映画は水俣をいかに北海道へ手渡したか 『記録』 11月号 記録社 <1981年(昭56)>
 映画は水俣をいかに北海道へ手渡したか 「記録」 11月号 記録社

 今回、このような形で『記録』誌誌上に、各地の上映活動者の体験記をあつめ、「『水俣の図・物語』北海道上映レポート」としてまとめたいという助監督西山正啓のプランを聞いたのは、八月上旬、予定地一ニカ所の映画会をおえ、私と彼の関心事だった羅臼・根室への気ままな小旅行の車中であった。納沙布岬は濃霧で貝殻島すら見えず、釧路への百五十キロの国道四四号線をただ霧だけを見て走りながらの会話の中で、彼は熱っぽく北海道で出遭った人たちのそれぞれの上映への思いを活字にし読めるものにしたいと語った。北海道で何かが動き始めた、誰がこれから北海道で事を為すにも、この各地のグループの人と出遭うだろう。この人たちの存在ぬきには、映画も演劇も反原発や日韓や自然保護運動も、北海道と連けいすることはないだろう。その人びとが、いまは点在する点であるにせよ、私たちはつらねて線として巡ってきた。これが私にとっての「北海道」だったことを記録したいー西山の着想は旅のしめくぐりに似つかわしいものであった。八一年七月一〇日から八月一日までの函館・岩内・倶知安・秩父別・稚内・旭川・滝川・札幌・釧路・小樽・苫小牧・北見の上映はすべて実行委員会の方式でもたれ、各地のレポートにあるように、ところによっては主催者の目標人員をこえる成功をおさめた。目標に達しないところでも、その理由を分析し、あとの参考に残すだけのゆとりのあるものだった。
 私にとって北海道は二五年ぶりであった。西山から、丸木俊さんと一緒に北海道を歩けと、現地にいっている彼から電話でいわれたとき、北方領土の問題の地、根室・稚内と原発の岩内を実見できることも念願であり、有難かった。無収入の私に、各地での講演・挨拶謝礼の形で報酬を捻出してくれる才覚も、当然のことをするにすぎない私には過ぎた処遇であった。
 
 北海道の上映オルグの旅から帰って、じかに彼の報告を聞いた。北海道との接点は、水俣病の運動で知っている三、四人と、丸木夫妻の知人数人だけ、その人を頼りに飛び出したようだが、彼のノートには、函館、札幌、旭川の各頁にたてよこ十文字に人脈図が書きこまれており、有力者、知己だけでなく、枝葉が網の目のようにのばされ、その組織的脈絡は彼のはじめて出遭った各地の若いリーダー、運動者のすべてにつながっているようだった。当面一ニ都市にせよ、彼は一カ月に約二〇都市を駆けぬけていた。札幌ミニコミセンターの事務所にごろ寝したり、知人の一室で仮下宿のように自由に使わせてもらったり、それでいて、毎晩酒を酌み交して映画のこと、水俣のこと、そして若い連中で何かをしでかしたいことと夢をそれぞれに一ぱいにぶっ散らかしての夜毎があったようだった。
 「何が西山をこう走らせたのだろうか」と私は醒めた眼で彼をもういちど見直してみるのだった。映画を作っている最中は、私も疾走できる。しかし出来てしまうと気落ちというか、残尿感のままの立ちどまりといった時期をむかえるのに、彼は製作中の走行ベースのまま東海・関西をまわり、北海道に飛んでいった。製作者自身が上映のことをするのは当然のこととはいえ、彼をつき動かしているものはいささかおもむきがちがっている。北海道で最低数千人の動員+丸木夫妻と土本の講演、関連してブックフェアと彼なりの構想を描き、その北海道一巡の上映を、彼の「作品」のようにつくり上げているように思えた。はじめにのべた彼の「総レポートをまとめたい」という旅の終りの提案は、その意味で、彼の作品の表現であり、ワン・サイクルの外化のしごととして私にはうけとれたのである。

 彼は、映画には遅れてきた青年である。下関の工業高等学校を出て一〇年近く港湾土木事業の現場技術者として働き、たまたま私の『不知火海』を見たあたりから映画を志し、二八歳になった七七年、私たち水俣スタッフに加わって不知火海沿岸七七集落を対象とする水俣病映画の巡海上映行動から私の助手となった。その行動設計能力はかねて手なれた工程表づくりのように正確でかつ予見をおりこまれた実践性をもち、スタッフの機動力を倍加させたものである。映画現場としての初仕事は七八年の「わが街・わが青春ー石川さゆり水俣熱唱」、その後三作品を私の助手として働き、他社の二作品に編集者として半ば独立して仕事をした。最新作の「水俣の図・物語」では彼に現場の一切をまかせて、私は演出に没頭できた。

 「どのようにして、自分の映画世界を切り開くか」、西山は一日もそのことを考えない日はないだろう。そのひながたは彼がえらんだ自主製作・自主上映しかやっていない私たちの仕事に求められる。私の場合は、この二五年、もっぱらこの映画のサイクルを奇とも異とも思わずにつづけてきた。だが新人の映画の登竜門は他にもいくつものコースがないわけではない。
 劇映画の最近の新人のようにシナリオ作家として登場し、「撮影所作品」として映画をつくるコースもある。記録映画の場合も、ひとりで撮れる8ミリ映画の連作でその地歩を得た例も、グループで長期取材を敢行し長篇記録を作った例もある。だが記録映画の場合、その上映に最も苦戦していることを知っている。青林舎にしても、またしかりである。だが映画をつくることは誰にもできるが、映画は観せる中でしか映画として実現しないメディアであるのだ。だがそのシビアさの前にたじろく。「この映画で次回作の力を蓄えられなかったら、土本だけじゃなく、俺たちの未来もない」と酒をのみ、怒気をふくんでのべた彼を思いだす。いかにして自分の映画を実現するか、その明日にむかって投じた放物線が、彼の北海道オルグ行であったのだ。

 各地からの文集に散見する西山の動きを、私は彼と行をともにしながらこちら側から観ている。札幌でも函館でも旭川、北見でも、彼は”中央オルグ”的な臭いは全くといっていいほどなかった。あたかも、その土地土地の若い活動者の頼りがいのある仲間のようにうちとけて動いた。それが不自然でもなかった。試写会が少数の企画者の手でもたれた。顔も知らない人たちがよびかけて集った。自己紹介して一つの行動プランに連繋するようになった。労働者あり、学生あり、自然保護運動家あり、日韓問題サークル員あり、障害者運動家あり、新聞記者あり、その異なる初対面同士の、彼もそのひとりとしてつきあいがその日からスタートしたのである。
 各地での実行委員会には映画会に手慣れたセミプロはひとりもいなかった。また、労組やその他の団体の組織的参加は、ごく稀であった。この数年間、個人個人のつながりとそのむすび目しか確かなものがなかった。八一年夏、この時点、映画はそのひとりひとりの人脈の上でしか手わたされなかったといえる。それがどれほどの動員に結びつくかは、映画の良否の評価とは別に、実行委に加わった人たちの最大の関心であり心配の種であった。それだけに、ささやかな成功にせよ、「その街」が「別の街に見えてきた」ことに転ずるのだった。
 打ちあげのとき、回収されたアンケートが読まれた。映画そのものへの意見のほかに、映画会のもちかたへの意見、今後の企画への希望といった項目を用意した北見の場合、アンケートは市民からのラブレターのように扱われた。そのアンケートが一冊の文集に編集されて私のところにも送られてきた。ひとつの映画会のすんだあとに何が残ったかが、そこにあきらかにされていた。
 函館・旭川では映画「水俣病-その二〇年」がその収益で購入され、旭川・倶知安では水俣関係の本が図書館に納入された。”水俣”が細胞分裂して増殖した。
 「この映画で何に興味をもってきましたか?」という問いに”水俣を知るために”という意見が首位をしめた。それが北海道だけに、印象に残った。宣伝文句の「絵画と詩と音楽でつづるもうひとつの水俣」の”水俣”を見にきたのだ。関連したブックフェアで七八〇冊の各種の水俣・原爆の書籍と映画リーフがうれたことも、その事情を裏書きする材料であろう。映画はただ単に観賞されたのではなかった。その映画会を実現した人たちによって運動化され、相互の”仲間の発見”のチャンスに転化され、機能したといえる。「題名に水俣とつくと、”暗い映画”と尻ごみされる」「もう水俣は終ったろうと敬遠される」と異口同音に配券のときの悩みが語られる。まして公害の侵食の最も遅れている、広大な自然の生きづく北海道である。その”水俣”の壁をいささかでも突破しえたことが、実行委を担った人たちの今後の活動・企画に自信を抱かせたようだ。私に壇上に立って今の水俣の報告を求め、併映に「水俣病ーその二〇年」を、組める都市では上映し、映画のメッセージをあえて水俣にしぼりこんだ彼の意図が果されたからである。
 映画を運ぶことからはじまるもうひとつの「映画行動」を彼は演出した。そのことに新たなプロフェッショナリズムを身につけようとつとめた。その上映運動から逆算して、彼の今後の映画にかける生活のプランを引いたー私にはそのような彼を見るための北海道の旅であった。彼は確実にここの地に、彼の映画をたずさえて再訪する日を待つ仲間を見いだした。そしてその人たちとのつながりを確かにするものとして、いまこの誌上に、各地の人の文集の特集を企画したのだった。自ら語ることの寡ない彼の一文を補うものとして、あえて彼の動きに触れた。
 映画会自体は一回性のものであり、一過性のものである。訪れたとき開かれ、立ち去ったとき閉じられる流れであることも、一面の事実である。それへの彼なりの回答でもあろう。
 札幌の西村英樹氏は各地のさまざまの運動者の重なりをすぐれて簡潔に紹介しているので重複を避けるが、小樽では私の旧作「パルチザン前史」を観た人に会った。北海道全共闘運動の一エポックを閉じた時期をそれに重ねて語った。小川プロの三里塚の映画、東プロ・青林舎の水俣映画を機会あれば欠かさず見た人たちにも会った。一昨年の札幌、旭川、釧路の三地点で開かれたユージン・スミスの「水俣」写真展の開催に尽力した人、水俣の甘夏みかんの普及や、石牟礼道子・川本輝夫講演会に参加した人々、そして、全道的に、はるかさかのぼる昭和二〇年代、占領軍の規制の下、丸木夫妻の『原爆の図』を寺院で百貨店で街角で展示し、夫妻と労苦を共にした青春時代をもつ人びとが、若い活動家の身近かでこの企画を助けていた。
 富山妙子氏の絵と音楽と映像による金芝河・金大中・光州事件へのアピールに集った市民、原発(岩内)の研究会員から、旭川の大雪山の自然を守る会、小樽運河を守る会などの人びとと通底する人脈の伏流水はぶ厚く、北海道の各都市にあった。その人たち自身、戦後の文化運動の三〇年をそれぞれに刻んでいるのだった。
 東京・中央・本土からの一方流通型の風俗情報の洪水の中で、自主製作・自主上映の一映画現象を絶えず見守り、受け取る人びとが確かにいたーそれを再発見し再確認する厳しい旅でもあった。その意味で、私は北海道の人びとに心より頭をたれたい思いなのだ。
 (八一・一〇・一ニ)