不知火の海 「日本歴史展望」 第12巻所収共著初版2月13日 旺文社
死の海から
不知火海は八代海ともよばれる。九州本島中部の西両岸と対岸天草諸島、および長島によって囲まれた一二〇〇平方キロメートルの内奥湾である。土地の人は不知火のよび方を好む。二〇〇〇年の昔、景行天皇熊襲征討のさい、旧歴八月朔日(いまの九月一日ごろ)闇の海路で迷われたおり、謎の火に導かれて、無事にたどりついたといわれる、いわゆる不知火伝説が愛されているからであろう。潮目を描き、鏡のように平らに空を映すこの海の美しきは訪れる人の心をとらえて離さない。
この海が近年広く知られるようになったのは水俣病事件によってである。そしてよく、「死の海」とか「漁の絶えた海」とかいわれる。歴史上比較するもののない環境汚染であった。
昭和三十一年(一九五六)に医学者によってはじめてとらえられたこの有機水銀事件は、工場廃水-魚-ヒトという因果関係を公表する段階でさまざまな説によってさまたげられた。その諸説の根拠のひとつは、有機水銀の工程をもつアセトアルデヒド工場が全国にあと七工場あるにもかかわらず、周辺住民に同一中毒は見当たらないというものであった。九年後、そのひとつ新潟の昭和電工は第二の水俣病訴件を引き起こした。だが当時はそれも含め、電気化学・三菱ガス化学・ダイセル(ともに新潟)・鉄興社(山形)・日本合成化学(岐阜大垣・熊本宇土)などを例にチッソ工場原因説を否定した。そのため、熊大研究班はほぼ究明された原因の発表に苦しめられた。新潟の場合、阿賀野川流域汚染であり、有明海水俣病も内海型汚染とされた。のちにその所在は否定されたが日本合成化学は有明湾の湾央部にあった。
なぜ水俣に最も激しく被害者(一九八一年、約一七〇〇人認定、申請総数約一万三〇〇人)をみたかの理由は、その海への流出水銀が四五五トン、他社の数倍ないし一〇数倍であったこと、加えて外洋ではなく内奥湾にたれ流されていたことによると考えられる。チッソ工場の廃水口は港にあり、その一帯の泥土から最高二〇一〇ppmの総水銀を検出している(一九五七年)。この湾内漁業従事者から最初の発症をみたのである。
明治四十一年(一九〇八)野口の日本窒素肥料株式会社の設立に諸手を挙げて協力したのは水俣の民であった。不知火海沿岸の漁民には伸長するこの町に移り仕んだ人も多い。その漁民が海の汚染に悩み、ささやかな抗議を示したのは大正十四年(一九二五)のことである。戦時下、軍需生産のかげで、さらに汚染がはなはだしく第二回目の損害補償が要求された。一五万円余であった。そのさい会社は漁民に対してこれを永久補償として打ち切りにすることを約させた。
昭和三十一年(一九五六)患者の発見に先だち、水俣港湾改修工部がされ、水銀を含むヘドロの浚渫が湾内で行われた。廃水ロに堆積したカーバイド残渣により港は溝潮時以外船の接岸不能に陥ったからである。湾内は濁りに濁り、このころから漁況は一変したといわれる。魚は浮き、猫がおどり狂い海に飛び込んで死んだ。まさに地獄図であった。そして、昭和三十一年(一九五六)初夏に一挙に五二人が急性発症し、その約三〇%(一七人)が死亡した。その死亡率はマラリアその他の伝染病よりはるかに高く、奇病といわれ正体不明の伝染性として恐れられた。それでも依然として人々は魚をとり、食べていた。魚が原因とはわからなかったからである。
「湾にはネチネチした浮きものが流れていて、七色しとりました。海の底は豆腐のようなものがふわふわと浮かんどりまして、手につこうものなら臭く、かゆうございました」と当時の海を患者渡辺栄蔵さんは回想している。だが、そのさなかでも、彼らは水俣湾内でエビをとり、カタクチイワシをとりつづけていた。
「あん明神の舟でエビがし(刺網)をしとれば、垣根に朝顔の咲くごて取れたもんな、それをむすめに喰わすしこ喰わした」とわが子を失ったころの漁を患者坂本ふじえさんは証言した。
会社はかつて漁民の抗講に対し、「海の浄化力理論」でこたえていた。無機水銀は流しても、病気の原因物質、有機水銀は流していないとも主張した時期があっった。いずれにせよ、当時湾内の魚でも見かけは新鮮で味も匂いも変わらなかったという。だから病んでなお多食を重ねたのであった。
海辺に生きる
不知火海は北部と南部とで海の性格が二分されている。海とはいえ、北部にそそぐ球磨川と佐敷川により塩分が薄い。いわば河口のように干潟が発達し、水深も二〇メートル以浅、底は泥・砂でプランクトンが多く、貝類のほかエビ・カニなどの産卵・孵化、幼生期の成育に絶好の漁場である。南部に位置する水俣の沖は、その南の黒ノ瀬戸と八幡ノ瀬戸を通じて外海と接しており、プランクトンも外洋性のもので占められる。とくに瀬戸は潮流が速く、底は岩や礫が多く、いわば峡谷状をなし、川底に当たる部分に砂地がある。この瀬戸より漁の主力魚種であるカタクチイワシ・マイワシなど浅海回遊魚、タイ・フグなどの底地性の回遊魚が内海に入る。
南と北との中開は水深四〇メートルの砂泥で、内湾性と外洋性の魚類の混合域であり、多彩な魚類の幼魚の成育場となっている。圧倒的にエビのすみかであり、タチウオ・コウイカ・タコ・カレイなど底魚のほか、カタクチイワシの回遊漁場でもある。北洋の魚種やマグロ・カツオなどの遠海の大型魚種以外のほぼすべての魚種がここにみられる。
水俣を流れる潮流は北部八代以遠に北上するものはきわめてわずかである。水銀汚染の広がりと影響を考えられる海城は中央に広がる泥土の潟以南と考えてよい。
その不知火海の中間部・南部をとり囲んで水俣市・出水市・田浦町・芦北町・津奈木町(九州本島)、東町・牛探市・姫戸町・竜ヶ岳町・倉岳町・栖本町・本渡市・新和町・河浦町・御所浦町がある。この水俣と同じ潮流圏内の漁協二三組合。その一年間の自然魚(養殖魚貝頬をのぞく)総漁獲高は、一万九四四八トン(熊本県一九七六年度統計。以下同じ)に及んでいる。漁法としては圧倒的に網漁が多く、魚種別にみるとカタクチイワシを主とするイワシ類が六割(一万一六六七トン)に達している。各漁協ごとにみても、牛深市深海のタイ・フグの一本釣漁、芦北の横曳網(打瀬網)のエビ漁を別として、カタクチイワシがそれぞれ首位を占めている。
戦後の漁業法改正まであった網代制度はイワシ漁場としての区画であった。地曳網も遅くまでのこっていた。水俣湾内は数区の網代で仕切られ、カタクチイワシの宝庫であったといわれている。
漁村には煮干し加工のかまどと煙突が軒をつらね、波止いっぱい干場になっている風景から網元の家は一目でそれと知れた。近隣随一の漁業の中心地牛深市は一つの町のほぼすべてが丸干し・ひらきの加工場で成り立っていた。離島や交通不便な浜だけに、湯がいて天日に干す保存方法が欠かせなかったのである。
群泳するイワシはきわめて海の環境変化に敏感である。明治二十三年(一八九〇)に記された熊本県漁業誌に「それいわしは魚族中もっとも軟弱なる性質を有し、つねに海辺辺の蔭翳(日陰)を慕い、水の暖流に遊泳するものなれば、一たび潮流の変動に際するときは、いきおいそのところを換えざるを得ず、ゆえに海中の岩礁を崩し、海岸の樹木を濫伐して、山をあかはだかにするが如きは、漁業者の深く注意を加うべきこと」と説かれている。
不知火海の漁民の感性のこまやかさとやさしさは、生きる糧の主柱であるカタクチイワシ漁につちかわれた注意深さ、思慮深さによるのではなかろうか。内海での他の漁法を見ても、外洋の漁業のように、荒波とたたかい、体を張って銛を打ち込むといった灘の男の荒っぽさはまったくといっていいほど見られない。
この海と穏やかにこまやかになじみながら漁る気風は、しかし不知火海だけのものであろうか。北方サケ・マス船や、遠洋マグロ底曳、近海カツオ漁・イカ漁など現在の中・大型漁船の漁業が海洋民族のよび方とともに日本漁民の一つの貌とされている。しかしそれは近代数十年の歴史でしかない。
石毛直道氏(国立民族学博物館)は日本民族を海洋民族とすることに異をとなえている。「巨視的にいって(古来の日本人にとって)海とは基本的には海岸線から見渡せる範囲の広がりにすぎず、それは陸地の延長内の海である。われわれは岸辺の民であったが、ノルマンやポリネシア人と同じ意味での海洋民族ということは出来ない」とし、表日本を流れる黒潮は、それにのれば、果てしない漂流となり、死に至る。黒潮は漁民にとっては「死の河」であった、ゆえにそこでの漁民の活動領域は、海岸と黒潮本流との間の帯状の海域に限られていた。
海の生命力
不知火海の漁業はいまもほとんど日帰り船によるつつましい漁である。繊細な魚のために彼らは岸辺の樹木を育て、自然の岸・磯を保ち、海の底をわが庭のように知りぬいた人々によって漁の営みがされてきた。
岸辺に山菜の萌え出で、梅・桜の花の咲くころ、海岸にはアオサが新芽を出し、ワカメが伸び、ヒジキがころあいになる。岸から膝を水にひたして海草をとり、アワビを打ち、ウニを突き、そして、それより先の沖には船を漕ぎ出すといった、渚から海への連続した採取の生活圏があってのうえでの前浜(眼前の海)なのである。岸辺の民、まさに海岸民族としての生き方を色濃くのこしているのがこの不知火海の漁民たちなのだ。それはひとつの気質を形成してきた。魚と人との共生といった原初の心ともいえるものだ。
不知火海は産卵と幼生期の成育の地である。タイ・フグ・タチウオ・コウイカ・カタクチイワシはここで産卵する。ボラ・スズキは外洋で産卵し潮流にのせて内海に入り、孵化した稚魚をここで成長させる。魚の弱者たちの世界である。
多くの魚はより大きな魚の捕食を恐れ、穏やかな浅瀬、または岩場・藻場で産卵する習性がある。そしてその稚魚時代のえさはウツボ(ツメタガイ)・カキ・エビ・カニなどの幼生である。それら貝類や甲殻類を豊饒に育てているのが八代から水俣沖の台地(潟)なのである。
その各種の魚のすみかの条件のほぼすべてを満たす海底の諸相を、この海はもっている。
外洋に接する八幡ノ瀬戸はもっぱらタイ・フグの一本釣漁場である。産卵にゆききする魚道を利して釣る。春、内海への「上りダイ・上りフグ」、冬近く暖流の外洋に戻るそれを「下り」と名づける。その中心漁村の深海は、全漁獲高の六割を一本釣・はえなわで上げる。「深海のタイ」といわれる好漁場なのだ。底に岩礁が多いため、網はひけない。
水俣は温泉とタチウオ釣が名物である。
その沖、中間にひろがる潟(泥)で夏、タチウオの産卵が始まる。親のタチウオは群なすカタクチイワシを好んで餌とする。カタクチイワシをとる網船をぬって水俣・芦北・津奈木・田浦・御所浦と四方よりタチウオ釣の船が集まる。銀色の太刀のように長身のこの魚は釣人を誘ってやまない。
不知火海の風物詩として有名な打瀬船は、水俣沖の潟のエビをもっぱらとる横曳型の底曳船である。漁場までは動力で走るが、操業の時は潮流を利用し帆をはり、もっぱら風力だけで網をひく。資源の濫獲をさけるための掟として動力は使わない。
エビは稚エビの時代は育ち、成長してより深い中央部の潟にすむ。それを中央部から南部の海域でとるため、エビは毎年一定の繁殖をつづけている。このエビを主餌とするカレイ・タコ・コウイカなどの底生生物もとれ、打瀬船の漁師は「月給取り」のように安定した水揚げのあることに安堵の色を隠さない。だがそのかげに、椎エビをとらず、荒っぽい底曳をしないでつちかった「梅の畠」があってのことである。
網や釣漁の動きに混じって、タコつぼや柴をつけた、ねずみとり様のカゴを海に投ずる姿もめだつ。コウイカ・タコ・ボラ・クロダイをとる籠・つぼ漁である。海の穏やかさが利点である。
北部干潟では四メートルにも及ぶ干満の差を利用して、引潮には魚を五〇〇メートルもの一列の竹柵で誘導し袋網でとる桁網漁やノリ・ハマグリの養殖が多い。
冬場は網を仕掛け二、三日に一ぺん網をあげにいく。寒いさなかの楽な仕掛けである。
このように不知火海沿岸五〇〇〇漁民はお互いに漁法を分けることで成り立つようにして暮らしてきた。表面を遊泳するカタクチイワシの群をとる者、中間を泳ぐタチウオ・クロダイなどを網でとる者、底魚をもっぱら網でとる者など、分業しお互いに濫獲をさけるルールを体得している。それでいて、あらゆる魚をくまなく手にする漁法を多彩に工夫してきたのだ。
高級魚は市場に売り、主に雑魚を食べる、その食性は根深い。水俣病事件のさなかでも、少しでも離れている浜や磯のものは食べつづけてきた。みかけの鮮度のほか、選びとる基準はない。多少の毒も、食わばもろともといった食の連帯が浜辺の人人にはあるのである。
カタクチイワシ漁でつながった網元・網子。古くは地曳の総出の時から、その分配の方法は網元のとり分、船主のとり分、そして網子のとり分とおのずと決められていた。そしてカタクチイワシ漁であれば、網に入った他の魚は公平に分けられ、網子のみならず余れば近隣に分けられた(およそ魚を金を払って求める漁村はこの十年ほどまえまでは不知火海にはなかった)。その共同性ゆえに人々は等しく病むことになった。しかし一方、その運命共同体のありようを根底から支えたのは、やはり、海のやむことのない再生力であり、生命力でもあったのだ。
魚眼から見る
全国いたるところの漁村と同じように、不知火海にも年一年と漁獲の減るのを嘆く声を聞く。さきに引用したように、明治の時代から注意を促されていた魚にとっての岸辺は、地域振興・港湾整備・離島対策のよび声によって、高度成長期に大きく変容された。海岸沿いに自動車道ができ、人工岸壁が町にめぐらされた。稚魚にとっての隠れ場、憩いの場であった樹々は伐られ、岩礁は防波堤に変えられた。海岸沿いの田畑や内陸盆地の米作畑作地帯、海岸傾面の全国有数の甘夏・温州ミカン単作地帯からの農薬は水質を汚染し、藻場は衰弱した。工場廃水は最を増し、とくに水銀汚染は強い打撃を与えつづけている。さらに近年は大型動力船の底曳漁法や養殖の急成長による公海水面の寡占化や、残餌の腐敗による海の汚れが多く漁民の脅威として立ち現れてきた。しかしその不知火海の変貌にかかわらず不知火海の環境生態学的なありさまは基本的に変わっていないのである。自然魚の漁獲高は漸減もしくは横ばいでつづいている。そしてある周期ごとに打瀬網に大量のエビがかかり(一九七二)、八幡ノ瀬戸に大ダイが数十年ぶりの回遊をみせ(一九七八年)、カタクチイワシが豊漁(一九七六年)といった事例がある。
見方によれだ溝身創痍であるが、毎年春、タイ・フグは一か月と周期をたがえず上ってくる。カタクチイワシも現す。彼ら魚族にとっては、この内海のあるなしが生存に不可欠なのである。
昭和五十一年(一九七六)から現地調査を開始した不知火海総合学術調査団(団長色川)は第一期の人文科学系の調査を終え、昭和五十六年(一九八一)より第二次調査団を結成した。その中心テーマは生態系を含む自然科学・医学的調査である。第一回に不知火海全域のベントス(底生生物)と底土分析がなされた。微生物から魚類、そして人との関連を洗い出す作業である。不知火海の蘇姓のイメージを魚眼から見、その視点で不知火海のディテールを検索する作業である。
死海の再生
不知火海にとって依然水銀汚染は喉に刺さった太いトゲである。患者の認定問題(診断基準のあいまい性)、発見救済の遅れや放置など問題は山積している。そしていま環境汚染の源、水俣湾とその周辺はどのようになっているだろうか。水俣病発生当時死魚に満ちた水俣湾に、昭和四十五年(一九七〇)ごろから水鳥が姿を現し、カキが帰り、ボラが廃水口付近にはねるようになった。昭和四十八年に熊本県当局は、湾内の汚染魚の回遊を防ぐための網をめぐらした。ただしその三センチ四方の網目は稚魚の往来には役立たないものであったし、定期客船と貨物船の出入のために中央二〇〇メートルが常時開かれ、魚おどしの音響器も魚の回遊をさまたげないものであった。
昭和五十五年(一九八〇)六月、一部住民の反対の声を制して水銀ヘドロ(二五ppm以上)一五〇万立方メートルの浚渫が本格的に始められた。その総工費二〇三億円に上るといわれる。
その工事のすすめられている湾内では漁獲禁止の「安全水域」のためか、魚類の繁殖は目をみはるものがある。昭和五十六年の調査によれば湾内魚の水銀汚染は依然つついており、底生魚ほど高濃度である(カサゴ、総水銀一・九三五ppm)。魚たちは死に至らない程度の微弱な毒性を内蔵したまま繁雛しているのである。湾内に微毒性のプランクトンや稚魚が存在する。それを食うカキ・ウツボなど定着性貝類が付帯し、ナマコ・アワビ・エビ・イカがすみついている。それらを好餌とする成魚、ボラ・スズキ・クロダイ・カサゴ・イシモチなどが遊泳し、仕切り網内で連鎖的な生活の環をつくっている。とりもなおさず食物連鎖がある。有機水銀はそれぞれの生物に固有に蓄積されつつ、その相互の食物連鎖により濃縮され、発症値に達する水銀蓄積を遂げる可能性も強い。それが死に至るまでの毒性に至らず、不知火海に回避している。
水俣湾は汚染のまま、かつての豊饒な漁場性を復活せしめている。この痛烈な自然の逆説に行政は半永久的に立ち向かわなければならないだろう。なぜなら埋立は二五ppm以上の濃度の汚染区域に限られており、水俣湾外半径六キロメートルに及ぶ汚染域はそのままだからである。机上の策は失効するほかはない。それにはせめて、最も魚を知り、海の底を読め、潮のことなどを熟知している患者・漁民・被害者たちの体験を集めるほかないであろう。
不知火海にはまだ多くの発掘されていない患者がいる。そして今日までにその典型症状をもっていたと思われる漁民は死んでいった(そのほとんどが一九六〇年代)。九二〇ppmという毛髪中水銀の女性(昭和四十二年死亡)が天草に近い御所浦・牧島に発見されたことは不知火海の人体汚染の深さ広さを物語る。今日、医学者は沿岸にニ万ないし三万人の患者がいて不思議ではないと推定している。そしてその病状はかつてのように典型的な症状をそろえた形ではなく、全身にゆるやかに侵入した水銀によって引き起こされる慢性型の症状として現れるであろう、といわれている(武内忠男氏。長期型慢性水俣病)。それは湾内の魚類にみるように、汚染されつつも生活しつあるありさまとうりふたつである。水俣病発見当時、初発の集落名をとって月ノ浦奇病といい、やがて水俣奇病と転じた経過がある。いま水俣の水俣病の概念を改め、内海一帯の健康のかたよりを有機水銀のポイントでみる、「不知火海水俣病」ともいうべき概念に立つべきであろう。
「自然環境汚染と、その魚の多食によるヒトの大量有機水銀中毒事件の舞台となった不知火海は、そのよみがえりについても実験の舞台の責を負わねばならない。一年の寿命のエビにせよ、一〇年の長寿のタイにせよ、人間の世代の交替よりはるかに短いライフーサイクルをもっている。その生態系の極微の世界からの再生から組み立てる思想に立つ時はじめて、魚そしてヒトの再生、ひいては不知火海全体のそれが望見できるのではなかろうか。海は病む。しかし死ぬことは不可能である。何十年かかろうともその海のライフ-サイクルの時間のスパンをもって、われわれはこの水俣病事件の今後を考えつづけることになるだろう。