「仲間がいる!」の旅-丸木俊さんも同道 『水俣』 第136号8月 水俣病を告発する会 <1981年(昭56)>
 「仲間がいる!」の旅-丸木俊さんも同道 「水俣」 第136号8月 水俣病を告発する会 

 ・・・すばらしい体験ゆえに・・・

 この七月中旬からの二〇日間の北海道一ニ都市の巡回上映は私たちだけの体験にしておくにはもったいなかった。幸い丸木俊さんは主要都市に同道し、挨拶に立たれ、その一端を見ていただけたが、出来れば患者さんとともに旅をすべきだった。それは各地で若い未知の仲間と次つぎに出遭え、水俣のこと、その明日について語りあえたからである。
 およそ公害、自然汚染の最も少ない北海道で、海の汚染、魚類・生類から人への有機水銀による被害を分かってもらうのには、他のくにの出来事のようにむつかしい。「チッソで使用した水銀は大雪山系の鉱山からとれた水銀です」とあの水俣病に終始かかわられている旭川医大の土井隆雄上映実行委員長(旭川)はその関連性を指摘する。だが北海道はそれを実感するには幸いにして美しい。
 そこにも別の問題が走っている。それをうけとめる人がいる。岩内・泊の原発反対運動の労組員(岩内・倶知安)、日韓・金大中を救えの会のYWCA勉強会の人々、金芝河のスライド上映をした若い仲間(函館)、大雪自然をまもる会(旭川)、水俣甘夏のルートを生かした釧路、丸木さんの原爆展をやった旭川の人びと。年配の平和運動家から消費者グループの若い主婦たち。それに障害者運動の実績をもつ札幌。告発の運動を東京で数年間やって北海道新聞につとめ、滝川・倶知安の支局などで地域にがっちり入っている横田光俊・吉田夫妻や佐竹政治君など旧知の仲間が水を得た魚のよう。特筆すべきは相思杜以前以後の十数年水俣にいた柳原彰君が札幌の労働党常任として健在で、すっかり若い人たちの人気ものであり、上映運動、集会実務の生き字引きとして頼りがいのある存在だった。
 水俣市の教育委員会が、映画そのものを見ないで「暗い」として後援を拒否したことはわらいものにされていた。道教育委、各市教委が支持し、TV局、北海道新聞は後援にふさわしいキャンペーンをひろげた。NHK地方局(北見)は連日テロップで流した。こうして全道人口五百万人のうち中学生の団体を含め五千人(券では七千余人)がこの映画を見にきてくれたのであった。

・・・原爆そして水俣・・・

 私は毎回あいさつで、今日の水俣を語らせてもらった。不知火海に今も放置されている万余の人びとを知らせ、今日国・県による水俣病患者の切りすてを訴えた。「一五年戦争ですら終りをむかえ、教訓をのこし得たのに、水俣は二五年戦争でまだ何も終っていない」というと、皆うなずいてくれた。
 幸か(不幸か)教科書問題がこの上映についてまわった。この映画に登場している丸木位里・俊さんの場合、原爆の図のさく除として、石牟礼道子さんの場合、字句カットとして。そして二人とも教科書問題に真向から立ちむかっておられる。その人と思想をこの映画の中からも読みとるのだった。アンケートは多く戦争・原発・水俣とつなげての感想だった。
 旭川・札幌そして俊さんの生地秩父別での彼女への歓迎などは全道・全市的な観があった。俊さんは「戦争中、私は捕まり拷問をうけ殺される人びとのなかにはいなかった。私はこんどは頑張って戦争と公害に抗わなければ”あの世”にいって先輩に会わせる顏がない」と柔和に、しかも決心の深さを告げていた。その彼女も、東京・中央での教科書問題のため、全道に足をのばすゆとりなく帰られた。北見の人は、そのためその発言の文集をつくり、上映会当日に百円パンフとして配布し俊さんの意を全員に伝えるのだった。(北見なんでもやっちゃう会)。

 ・・・点をつなぐ糸たち・・・

 北海道で旧作の何本かは上映されていた。しかし今回のような規模は初めてだった。それには仲間ボメのようだが、西山正啓助監督の一カ月近い全道オルグが効を奏した。「こんどの映画で次回作の足がかりをつくり、人脈をつくらなかったら、土本はおろか、おれたち後につぐものの、明日はない」と念仏のように唱えての活動ぶりだった。彼をそうつきとばしたのは、大阪を中心に関西、四国、中国の上映を布石している長征杜の市山隆次氏の叱咤げき励によるものだった。氏は「養護学級あかんねん」のプロデューサーでもあり、水俣映画を一貫して根付かせてきた貴重な存在である。その氏の係わる障害者運動の総合誌「そよ風のように街に出よう」を西山は北海道に配布もして応えた。
 今回中心の活動家は無党無派の若い世代の人びとだった。それを”旧派” ”中年派”が似つかわしく支えた。
 「今まで北海道の各地にいい人たちがいるとは聞いていたが、その人びとの所在が、埃を払ったように見えてきた。今後のつながりが出来た・・・それが最大の成果だ」と札幌ミニコミセンターの西村英樹君は札幌上映終了の夜、総括した。
 翌朝そこに居あわせた若い人たちは他の街、苫小牧、小樽の応援にととび出していた。

 原爆と水俣ー戦後史の中で人びとをその生存において冒す出来事としてとらえている人びとのつながりは確実にあった。それが上映の旅の最大の収穫であった。ああ患者さんとともに旅したかった、というのが残る悔いである。
 これからの関西、九州、北陸、東海の上映の網を期待するのも実はその点についてである。点をつなぐ糸からあらたな日本列島の形が生まれはしないかとー
 (八一・七・一三)