時、石牟礼さんに初めてお会いした時に、「私は、水俣病は忘れられていくと思うけれども、私は書くことだけはしようと思う」と「ただ、私のものなんか誰も読んでくれないんで、とにかく何でもいいから出してくれるところで活字にしておきたい」といって見せていただいたのが、どっかの名もない少女推誌の、やさしいですね、なんというか物語の頁っていうか、そういうのに書いておられるんです。
決して『苦海浄土』とか、そういうふうなはれがましい一冊の本にはまだなってませんで、何かノートに書きつけて、記録作業をやっておられるというような状態でした。で、あのう、もちろん、患者の多い部落というのはあります。そこに私が、まだ交通機関もありませんで、国道三号線ってとこから歩いて……そこに行きました時に、僕なんか行きゃ、何者が来たか大体わかるわけですね。
大体、こんな恰好していけば、その七、八年前にありました漁民騒動の時に沢山来た、テレビとか新聞だろうというふうに、まあ、思うわけですね。
まして、映画の機材をかついで中に入ったんですから、とても嫌うわけですね。あなた方が撮りに来ても、この病気がちっともよくならないというのが本音だったと、これはあとで聞きましたけども、行っても誰も口をきいてくれないし……。
それから、たまたま部落の景色を撮っておりましたら、そこにたまたま日向ぼっこをしてる子供がいたんですね。それで、その子供が、僕にはまだわからなかった、そこにいるということ(の意味)が。なんとなし、何かゴジョゴジョと網のつくろいをしておられるなと思ったんで、そういった風景を撮っていたところが、「何ばしてこの子を撮るか、お前はこの子を撮ったろう、この子を撮るために、いまそこで仕事をしたろう」ということで、もの凄い勢いで怒られまして、誰もかばってくれる介添の人はいないし、気持としてはこういうことで……と、いろいろ説明しようと思うんですけども、僕自身がもう気が動転するというか、えらい世界に来てしまったと、まあ、思ったんだろうと思いますけども、何も言えないということがありました。
ですから、水俣の方々にしても、そういう所に行ってですね患者の人たちと会うということは、全く稀なことだったと思うんです。
で、あとで聞きますと、石牟礼さんが訪ねて行くにもですね、日立たないような恰好で、カキを打つような人の服装で入って行ったと、それでまあ、水俣弁でしゃべることによって、気持をほぐして話をしたということを、聞きました。
まあ、そんなところにガサツな人間がとびこんだから、石をもて追われるのは当然なんですけども、で、そのことで私の苦労ということをお話するつもりではなくて、あの水俣が、いまこれだけの問題になってるけれども、そのことで水俣のことをちゃんと話そうというふうに考えられていたのは、昭和40年でたった二人の人間であったということなんです。
ー自分がやる運動
それで、水俣病を告発する運動というのは、最大運動が盛んになりましたときには全国支部ができて、機関誌は一万五千部から二万部刷りました。これは、こういった類の機関誌としては大変に沢山の量だと思います。
注、昭和44年4月、熊本に「水俣病を告発する会」発足。機関誌『告発』を発行。
その運動が起きたのは、患者さんが裁判をされた直後なんですけども、これには一切の政党を介入させてはならないと。それは、手伝って頂くのは結構だけれども、政党としての仕事としておやりになったんでは、政党の方針が変われば、あっち向いたり、こっち向いたりされるかも知れないから……。そうじゃなくて、水俣病をやろうという人達だけでやろうというのが、熊本の、いまも続く告発運動の寄り集まり力の精神なんです。
その後、全国的に大変な勢いを一時持ってですね。裁判をこれだけ勝たしめた運動の最初を申し上げますと、やはり文学を非常にやっておられる渡辺京二という人がいます。これは御存知の方もあるかも知れませんが、東京でいろいろ文筆活動をやろうと思ったけれども、郷里に帰って同人雑誌をやったりした人で、北一輝とか宮崎滔天とか、またいろんな評論なんかに活躍しておられる人なんですが、その人が、何か運動を始めなきゃいけないと……ところが、人をですね、連れて来て運動をするというのは、自分は余り好かないと。だから自分と一番気の合うですね、その当時熊本大学の学生だと思うんですけども、小山さんという青年と二人でですね、チッソの前に坐り込んだんです。二人だけでプラカードを持って、俺は坐り込むという趣旨でですね。ビラまきも何もしないで坐り込むということを始めたんです。
それを見て、熊本の文学仲間達がですね、捨ててはおけんとーそれは、その話は石牟礼さんが渡辺京二さんに話してその二人の坐り込みになったわけなんですがーその次の日曜日ぐらいに、熊本の人が六人で水俣の町をデモしたんです。チッソを許さないと、水俣病患者を救済しろという六人のデモ。
これも、呼びかけはしないで、自分はやると、そういう人が集まって六人でやった。次のデモは八人でやったということから、まあ、始まったというんですが、そういったことを考え出されるには、それまでにいろいろ、こういう形だけでいろんなことをやってもダメだと、自分がやらなきゃダメだと、いろんなことがあったと思います。
やはりあのう、自分でなし得ることを、やっぱりやるという一種の不思議な、こう……戦後のいろんなことの中で、一番心にこう、いつまでも自分で頑張れる考え方ってのか、そういったものでおやりになったと思います。
で、そういうことが、私は、今日、中津に来ることになって、松下さんなんかの本を読みながら、いろいろ……車で来つつ、もういっぺん考えたことでした。
ー水俣と原爆と
それで、水俣病は裁判が終りましてからですね、一応終ったというふうになってますけれども、よくまあ、僕らは、水俣病はまだ終っていないと、自分でそう信じているかのように言っているかのようにとられますけども、私は、本当に水俣病は終ってないどころか、まだこれからうんと探さなきゃいけないというふうに思ってるわけなんです。
この映画の中の主人公の丸木位里さんと俊さんは、皆さん御存知のように、中年から晩年にかけての一切を、あの原爆の絵を描くことに費した人なんですが、ですから、撮りながらいろいろ話したんですけども、原爆と水俣は非常に似ているところがあると、だけど違うところもあると。
で、似ているところはどういうところかといいますと、治しようがないんですね、両方とも。
それは、原爆はやっぱり、放射能を浴びて体のある種の質が変ってしまいまして、(下図は「水俣の図」)それにつける薬はないわけですね。で外傷のヤケドとかそういうものには、外傷的な薬はあるんでしょうけども、本質的に人間として、まあ、遺伝の問題とか、それから、じわじわと根本的に血液が白血症になったりしていく、この病んでいくということに対する薬はない。
水俣病もそうなんです。
医者が、水俣病の原因は何か、それが水銀系であると、しかもそれが有機水銀だとみつけたときに、治し方がわからなくなったんです。治せないということが、はっきりしたんです。
ということは、ただの水銀ですね、ただの水銀でしたら治す薬がかなり前からできているそうです。その水銀を胃の中に、たとえば昇汞(しょうこう)なんて薬を、まあこれは水銀ですけど、あれを呑んだら、すぐ卵の黄味を飲ませると蛋白と結合して、吐かせりゃいいとか、それからキレート剤というような錠剤が開発されてまして、それでやればいいとかいうことがあるんだそうですけども、有機水銀というのは、いままで食べ物にも登場したことはないし、毒物としてもこの文明の中で出来たものだそうです。
ー有機水銀のこわさ
有機水銀というのは、無機水銀と違う行動の仕方を持ってるそうで、普通、無機水銀というのは、胃の中に入って、消化器系統を全部つぶして、ビランさせていくそうです。
で、水銀を食べますと、最初に接した歯ぐきがやられるんですね、それからのどがやられて、胃がやられて、それから腸にいって肝臓にいって、腎臓にいって尿毒症を起こして、ボウコウをただれさせてですね、そして最終的には、やっぱり腎臓、肝臓がやられて死ぬというコースを辿るわけです。
ところが有機水銀というのは、胃の中で消化しちゃうんですね。消化して血液の中に入って、血液と一緒の行動をするそうなんです。
で、それが成程と思うのはですね、無機水銀だと人間の脳とか、あるいは婦人の方の妊娠中の胎児に移るとかいうようなことはあまりないそうなんですね。
つまり、地球上にもともとあった毒物というものに対しては、永い歴史の中で人間とか動物も、それを致命的にですね、その生き物が死に絶えるようなことがないようにですね、脳に入るところに関所があって、その毒は脳になるべく入れないという作用があるとか、あるいは胎盤の中に行かせないように関所があるとかいうことで、無機水銀の場合は動物実験でもあまり入らないんです。
ところが有機水銀の場合はすうっと入っちゃって、結局、脳の中枢の神経を冒すと、あるいは胎児にまで侵入する。
これは、人間の体が、地球上のいろいろな条件、毒物もあるところの、水銀なんていっぱい方々に自然の形であるわけですから、そういう毒物に対して人間が備えたところの防御装置ってものが(有機水銀に対しては)全然きかないと、そういうことは、結局、この文明社会の中で、人間が作り出した毒物だということなんです。
そういう意味において、あの原爆というもの、放射能というものと同じで、人間が作ったものによって、人間が統御できない、それを解毒できない、そういった質の病気だと思います。
で、これがやっぱり、調べれば調べるほどですね、今のままで終らせたら、えらいことになると、PCBも何か似たようなことだといいますし、水俣病の本質を忘れたりしたら、えらいことになるというこわさが、一方にあります。
ー終りにしたい者達
それから一方でですね、水俣病がなぜ終ってないかといいますと、水俣病をですね、(国は)困っちゃったんですね、きっと。
日本は化学工業の全盛時代がきました。その全盛時代がきたと同時に水俣病が起きてしまったから、日本化学工業界というところが一番悪質な動きをして、日本でも通産省とかそういった関連省庁が水俣病隠しの指揮をとったといわれてますけども、結局、水俣に起きたものはしょうがないから、なんとかやろうということで、それからまた、斗争が起きればあんなに騒がれるから、しょうがない、もう(一応の対策を)やろうということでやってきたんであって、私達の(監視の)手がちょっとゆるむとですね、全部さぼるんです。
で、このさぼることが一番はっきりしたのはですね、裁判が終わってからなんです。
裁判が昭和43年に終って、患者さんが勝ってですね、世の中ちょっとホッとした。ホッとしたという隙間に、大学では(水俣病)研究がせばめられてですね、認定審査会の審査委員達にもの凄い圧力がかかって、なるべく認定させるなということになるし、新聞も大変な役割をはたした。新聞、テレビも、一応ホッとすると、それから告発する会の連中もホッとする。その隙に乗じてですね、水俣病を本当に調べなきゃならない、救済しなきゃならないいろんな諸行動が、ほぼストップしちゃうんです。ストップするというか、大勢がですね、やっぱり水俣病は一応解決したということに逆らえない、そういった状態が生まれまして、そして今まで、あれもしたい、これもしようといった研究者がどんどんその夢をつぶしていきました。つぶさざるをえないようになりました。予算もつかないし、体も忙しくなる。
それから、運動をしてた人も、あのう、青年が運動してるうちにですね、その中で恋愛し、結婚し、所帯を持ち、勤めるというようなふうになって、あの当時20才ぐらいで活動した元気のいい告発の中心の青年達は、いまうす汚れた中年の34、35になって、いや、精神はうす汚れていないんですけど、生活的には大変くたびれてきて、なかなか行動できません。
ー水俣湾のいま
そういった間に、どういうことになってきたかと申しますとですね、水俣の湾に流れた水銀によって、もう微量の毒を持った魚がですね、前は死んだし、浮かび上ったし、食べなかったんですけど、いまは(汚染魚が)わかんないんですよ。ピチピチしていて、で、やせてるとか、それからね、ちょっと泳ぎ方がね、横に泳ぐ魚だとか、おかしいのはいるんです。要するに、僕は心身障害魚だっていうんですけどね、要するに、生きてるけども病気を持ってるという、そういった魚が多い。だから見かけは非常に新鮮です。
そういう、水銀に冒された魚っていうのはいるわけですね。そうすると、どういうことになりますかというと、あのう、湾の中にごく微量でもですね、ライフサイクルといいますか、永生きする魚は永生きしない魚を食うわけなんだそうですけども、ところがそのう、どんなに微量になっていてもですね、魚が水銀を食べてですね、そのまま排泄できないで体に溜めていく蓄積っていうのはですね、通常三千倍から一万倍なんです。
(これは生体濃縮といいますが)そうすると、仮りに汚染がですね、十分の一さがったとしても、生物(魚)がいる限り濃縮する濃度というのは変わらないわけですね。
で、それが永生きするところのタイとかハマチとかいう四、五年魚になると、もっと沢山のそういう生物を食べるわけですから、タコにしても底のものを食べますから、そうした魚達は、急激には死なないけれども、生きたままで相当の水銀を持っている。それでいて、その魚はやはり食べられているということからですね、病気のあらわれとしては、以前のように沢山の水銀がドボドボと流れた時の狂い死にのようじゃなくですね、ゆっくりと人間の体に入って、ゆっくりと冒してゆくという形で出ています。
それは、一つの面です。これは、いろんな学者さんがおっしゃってることで、ほぼ定説だと思います。
で、私も水俣へ行けば魚は食べますけども、それは、味はちっとも変わりませんから、どんなにひどく汚染された時でも味は変わらないんです。おいしいんです。だから食べます。
水俣の方々の食の習慣からいうと、大分こわがってはいますけども、中年以上の人はもう、その(魚を食べる)習慣をやめられないんですね。
そういったことで、やはりあのう、老人の若死、中年の若死が非常に多い。で、そういう人は水俣病というふうにはいわれないで、やつぱりあなたは他の病気ばいということで処理されてる。それをどういうふうに調べるかということが、全くいま大きく残っております。
-離島にいた患者
それからもう一つは、びっくりしたんですが、私はあのう、自分の作った映画を持ってですね、ちょうどこの辺でいいますと、どういうふうになりますか、海岸ばたの漁家でですね、大体、戸数が百戸とか二百戸とかいう、漁師さんの離れ部落ですね、そういう所を天草で歩いてみたんです。
天草で、不知火海がありまして、向こう側になるんですけども、そういう所は電気が来たのがですね、昭和41年みたいな所ですから、情報が、新聞なんてのは、テレビが来たんでどんな番組があるかというのを見るために取始めたというような、その前はそういう所に二、三枚の新聞しか来ていない。
テレビが来てから水俣病ということを知ったんで、知らないで何でも食べてたところです。
そういう所に水俣の映画を持って行って(見せながら)水俣病はこうだというふうに、私がいっぺんずっと歩いてみました。
そうしたら、いま水俣でもなかなか見られないほど、全部の症状を持った患者がごろごろいるわけです。
そういう人達に、(行政の人達が)多少調べに行ったでしょと言ったら、「来るのは来たけど、あんなのにかかずらったんじゃ、漁師ができないから、みんな、異常なし、異常なしに丸つけて帰しちゃった」というんです。ひどいことになっています。
このことに関しては、私も本を出して、いろいろ方々にも送って注意をうながしたんですが、やはり行政は、一度済ましたことは二度とやらないという体質がありまして、離れ島とか天草とかのそういう(患者の)人達については殆ど手をつけていません。(語気激しく)今後も手をつけることは、ないと思います。
ま、放っておくと、そういう所で水俣病と気付かず死んでいくと、また気付いてもですね、このぐらいのことはしょうがなかと、もう私の運命だと思うというようなことで、自ら泣き寝入りしていく人達がごろごろといます。でも、放っておいて済むかといいますと、病気は確実に起きてきますし、あの地域全休に体力の低下という人口層が分厚く出て来ると、そういったことから、原田正純という熊大の先生がいますけど、一世紀追跡しないと、この(水俣病の)被害の総休が浮かんで来ないと、一世紀経って、いまの親達が死んで、その子供達が生きて、その子供達が次の世代くらいまでに、ここにどういうふうな人間集団が生まれるかということまで見ないと、こわさの本当の全貌がわからないと、そういうふうにおっしゃるわけですね。
そういう息の永い被害が、水俣であったわけです。そういうことを、かなりまともに思いますと、私、50才を過ぎていますので、いつまでもやってられるわけじゃないわけで、いろんな人にバトンタッチしてもらいたいという気持が、切実にどっかであるわけなんですけども……。
ー丸木さんと水俣
そうはいいましてもですね、今度の映画を作って、ずいぶん昔の仲間に会いました。東京でも、これはかなり評判になりましたんで、そして、子供をおぶって若い奥さんが(観に)来るんで、誰だったかなと思うと、あァ、一緒に坐り込みをしたあの娘だなとか、一緒にあれをやったこの人だなとか、というふうにありました。
そういうことで考えてみますと、確かに、時間の経つのは早いもので、なかなか行動できないということはあると思いますが、やはり一度水俣のことにかかわった人は、十年ぶりに思い出しても、昨日のことのようになつかしくやって来て、かいがいしく、いろんなふうにやってくれるわけです。
それは、映画ということよりも、水俣のことは、その人達にとって忘れられないことなんだと、私は思うんです。
それであの、私はもう一本くらい、まだ天草の話を映画にしておかないと片手落だというふうに思いますんで、それを思っています時に、これを作らないかという話が急に入って来たんです。
この丸木位里さん、俊さんという方は、いまや世界的な絵かきですね。特に、原爆の絵かきとして世界的に知られています。
たまたま、この人がフランスに行く時に私が相談を受けまして、非常な老体ですけども、フランスに「原爆の図」を持って行く相談を受けまして、「わしゃ、水俣のことはちっとも知らんけど、水俣のことを聞かれたら困るから、なにかフイルムを貸してくれ」というんで、私は自分のフイルムのフランス語版をお貸ししました。それで、帰って来られまして ーフランスで呼んだのは、フランスで環境運動をやってます青年達なんですけども、私達と似たような人達だと思いますけども、(絵やフイルムを)持って行ったらですね、フランスでどういうことが起きているから丸木さん達を呼んだのかといいますと、コンビナートをやはり海岸に造るということなんですね。
コンビナー卜を造る場所が、大西洋の所もあるし、地中海側もあるしー地中海というのは、大きい不知火海みたいな袋になった海ですから、方々の国が汚染しているわけなんですけども、そこの海で、ある工場の排水口で漁師が漁をやっていて、ボートから落っこちたら、浸った分だけ身体が全部ただれたっていうんですね。そのことからミナマタのことが非常に心配だったと。
だから原発の問題も、いまフランスは原子力発電をどんどんやってますから、世界で二位か三位の原発の国ですから、原発の危険をみるためにも、原爆の絵を持って来てくれといったんですが、話す話題は、全部ミナマタのことが多かったそうです。
いまのミナマタはどうなっているか、ミナマタはどうやって斗っているかといったことが非常に多く聞かれた。
そういうことを、(丸木さんが)非常に心にとめて帰られて、帰ってから、実は水俣のことがずっと気になったんだけど、描きたいと。描くには勉強せにゃいかんということで、おつきあいを始めて、私の映画を全部おみせしたりなんかしておりました。
私はあのう、どっかで非常に気の小さいところがありまして、絵を描く途中を撮りたいとは思ったんですが、そんなことを言ったら、邪魔くさいといって怒られるんじゃないかと思ってですね、僕は言わなかったんですけども、あのう、「水俣の図」を描こうという時からおつきあいを濃くしておりましてー知り合ったのはもっと前からですがーまあ、心安だてに、「先生、これ記録しときませんか」と言ったら、「そらぁええのう」という話になって、案外あっさりとOKされたもんですから、「それじゃあ撮りましょう」ということで、撮るようにしたんです。
ー何が残るか
私がこの映画を作る一つの気持としては、本当はですね、水俣の天草の映画を作る方が意味があることだと、その時は思ってたんです。いまでも、どっかでそう思ってますけども、しかしですね、四十年間、原爆の問題やいろんな戦争をテーマに描かれた絵かきが、最後にやはり水俣を描かざるをえないという宿命みたいなものを思いました。
つまり、戦争から原爆からいろんなことを描いて来て、やっぱり水俣を描かれる必然性というものがあって、それが、この人達の、体力的にいっても最後の仕事だと僕は思うんですね。
最後に水俣にかかわられたということはね、一面で、同情にたえなかったんです。正直にいいますと。
要するに、これほどへ卜へ卜になる題材はあるだろうかというふうに思ったんです。(お二人が)もっと若ければいいんです。若ければ、どんどん体力でやっていけますけども、もう80に手の届く丸木位里先生と、70に近い俊さんがですね、これをやるのは大変なことだというふうに思ったわけです。
それを、なんとかお手伝いしたいという気侍もありまして、ま、これを(記録をして)残しておこうと。
で、まあ、僕は変なことを考えますけども、映画やテレビがどのくらいもつと思いますか?時間として。いまんとこわかっていますのは、フイルムで、百二、三十年くらいだろうといわれています。
よく、結婚式なんか写真撮っておくと、カラー写真が色が赤くなりますね、ああいうふうにですね、最後はポヤポヤなっちゃうんですよ。白と黒の写真の方が、まだいいんです。結婚式はね、二枚撮っておくのがいいんです、白黒とカラーと。
映画のフイルムは、大休、百二、三十年ですね。テレビで撮っておくとどうかといいますと、あれは磁気が段々拡散しまして、だめになるんです。そういった意味で、写真集の方がまだ永く続きますね、活字はもっと永い。
ところが、水墨画の、いままでわかっていますのは、やっぱり千年前の筆と墨はまだ残ってるんですね。油絵は非常にこわれ易い、保存に大変ですけども、墨は非常に強く残る。一千年はもつだろうというんです。
もし、いろんな記録がなくなって、文字と絵だけになったらどうだろうと、やっぱり千年、なにも千年後まで考えることはないと思いますけど、千年後まで残る芸術があるとすると、それは大変なことだなと。
つまり、なんで昔の人がこんな悲劇を描いていたのかってことを考えるのに、それと字しか残ってなかったら、それだけでも考えてほしいなというのが、どっかにありました。
同時に、この映画の中で、一つのみどころというか、見ていただきたいのは、本当の水俣の患者さん達のことを撮った映画は一四本あります。それを最初に観ていただくとありがたいのですが、そういうわけにもいきませんので、ちょっとおぎなわさせてもらいますと、水俣の一番ひどいところを知っているのは、もう家族しかいないんです。いま生きてる人の家族は、苦しみは大変ですけど、もう想像を絶した大変な時期を知ってる人は、家族しかいないんです。それを、やや知ってるのは石牟礼さんなんですね。方々、聴きに行きましたから。
ー詩と音楽と
それで、石牟礼さんの文学には残ってるんです、一番の地獄が。それで、私は思いました時に、絵は何もしゃべってくれませんので、石牟礼さんに、非常に象徴的な形で言葉にしてですね、詩として、絵に乗せたいと。それについては、石牟礼さんに読んでもらうのが一番いいと頼みました。
絵だけでなく、言葉で一番ひどい時の有様を耳から聴かせてほしいと、それで絵を観たらどんなふうになるだろうかと、もっと絵がよくわかるんじゃないかと、そんなふうに単純に思いました。
それから音楽が、これがうまく成功したかどうか、これがよくわからないんですけど、成功したという人もいるし、おまえ、なんであんな音楽を使ったかといわれる人もあるんですけども、武満徹という音楽家がいます。
この人は、一説によりますと、世界に通用する唯一人の日本の音楽家だそうですが、私は昔からの友達なんです。
それで、僕がお金がなくても作曲してくれる友達は、彼しかいないんです。で、タダでは出来ませんけども、いわば普通いうところの作曲というのを、ちゃんとやってもらうには、そんな金がなくてもやってくれるのは、友達甲斐の武満だけです。
武満という人は、九州の鹿児島の川内の土地の人です。九州で眺めた外の海も知ってるし、不知火海もどっか体験にあって、この十年、海をテーマにした音楽を書いてる人なんです。
それで、水俣ということに連想をもった音楽を書いてほしいと、それを独自に書いてくれと。伴奏音楽みたいに、映画ができてから、これに入れようかというんじゃなく、あなたの一番の音楽というのは全部切らずにそのまま、眼をつぶって切れば、音楽会に行ったくらいのしっかりした長さで書いてほしいと、それをまあ合わせてみたいといったわけです。
これで、詩と音楽と絵画と三つの要素があれば、相当な水俣についての、いろんな思いが伝わるんじゃないかと、ま、そんなことで、こういうふうにしてみたんですが。
で、私は率直に言ってですね、記録映画の方法では過去がちゃんと再現できないんです。人の話を聞いてあれするとかですね。
その意味で、詩とか文学の力を欲しいわけです。現在を撮るには、映画は一番いい方法なんですけども、なかなか過去が撮れない。
それからあの、過去は、人間の記憶力とか想像力の中で一番色濃く蓄積されて表現される方法ですから、そういう意味で石牟礼さんや、あるいは絵という方法でやってもらいました。
ー幻想のあかんぼ
それから、もう一つありますのは、これから水俣とどういうふうに向き合っていくのかということは、いろんな人さまざまですけども、単純にいいますと、水俣を忘れてほしくないという気持だけなんです、この映画は。
水俣の人達とつきあうと、とても、なんかいいんですよ……と、いうのはおかしいんですけどね……要するに、活字やテレビで観るかぎり、他人なんですね。いくら、患者さんが出て来ても、したしみが、まだちょっと湧かない。
ところが僕は、本当に困ったくらいに、水俣の人とですね、あのう、気が合っちゃうんです。患者さんとね。
というのは、患者さん達もあれだけ苦しんだのに、いい人達だし……それから、言葉にはならないくらいに障害をもった娘さんが、僕にはきれいに見えるんです。
で、ちょっと見ると、正直いって、きれいに見えないと思うんです。と、僕にはずーっと、きれいに見え続けるんです。八つか九つの頃に会った子からですね、いまは娘盛りをもう、普通でいったら過ぎようとしている24、25になった女の子に、ほんとに僕は女性を感ずるんです。
これを感じないはずはないと思うんですね。
そういう、ほんとに歌の文句にあるようにですね、あなたを抱いてあげたいというような青年が現れないものかというふうに、ほんとに思うんです。それは誇張じゃなくて思うんです。
で、それは、身休の痛めつけられた分だけ、他の物が非常に沢山その子達に残っているわけですね。残っているっていうか、彼女達が生み出したっていうか、きれいなものがあります。
そういったものを、つかみとるには、僕はやはりさすがだと思いましたけど、丸木位里さんと俊さんは、僕は何もいわないのに、一番みごとに適確にそれをつかんでくれたんです。
それを東京なんかの会場で(上映会)をやってみますと、若い子のアンケートに書いてあるんです。「僕はあの子と結婚してもいい」と書いてある子が出て来たんです、学生で。
もちろん、ほんとに(結婚を)するかどうかわかりませんけども。そういうアンケートが出て来たんです。
これが、私はですね、この映画で与えられた一番嬉しいほめ言葉だったと思います。
この映画の最後に、しのぶと清子さんという胎児性の患者で、いまはもう娘さんですが、彼女達が幻想のあかんぼを抱くシーンが描かれていますけども、それは全く正しいんです。
あの人達は子供を生めるんです。しかも健康な子が生めるんです。そこが、原爆と違うとこなんです。原爆と似たとこもあるし、違うとこもあるといったのは、そこなんです。
というのはですね、あのう、全身被爆した放射能ってのは、身体のいろんなところに入って、いろんなおかしなことしますけど、水銀ってのは、身体の中に入って、こわしてしまっていて、いま血の中にブヨブヨと浮いてはいないんです。とりつくところにとりついて、脳の細胞を冒しね、胎盤を通って胎内の子供を冒し、そしていろんな臓器を弱くしていることはありますけど、血液の中にブヨブヨブヨブヨ浮かんではいないんです。あれは、食中毒なんです。非常に特異な食中毒でですね、私は幾つものケースを知っていますけど、水俣病の患者でかなり重症の娘さんが結婚したんです。
その人は妊娠中は絶対に魚を食べなかったです。それは水俣の魚だけじゃなく、どこの魚も食べなかったです。そしたら、いま三人の子を持っていますし、一番上の子が小学校に入ってますけど、立派な子が年まれてるんです。
結局、水俣病の悲劇は、普通に食べられると思ったものを食べてなったわけなんです。それを食べなきゃ、起きなかったわけです。だから、いまのしのぶちゃんにしろ、胎内でそういうのを冒されてますけど、その子がもし結婚して妊娠したら、彼女もきっと魚を食べないでしょう。そうすれば、立派な子が生まれます。
で、男の子からの遺伝子的なあれは、幾ら調べても出て来ないですね。また、病気の男の子が健康な女の子と結婚して、二人まで子供をつくっているケースを知ってますけど、それもみごとな子供が生まれています。
大きくなっての、神経とか知能のレベルについては、これはまだわかりません。しかし、水俣全体の子供が悪いんです。いま、水俣病多発地帯の小学生中学生の平均のいろんなものは、体力的にも、いわば行動のすばやさとか、学力の点でも、残念ながら普通の水準の、あの辺の水準のツー・ステップくらい下なんです。これは、先生方が、残念ぶりをこめて記録していますから、そのことは申し上げてもいいと思うんですけども……。これが、いまの水俣なんです。
しかし、そういった中で、悲劇的な不健康という形では、(子供は)絶対生まれないと思います。
そういった意味で、しのぶさんや清子さんがあかんぼを手にしているというのは、フィクションですけども、幻想ですけども、それは実現可能な幻想なんです。
そういうのをつかまえられたのは、俊さんという女の絵かきさんの、すぐれた直観だろうというふうに思います。
あまり、映画を観る前にいろんなことを言うのは、みっともないんで、これでまた映画に戻りたいと思いますが、この映画には全部、嘘は一つも入っていませんので、希いは入ってますけど、ゆがめた嘘は一つも入っていません。記録映画です。そういう点で、観ていただければさいわいです。どうも、ありがとうございました。
(拍手)