新聞と新聞紙のはざま-映画『原発切抜帖』のできるまで 『原発切抜帖-現場記者の証言-』 11月15日 青林舎 <1982年(昭57)>
 新聞と新聞紙のはざま-映画『原発切抜帖』のできるまで 『原発切抜帖-現場記者の証言-』 11月15日 青林舎

 いつだったか、小沢昭一さんがラジオで喋っていた。「あたしはお風呂の湯をじゃあっとこぼせないんです。もったいなくて、バケツに汲んどいて、浴びてからもどすんです。いやぁ昭和ひとけたって、そうじゃないですか」と語るのを聞いて、「正解……」と心の中でつぶやいたものだ。
 それも頭の隅にあってか、今回の語り手は小沢さんではなくては、と思い込んでのか知れない。空財布になるまで飲むはしご酒派のくせに、深夜の風呂場で肩を沈めるのに湯の溢れるのを気に病んでいる。新聞にしてもそうだ。読み捨てがもったいなくてしかたがない。

 新聞は真新らしいから新聞であって、一日過ぎれば新聞紙だという。この紙は重宝なものである。私の小さいころ、市場の魚やコンニャクなどの包み紙は、ひもでぶらさげたそれを、ぴっと抜き、くるりと包んでくれたものだ。戦争中は尻拭きがみだった。

 その新聞紙も2、3年前のものとなれば違ってみえる。虫干しで畳をあげたとき、床に敷き詰めた古新聞を読む。4コマ漫画や映画広告、にせ札事件や小さなゴシップ記事にいたるまで、ぬくもりをもって記憶によみがえってくる。そのときに新聞紙はなつかしい「読み物」に変わる。個人の当時の記憶の混ざり合って一刻、時代を辿らせる。
 忘れはしてもいても、それらは知らなかった出来事ではない。いわば”新聞体験”としてオリのように沈殿していたものがふっと知の領域に浮上してくるもののようだ。

 戦後間もない頃、新聞の読み方を教えてくれた人がいた。当時、日本共産党機関紙「アカハタ」を唯一の真実をかく新聞と教育されていた頃である。戦争中の軍部の意向一色の論調がうって変わって、戦後占領軍の検閲により規制されていた新聞にある不信感は残り続けたことはたしかだった。”商業新聞はブルジョアの代弁者”と略して”ブル新”と呼んだ。そんな風潮のなかで、あるマルクス経済学者は「新聞には生きた事実が必ずその底にある」といいとくにベタ記事をよめば、経済記事や外電にも気をとめるようにすすめた。私の19歳のときだった。学生運動の中で、オリにふれ切抜をし、”今日の情勢”分析のマネゴトをしたものだった。

 映画のしごと、とくに記録映画の途に入って、自分で情報を収集し検討整理することが必要になった。それも論文や解説ではなく、生の新聞記事が第一次資料となった。“WHEN、WHO、WHERE,WHAT、WHY、HOW”という5つのWとひとつのHwo記述の原則とする記事は、知名、人物、条件が具体的に何よりドキュメンタリー映画の資料として役にたつからだ。

 1960年代後半、中国で文化大革命が展開され、日本では全共闘運動が胎動するころ、あてはなかったが記事を読み捨てにできなくなって切抜をはじめた。それがアテあっての仕事となったのは、70年、水俣の映画に入ってからだった。やがて横のめくばりから「公害」「薬害」「列島破壊」などの項目をたてていった。そのひとつに「原子力」があった。
 といっても、公害源としてみていたわけではなく、平和的利用を半ばうのみにしての作業だった。だが「むつ」の事件から焦点が絞られた、ホタテ漁民の闘い、そして劇的ともいえる放射能洩れが現実になったからである。

 ファイルはテーマを増やし、「原子力」と関連して「核」や「防衛」問題も切り抜いた。ところが現実問題として3つのテーマに分類しにくい事件が相つぐのである。例えば原潜入港の大紙面(当時は大事件だった)は安保問題としては「防衛に」に入るべきものであった。しかし、核装備のもちこみの面では「核、原爆」に相当し、その原子炉のたてながす放射能もれ事件はそのディテールにおいて原子炉、つまり「原子力」のおさめたくなるのである。 こうしたことは、2年と3年と切り抜くなかで必然的な重複となった。

 インドのカンドゥ型原子炉、そのもえかすプルトニュームからの核製造と実験(1974年)、原子炉からの核ジャックから核拡散防止条約にみられる核兵器と原発とのセットとしてのやりとりをみるとき、また核ゴミ廃棄から再処理工場の対策の底流に、原発と核と再軍備が三つどもえになっているのを見ないわけにはいかないのであった。
 何より放射能の毒性が人智によってコントロールできるという発想が肯定できなかった。プルトニュームの毒性はその半減期2万4千年と聞くと、水俣湾の水銀すら影響がうすくなる程の強烈さではないか。この十年余りの切抜帳は、私に水俣と相並ぶテーマとして訴えかけてやまなかった。

 今年(1982年)、反核運動は予想をこえた進展をみせた。その中で、10フィート運動の映画は有力なオルガナイザーとして機能した。その第一作「人間をかえせ」は千本プリントされ、全国各地の人々に手渡されと聞く、水俣の映画のささやかな上映運動の体験から推して、それはケタはずれの映画と人々の出遭いである。
 私はそれらの映画を見た。そこには反原発への言及は皆無だった。反核から反再軍備までの脈絡でこれらの映画は成立している。それは決してあやまってはいない。
 しかし私の切抜帖づくりの中では、どうしても反原発はひっからみ、それだけを切り離すものにはなってこなかった。反原発は異物なのか、それが私の設問となった。

 ここ3,4年、オリをみては私は、各地の原発現地を訪ねた。”景観として見るだけでもいい……”。そこで発電所にもっとも近い漁民の民宿にとまり、原発敷地をありこちから眺めてきた。皮肉にも私に原子力発電のしくみを教えてくれたのは、原発の玄関正面に設けられたPR館の精巧な動くミニチュア原子炉や立体模型、デイスプレーである。小中学校や老人クラブの団体客などにまじり、手にあまるパンフや写真資料をもらい、パネルのアニメで加圧水型と沸騰水型の違いを学んだ。
 PRの目玉は、原発の必要性と安全性の二点である。それには常時公開の宣伝映画とビデオ報映、つまり映画人の映像の仕事がその責をになっていた。それは私には痛みでしかなかった。

 切り抜きで映画は出来ないものか。半ば無謀としながら、それを打ち消すように案を遊ばせてみた。まず『原発切抜帖』と題名を大書した。”不人気な”な原発問題であれば、軽評論風がいい、捕物帖か落語風ではいけないか。「召し捕ったぞ…」ものがたりではどうか。それには小沢昭一氏の語りにかぎる。音楽は氏のハモニカか大正琴がおにあいだ。それなら高橋悠治氏に相談しよう。技術的な指導は科学者・運動者の高木仁三郎氏に頼もう。撮影は科学者のお似合いの岩波映画のカメラマン渡辺重治君がいちばん頼りがいがある。…と着想はふくれ上がっていった。

 だれもが一度は眼にした新聞、だがその古新聞だけで映画になるか、新聞には写真、図解、グラフがある。何により活字メディアのなかで新聞ほど視覚的に工夫をこらしたものはない。それを最大限にいかしたら字もまた絵になるだろう……と私は自らをはげました。
 青林舎がその同人の会議で、この『原発切抜帖』を今後のシリーズの序章的映画と位置づけ、そのスタートを決めたのは82年4月だった。

 私の資料はたかだか11,2年分、それも欠落をまぬがれていない。トップは昭和20年8月の原爆投下の第一報からとした。そのため戦後37年分の”原子力””核”の資料の総当りが必要だった。この種の資料当たりには大著「水俣病自主交渉・川本裁判資料」を作った経験者たちが身辺にいた。その若い”先輩”たちは新たにシナリオライターや映画志望の若手を集め、一万数千の記事をあらいだし、分類校正する作業に入った。四ヵ月、数千枚のコピーの読みとりと位置づけに深夜までの労働を要した。そして選び抜いた200余りの記事をもとに、ものがたりを書いたのだった。

 記録映画が発見性をいのちとするものならば、この映画の中で、私たちは新聞紙のなかに動かしがたい原発の歩みを記事を証拠にたどった。ときに驚き、ときに推理し、あるべき未知の記事をさがした、そして誰もが、忘れていたものの重大さを発見したのだ。そのプロセスがこの映画ににじんでいたらそれで良しとしたい。現代史はゆれうごいて不確かなようにみえる。しかし、いちずに追えば、やはり何かがみえてくる。その集団の発見の作業がこの映画なのであった。