毎日芸術賞を受賞して-「甦り描けるか」の問いを胸に 「毎日新聞」 1月4日付 毎日新聞社
今回の受賞は何よりのはげましであった。製作と上映にかかわった人たちと、それを味わいたいと思う。まだ上映の緒(いとぐち)だからだ。
「水俣の図・物語」は八一年二月東京公開以来、全国各地で自主上映を開始、私も北海道、名古屋、関西、九州と巡ったが、年末、しめてみると、上映の諸経費をひくと、純益(製作費還元金)はまだ四百万円にみたないとのこと。はじめの予定、三年かけて上映しつづけることになる。公民館・公会堂・学校などでの上映の場合、推薦はやはり大きい。その点九州の一部の県や水俣市の”推薦できぬ”の決定は市民、とくに教師たちには手痛かった。こだわりのあったものの、うれしさが先だつのはこうした下世話の事情があってのことである。
最近、不知火海そのものの海況や漁や魚市場のことなどを調べている。各地で不知火海のことを話す必要からだ。そしてあらためて不知火海は格別に豊饒なのだと確かめている。
あれこ作ってきた十七年間に、私自身「不知火海」で声低くに「生類どもの賑わい聞える」と指摘したものの、である。現在申請者一万余人、医学が率直に診断すれば、あと一、ニ万人の病者が浮上しよう。患者を”認定”する枠内では千七百余人にすぎない。海の病状も未調査のままだ。その事実をいかに映画化するか戸惑っていた。七九年末、丸木位里、俊両氏は大作「水俣の図」に着手され、そのスケールにうたれた私たちは後を追うように映画を撮った。
おふたりも、はじめは不知火・水俣の海だけ描かれようとされた。それほどに、不知火海は海と人の全ディテールをもち”海なるもの”の喚起力を備えていたようだ。しかしまず死者に筆を染めたときから延々二百八十余人の群像と何百の生類の生と死を描かれた。ユージン・スミスの写真の場合も、砂田明氏の勧進芝居も私たち映画の場合もそうであったように、「水俣の図」もまた人間の悲劇への正視を通じてしか描き出せなかったようだ。私もまた映画で、同じ表現者の同じプロセスを歩いたのであった。
作家石牟礼道子氏は映画、つまり絵の発想の根本に「よみがえり」があるのかないのか。表現にたずさわるものとして、「よみがえりの集大成」を描くことを夢みるといった。水俣の昨日・今日・明日の間尺では合わない話しであった。
再び水俣のモチーフにふたりはむき合われたとき、生者から始められた。胎児性患者の女性を母子像に描き、母とし赤子を彼女らに抱かせた。
「絵かきちゅうものは、うつくしく描くものだ」と位里氏、俊さんは「原爆も水俣も、そのもっともむごたらしく凄惨(せいさん)なできごとを最もうつくしく描けたら本望」といわれた。そのシーンをもって映画は終章とすることが出来た。
映画はよみがえりを描けるか。考えあぐねる私に患者川本輝夫さんは「この映画はできが良ければ良いほど、”水俣は過去の悲劇”ちゅうふうに観られやせんとか…」と案じた。
水俣の焦眉の問題を知る私には同じ思案がある。二十五年たっていまだ未解決の水俣問題を抱えつつ、不知火海は同じ二十五年を悠々と生きつづけている。八十年に幼児むけにつくったこの海の漁師さんを描いた『海とお月さまたち』で、あえて水銀の海であることを認めること自体拒み、生類だけをみつめてきた漁民の、その観察力に裏うちされた確たるものにうちかえされたことが、私の不知火海への見直しを促した。
水俣をしんに半径三十キロの汚染海域(かつてのネコの狂死で描く円)に海草、貝、漁類等、外洋からイワシ、タイ、フグ等は暦どおり回遊して来ている。毒の海と戦っているのは魚も同じであり、彼らこそ怒りの主役かも知れない。沿革の人びとはそれを見ている。うかつでよそものの私たちと水俣のひとびとの甦りが発見できるかも知れない、と思う。