エストニア共和国の葦やかなうたまつり われら地球市民-ソ連 『朝日ジャーナル』 11月19日号 朝日新聞社 <1982年(昭57)>
 エストニア共和国の葦やかなうたまつり われら地球市民-ソ連 「朝日ジャーナル」 11月19日号 朝日新聞社

 日本海海戦の「バルチック艦隊」が出撃したことでその名を覚えたバルト海の一国、ソ連邦の最小の共和国エストニアをこの夏訪れた。日本からの本格的取材は開国以来とエストニア人は冗談を言う。その人口一五〇万人、ロシア語と異質な北欧系の文字、言葉をつかう青い瞳と金髪、すき透るような白い肌のひとびとの国である。スラブ人は少ない。
 取材の目的は、バルト海のイワシ網漁であったが、洋上での操業の取材は国境の海ゆえ許可されなかった。西側諸国と共有の漁場であり、ゆれ動くポーランドと接する海域である。
 日本で国境の海といえば波荒い海峡だが、バルト海の最奥部のここは湖のような内海で潮の干満差はわずか一〇センチという。そのため、首都タリンは、帝政ロシアにとって不可欠の不凍港であった。陸つづきの侵略には弱い。平原の最も高い丘で海抜五〇メートル、まさに「ナチの戦車は丘からやってきた」のである。
 一二世紀以来のタリン(人口四四万人)はつねに列強の属領の貿易都市であり、宗教文化でその支配を誇示されてきた。ドイツ、デンマーク、ポーランド、スウェーデン、ロシアとそれぞれの中世建築が集まった北欧の歴史博物館のようだ。それはソ連邦の人びとにとってはエキゾチズムのただよう異邦である。
 この街でアジア人を見かけることはまずない。そのためか少女たちがサインを求めたりする。彼女たちは純で美しい。まるで無菌無害虫のなかで育てられたバラのつぼみのようだ。大人たちも万事ひかえめでつつましい。誰にきいても「子どもがすこやかに育つように、いまの平和が続いてほしい」という。
 七月、恒例のうたまつりが近づくと、街中の乗り物に昼間から前照灯がともる。地方から来る何千、何万という子供たちを交通事故から守るためだという。
 じかに接して、そのうたまつりの雄大な規模と伝統におどろく。今年は子どものコーラスの年だが、大野外コーラス用ホールに毎年、三万人の大合唱がくりひろげられる。この小国にとっては挙国的事業なのである。都市のタルト・ナルバから、農村から、離島のむらから、子どもたちは”部族衣装”を着、胸かざりや髪かんざしでこの祭りにやってくる。花粉の粉雪のようにタリンの街角に子どもたちは散って、花びらのようになる。
 このうたまつりは一一〇年、つまりエストニアの建国より七〇年も以前からのものだ。タリンの市長は「これは民族統合のねがいをこめた行事だ」という。独立記念日や十月革命記念日よりも華やかだという。
 この日、音楽家は一国の宰相のようにりりしく重責をになう。半年かけて練習し、本会場のリハーサルで叱咤激励しての仕上げののち、この日最高のハーモニーを創り上げる。
 彼らは寒冷な気候と氷河期の遺産のやせ地、主に狩猟と漁労で暮らしてきた北方の民である。この民族国家はこの二〇世紀の、二度の大戦の結果生まれた。列強の軍事的覇権のなかで弱少民族の自覚を強いられてきた。今日、外交・軍事権をソ連邦に託して、ひたすら文化・芸術の力で民族性を保持・育成していることに心打たれる。
 「近世の文明・文物を伝えたのはこのエストニアからでした」と鎖国日本の長崎出島のような位置づけを北欧最古のタルト大学の人はする。今も、バルト海文明圏がこの国の人の誇りなのだ。
 戦争を知っているエストニアの大人たちは子どもと平和はひとつのものなのだろう。そのひとことの「平和」に必死の願いがこもっていた。