『海盗り』の現場から 記録映画『下北半島・関根浜』製作ニュース No・1 11月 記録映画『下北半島・関根浜』製作協力委員会 <1983年(昭58)>
 『海盗り』の現場から 記録映画『下北半島・関根浜』製作ニュース No・1 11月 記録映画『下北半島・関根浜』製作協力委員会

 「海をとられちゃうことは、むらがとられることだ……」と、東通村の元漁協組合長山道さんはインタビューでポツリと言った。昭和三十四年防衛庁にその浜と漁場を売った時以来、初の取材訪問者が私たちだった。昭和二十八~九年、北陸金沢市に近い内灘に置かれようとした射爆場が二年にわたる基地反対で不能となった。そして一戸百万余円の補償でここに地を得て問題を解決していた。誰もこの下北半島北端の地に反対をつなぐものはなかったようだ。「浜小屋を失って、地先をとられて、暮してゆけた村も、一戸減り又一戸減りして……」漁業は潰滅しむらは衰弱した。
 シナリオのある映画なら、さきのひとことをセリフとして書いただろうに、この老人はそのひとことをかれの言葉として発した。
 …「海が亡びれば陸は亡びます」とは私がNHKの「明るい漁村に出演して出たことばだった。草稿も用意もない発言だっただけに私自身に聞かせる言葉として潜在していたのだろう。そしてそれはまさに、この老人の口から聞けた。それは私の恣意的なホラではなかつたのだ。
 今年五月下旬に、「むつ」係港予定地に一本の旗も横断幕も、まして漁船デモも見ていない。事情は、内灘から猿ケ森に転じた以後とよく似ている。むつ湾から”外洋”津軽海峡の浜に転じての後、浜関根に支援者は来られないでいる。かつての「むつ」出力試験施行の際の「海戦シーン」や、その後の海上デモを今回の映画に期待されるなら、それはないと言える。
 八月まで専ら出来事を追ってきた。国・とくに県が仲介として、前面に出て、手打っていくさまを浜関根の視点から見てきた。その間、失われる海と漁業、磯を撮ってきた。海を売るのとひきかえに出された代案(網の沖出し、増量、期間延長)がいかに、漁民にどう映じたか。そのうらの手口を記録してきた。反対運動からの脱落、その人たちへの痛恨と孤立の痛みを見つめてきた、この点で敗け戦さの記録である。しかし関根だけではない。下北半島の影の部分(むつ湾以外)はすべてなのだ。その全貌から再び関根を見ないわけにはいかない。
 十一月中旬、八月以来漁業権の消滅をみとめず網を引き上げることを拒み通してきた反対派のドンは「圧力に抗しきれない」「三十人の網子がある」と、夕景の中でそれを撮った。
 その数日前、私たちは同じ条件のなかで、ひとり反抗して失われた漁区立入禁止の沼でひとり昂然とエビ、ワカサギ漁をつづけている六ヶ所村の反対漁民を撮っていた。「わしゃ漁業権放棄に印をついていない。金(補償金)も勝手に供託でもしろといって一円も受けとっていない。だからわしにゃ漁する権利がある。関根の衆も印だけはつくなといいなさい。印さえつかねばいいんだ。」
 小さなエビを、沈めた柴の束から獲る独特の漁法だ。一キロ千二百円という。その日十キロ近くとれた。「ハハハ、皆売って金をもらった。わしだけがこの沼で漁が出来る。鷹架沼は”宝沼”、ここはわしの沼じゃ」と笑う。すごみのある漁師だ。この人の風聞はしかし関根に伝わって来ない。車で二時間の距離なのに、である。
 むつ小川原開発で出来たのは石油備蓄基地だけだ。広大な荒地がむつ小川原開発株式会社の手中にある。だからまだ元の大地に復する夢はゼロではをい。しかし逆に言えばたちまちにキナくさい軍事施設、プルトニウム時代の原子力発電の基地化に転進することが可能である。浜関根の”母港”も「原力船がだめなら再処理工場、廃棄物のゴミ棄場があるサ」と代替できるのだ。
 関根になぜ原子力船「むつ」がセットされたか。それが浜の戦中戦後の思い出話からたぐられてきた。語り手は「関根浜海を守る会」の松橋幸次郎さんだった。「戦争前夜のようだ……」という。
 戦中のトーチカ、敵機をおびきよせる偽装基地、戦後、朝鮮戦争時の米軍射爆訓練場、そして今日は海峡封鎖用の重要通信施設がひそかに新設されている-こうした戦後史の上に「むつ」母港が必要不可欠のものとして立地されてきた。下北は青森県の疎外の地、その下北の影の部分がすべて軍事と原子力の方向で急進展しているのだ。その影をセスナー機から見た。太平洋岸は三沢から尻屋にかけて、二つ三つの漁港の漁場以外はすべて立入禁止の海と化していた。わずかの原野は原子力産業で買いしめられ、津軽海峡の中心にこの浜関根はあった。
 海を盗る。それが現代の国盗り物語なのだ。漁民は一日でも二日でも長く海にしがみついてほしい。もしこの映画が間に合えば……との想いからである。
 (八三・一一・三〇)