本橋成一の記録の世界 本橋成一写真集『上野駅の幕間』所収 初版7月1日 株式会社 現代書館
上野駅はことし一九八三年でちょうど百年をむかえるという。巻末の中田清氏による「一職員の眼で綴った「わたしの上野駅百年」」の年表は貴重なその記録である。だが本橋はそれに合わせて撮ったのではない。たまたま、そうなっただけのようだ。「この駅の居心地のよさがたまらなく好きになった」(あとがきより)から撮ったのであろう。まさに一枚一枚の写真にひとと駅の気持ちと身体のつながりというかぬくもりというか、映像でなければ名状しがたいものが映し出されている。よく見れば、ひとのねそべる床にも、柱にも、風雪いくひさしい手垢とわたぼこりの時間を見てとれる、そんな上野駅の今に眼は注がれている。百年史年表をタテと見るなら本橋はヨコを描いた。お互いにそれはひとりだちの中味なのだが、そのタテヨコを読み比べるとき、たしかに上野駅の世界が立体的に浮び上がってくる。憎い写真集である。
「面白がって撮ったものは絶対に面白い」というはなしがある。本橋の、しからば面白がったものは何か。彼は抽象的に語らない人である。写真に一章ごとにあるスケッチ風の文章にそれかうかがえる。人びとと語ってきた断片がそえられているー。
例えば、駅をすみかとする人たちは、お正月がすぎると「今年はいつ桜か咲くかねえ」と心待ちにする。ふだん冷やかな目付きで通りすぎる人たちも、上野の花見の季節には、かれら(浮浪者)の呑み歩きをゆるしてくれる。「もうとっくに関係を断ち切っていた人たちが、年にいちどだけ、仲間になれる日かも知れない」。また、皇居御構内奉仕団一行に書く「昭和二十三年から来させていただいとります。上野に着くとピリッとしますです」……上野駅からもう皇居ははじまっていた」。もうひとつ、宗教団体の御本尊さま参りのあと、オバさんたちはスケベー語に賑わう「……上野についたら急にスケベーな話して……ハルさんよ、この汽車、父ちゃんの二オイでもするのかよ」。短いドラマを活写した良い掌編小説をよむ心地がする。写真を繰るにつれ、登場人物の生活背景や奥深い心のひだ、慣行が、もやのようにこもりたし、上野駅のすみずみにひとり一話ずつのドラマが語られている。
彼が上野百年にそって写真集をまとめることも出来たであろう。あるいは行革の矢おもてにあり、断崖に立たされている国鉄の崩壊をテーマにしぼることもできたかも知れない。処女作写真集「炭鉱」(一九六八年・現代書館)でその系の仕事を見せた彼である。しかしこの「上野駅の幕間」の中で、本橋成一は舞台を上野駅構内に限って、駅とひとりひとりの関係性のみに焦点を絞ってみせた。ひとはこの駅のどこで想うか。どこで家族は固まるか。人の群はやがて酒をくみあい、出稼ぎのなかの面白おかしい話を交しながら郷里の門口にたどりついたようにくつろぐ。その人間の情のこもる駅空間、例えば大理石のベンチと寝息をたてる人との接点を撮ることに専念したようだ。いわゆる上野駅的人間を、その風貌や姿で描こうとはしていない。その人の好む空間の中でとらえている。あとにもふれるがそんなフレームのものばかりである。
上野駅のキイワードはみちのくである。列車名もそうだ。上野がその地方の東京での灯台岬のような感傷は拭い切れない。本橋成一は「上野発の夜行列車降りた時から……」と口ずさみながら、上野駅の様々な人に触れていく。住人、駅員、都会人となった人、核家族、裏方の人びと。そしてその誰にとってもこの駅のなじみ方は如何かと問うている。
「炭鉱」のあとがきに重森弘滝氏は「彼のような愚直な写真家はもういない」と十五年前に評している。今この評はますます冴えてひびく。私の印象もそれにちかい。彼に師とする写真があったか否かは知らない。ただ師とする人に上野英信氏があったと思う。筑豊に根を下し、坑夫として働いた時代から今日まで廃坑と離職者の流亡を見つづけてきた作家である。その凄絶さは近よりがたい。本橋は、その氏の宅に身を寄せ、そこからしゃにむに五年間の撮影に入った。写真家のスタートに当たって、当然のことのように上野氏の息の長さとその作風を学んだであろう。
上野氏に近づいた人は皆そうなる。例えば画家富山妙子さんは氏を訪ねて以来、十年ボタ山と炭住の人々を描きつづけたという。また写真家宮松宏至さんは上野氏のブラジル流民(元炭坑夫)の追跡に同行し、その後、カナダの水銀汚染に病むインディアン居留地に十年近く住みついている。みな長丁場のひとばかりだ。
上野氏は写真による筑豊の記録の大集成(全五巻)の仕事で炭住から重い腰をあげて上京しておられる。素材が写真だからだ。今、東中野の本橋のだだっ広い仕事場に、山なすネガをつみ、やはり仲間の写真家趙根在さんと車座になって焼酎をなめながらの毎日である。炭鉱の仕事はこれで二十年に近い。そんな出自のせいか、”記録”と聞くと眼つきが変わる。そしてどんな労も惜しまない。私が彼と知りあったのも富山妙子さんの金芝河に関する写真スライド、詩と絵と音楽による「しばられた手の祈り」 であった。
もともと写真界にうとい私は、彼が「ぼくの作品はカメラ雑誌に一度も縁がなかった」というのを聞いて首をひねった。「炭鉱」は当時太陽賞を得ていたし、小沢昭一さんと組んでの大衆芸能の発掘の仕事で、折々その作品を見ていた。その写真集『サーカスの時間』(筑摩書房刊)は評判もよかったからである。その仕事も足かけ五年、上野駅も三年、やはり長丁場の彼であれば、”マンスリー”の仕事のサイクルにははまらないのだろうと納得した。
こんど、彼から写真集の構成をたのまれたとき、私は数千枚のネガと、それからピックアップされた千枚余のキャビネを見せられた。パラパラとみた最初に、物のアップや人物の顔だけのアップ、また風景や上野駅の大ロングといった編集上の”変化値”にあたるショットのないのに気づいた。映画のような時間芸術での空間表現と象徴化には必ず大ロング・ロング・中景・フルショット・アップ・超アップといったサイズの常道がある。だが、彼の写真はすべて人物がはじめにあり、それの位置づく空間が、シャープにカッチリと切り取られたものばかりである。そのことに不足・不満をのべたはずだが、並べてみると、そのような心づもりのショットが入らないのである。そうした映像的なモンタージュは不必要な質の写真群であった。
駅はどこでも急速に変わっている。自動化・人べらしなど合理化にさらされている。ストだ、”乗客暴動”だので駅舎の防砦化も近年のことだ。管理色のきわだつ東京駅、デパートの一部に組みこまれた新宿駅。ひところできた美麗、清潔な有料便所のように、人をこばむおもむきのなかで、上野駅にはまだ広場のおもむきが残っている。社の境内、雑踏の街角風に人の住みつくこの駅の体臭は残ってほしいと本橋成一は思う。上野駅の居心地のよさを入口にその内奥を撮る彼の気持ちの裏には、そうした時流へのつよい抵抗が働いている。彼が上野駅とひとを撮るとき、その関係性の凝視がアップではなく、背景・周辺と人物・群像として定着される、それがこの写真の動かしがたいフレームとなったと思える。つまり彼の見た広場の記録なのだ。
この取材も終り近く、あいついで東北・上越新幹線が開通し、大宮駅始発になって、上野駅はガラリと変わった。最近の新聞種にもなったほどだ。駅での旅客の滞留時間が極端に短くなったという。三十分ことの新幹線リレー号(上野-大宮間)がベルトコンベア式に乗客をはこんでいく。売店も人影まばらなら赤帽さんもアクビをしている、という。
「やっと上野駅の終焉に間にあった」と私は思う。期せずして、本棟は最終の”上野駅”なるものを記録したのだ。
行革施風のなかで、現在駅員五百六十名、二年前には約七百名であった。『わたしの上野駅百年史』によれば、明治三十九年、”私鉄”だった日本鉄道会社が国有となったとき、ひきつがれた三百八十八名とある。東北・常磐・信越三幹線のようやく開通した当時ですらである。二年後の新幹線始発となっても、この人員でまかなうことになろうといわれる。駅員の姿は閑散たるものであろう。
駅舎や列車の清掃、手荷物扱い等はすでに民間委託となり、八二年、案内係や忘れ物の、あの遺失物取扱いまで駅員の手からもぎとられるように民間委託となった。出札での客とのやりとりは切符をかうにあたっての安心感のうけわたしだったはずだ。それが、大幅にロボット・自動販売機に代る。営業と運転だけという駅にとっての背景だけか残るというガラの時代はすでにきている。上野駅という一つの身躯のような端々までの血と神経の通ったすがたは今はないにひとしい。
駅は泣いている、と誰かがいう。だが札幌ー東京間の旅客の九五%はすでに航空便にうつり、鳴物入りで始まった青函トンネルも新幹線の走る見込みは立たず、この駅の賑いをとりもどすメドはない。上野駅の時代はいま確実に終りつつあることを認めないわけにはいかない。
旅人にとって伸縮自在であった駅。くらしの構造を抱きかかえる広場としての駅。駅員は「いろいろあっても、見逃してきて、ですねえ」 という。駅員と客とで使いならしてた生き態の上野駅は、もはやこの写真集の中にしかなくなるであろう。だがのちになって、合理主義をつきつめた直線の空間に人びとが疲れはて、再び建築家が曲線とダフダブの余地をなつかしむ人間本来の性をとらえなおすときがあれば、この駅に親しんだ、この写真集の人の顔をみてほしい。