漁民の村長の復活 「自然と文化」 春季号 平和と民主主義のための知識人会議
漁民はむかし、いわゆる士農工商の順列の中にあったのか、ならば農の身分に位置づいていたであろうか。明治の半ばまでの不知火海沿岸では、漁民は農民に必ず道をゆづるきまりがあったという。大きな網元とその庇護・支配の下の網子衆はその序列から圏外にあってその個有の団結性をはかってきたと思えてならない。水俣病を生んだ不知火海漁民にとくにつよくそれを思う。というのは今日、姿かたちを変えた漁民集団をこの海に見るからだ。
鹿児島県出水郡東町、北薩地方の離島・長島の東半分を占める人口八千余の町である。その漁民・家族五百世帯二千人弱、島にはめづらしく農業の強い地帯であり、漁村は「貧乏を絵に描いたようなところだった」(漁民)という。「町役場のあるところには昭和の初年から電気がきていたが、この漁村にきたのは戦後しばらく経ってからだ」(〃)「小学校にいくにも弁当ももたず、裸足で通った」往時を思う人が昭和生れの現役である。この漁民集団が、いま東町の経済力を左右し(村の中の村)といわれる程の結束力をもっている。この十年養殖事業で培った地力が物を言っているのだ。その”村長”東町漁協組合長宇都時義さんは童顔をのこし、四十三歳の今でも”青年組合長”と親しまれる御仁だ。彼が組合長に推された時は三十歳そこそこ、全国でも最年少の漁協の長であった。そして何より、将来の村長の風がある。大きくたれた耳朶、にこやかで時折するどく光る眼、大きくぶあつい掌、人をそらさない礼儀正しい挙措、村夫子然として実はすこぶる機敏な智慧袋を授かりもっているひとだ。
高校卒業後、映画好きが昂じてシナリオ・ライターになりたく、名作のそれを手当りしだい読破したという。その読書好き、活字好きは今も変らない。しかし長男ゆえに出郷を断念し、地元の貧乏漁協の事務員(参事)になった。それは辛い自縛であったようだ。
この地先の海は不知火海と外洋をむすぶ急流で知られる瀬戸であり今でこそ一本の橋で阿久根市とつながれたが、孤島性をながくひきずった。漁業といえばいわしあみと一本釣。昭和三十年代から瀬戸内海や錦江湾で始まった養殖も、「潮が急で、ここだけは無理」といわれてきた。更に十年周期のイワシが去り窮迫に追いうちをかけた。網子たちは動きのとれない網元をのこして殆んど出郷し、一本釣の「老人の海」となった。四十年代の後半になって、元網元の必死の試みで、この瀬戸に生けすを据えた。生けすの重しを改良したのである。
今日、ここの養殖魚はその潮流の早さと外洋の汐の入れかえの烈しさ、水温の低さによって、逆に天然ものと変らない肉質としまった身のハマチ、タイを育てることができ、内湾で飼育される大味で肉ばなれするそれらと差をつけ、市場の玄人ごのみの銘柄魚となった。こうしてこの十年、年間水揚げ二億円にみたない漁村は今日、四十数億円の養殖基地に変貌したのである。宇都氏は漁村の子である。貧乏の辛酸も知る。漁師の屈折した心情もよく知っている。彼の話法は分りやすいたとえ話に光彩一きわだ。グリム・イソップから民話のストーリーをかりて一篇のものがたりを語り、漁民たちの希望をかきたてて、結束をうながす。そこにはシナリオライター志望の青年の”映画的ドラマ”が再生してきているようだ。
最近久しぶりに帰郷した人は、都会に幻滅し、この栄えはじめた村に帰りたいと希望する。しかし宇都氏にとっては、かつて、自分を時代遅れの劣等感におとしめた人びとである。「村をつくるにゃ、あんたらは遅い。いまは若い衆のことだけで頭が一ぱいだ」とニベもない。事実、耐えのこった漁家にあととりはほぼ百パーセントのこった。今年地元高校を出た人の九割がのこり成人前の若衆が埠頭で働いている。
「自然はこわい。いつ根こそぎの災厄にあうか分らない。だから結束力の芯である家族単位の養殖規模を死守せよ。頭と腕のすべてを使え」といいつづける。最近は漁民の偏食改善のためカイワレ大根の種を全戸に配った。むろんこの海岸で合成洗剤は使われていない。彼は村長としていう。「原発はいけません。わしらの海を末代まで汚ごす」と。
彼は現代にかつての漁師集団を再生させているといえるであろう。