“あらすじ”にかえて 『わが街わが青春-石川さゆり水俣熱唱-上映用チラシ』 9月 青林舎 <1981年(昭56)>
 “あらすじ”にかえて 『わが街わが青春-石川さゆり水俣熱唱-上映用チラシ』 9月 青林舎

 やけるような南国・九州の水俣に、津軽海峡の冬をうたう石川さゆりのうたが流れたのは昭和五十三年の夏でした。日本じゅうの関心をあつめた水俣病裁判から五年後、水俣のまちなかですら水俣病は終ったかのように人の噂のとだえがちなその頃、はじめてきく「水俣・若い患者の会」という名の胎児性患者たちの主催によって、『石川さゆりショー』がひらかれようとしていました。不自由な手でポスターをはりチラシをくばり、かなわぬ口で切符を頼む八人の胎児性患者たち、宣伝カーで海岸ぞいや島の漁村をまわる彼らをみて、街の人たちはあらためて「ああ、あん子たちも成人になった!」と思うのでした。
 若い患者たちは裁判後も、お金よりも「自分たちにできる仕事をみつけてほしい」と折あるごとにチッソ会社や市役所に頼んでいました。たまたま訪れた、ときの環境庁長官石原慎太郎氏にも願いでました。しかしそれはかなえられませんでした。その重苦しいやりとりのなかでひとりが「せめて石川さゆりを水俣に招びたい」といいだし、その位ならという答えをもらったのです。「スターをよぶ?興行師のマネでもするとか」と親がまっさきに反対しました。「デッカイことを……」と若い患者は思いました。若い仲間たちには、その気持は分りました。自分たちと同じように水俣病のまま成人をむかえ、スターにあこがれ青春の想いに身をやきながら、重症の床に苦しむ多くの仲間を慰めたい気特はひとつだったからです。「どうか一人前に見てほしい。やればやれる自分たちをおとなとして扱ってほしい!」二ケ月の準備活動はその意気で続けられました。それはこの人たちの水俣市民とのつきあいのはじまりでもあったのです。石川さゆりは熱唱をもってこたえました。病気の仲間たちと一千人の市民が席を埋めつくし水俣市はじまっていらいのイベントとなり、その大喝采は水俣事件史の鮮やかな一頁ともなりました。