国策“海盗り”のからくり 「総評」 5月号 日本労働組合総評議会
「この海は全部オラひとりのもんだ。ハンコさえつかねば、大臣だって天皇だって海は盗めねえ」
原子力船「むつ」の母港建設で揺れる関根浜の漁民たち。下北半島全域に展開する国策による海盗りのからくり。軍事基地や原発、巨大開発と、都会や「強い地方」が嫌がるものが、なぜ下北半島に全部集まってくるのか……。
となり村の漁民に見せたい
原子力船「むつ」をめぐり、小さな漁家集落にふってわいた母港化。
これに対し、漁民たちは生活と生業を楯にして抗争したが、赤ん坊の手をねじるようにあっけなく漁区の一部をその港湾施設のためにもぎとられた。そのふんまんを描いたのが映画『海盗りー下北半島・浜関根』である。こう書いただけなら、漁民にとっての「負けいくさの記」でしかない。しかし負けを覚悟しての撮影開始ではあった。
この映画製作を発起した松橋勇蔵(芸名・愚安亭遊佐)は、生まれがこの母港の地・浜関根であり、長兄のいとなむ定置網の水域の半ばが、母港の区域にひっかかるという、彼の松橋一族の存亡にかかわる事態を背負っていた。
彼は、俳優として、母の死を契機に、物言わぬおんなの言魂を浮ばしめようと決意し、劇団の世界から一転、流浪芸人の姿を借りて、一人芝居を演じてきた人だ。母の人生のひだひだを津軽弁で語り、みるものをあきさせない芸を身につけてきた。
その彼から記録映画化の話があったのは八三年三月であった。原船『むつ』の話も遠かったころである。
彼は、「いっときは反対運動も盛り上がったけど、長つづきしない。原子力船『むつ』がむつ湾・大湊に居座るとなれば、湾岸のホタテ漁民もまた、がんばるだろうが、外洋の津軽海峡(浜関根)にもっていくとなれば、あえて反対はしないようだ。私の口惜しいのは、この浜関根でも漁は盛んで、近ごろ、ようやく出稼ぎしないでくえるだけの漁業ができるようになった。だから反対してる。そこを映画で見せたい。百聞は一見にしかずだもの。誰に見せるかって?私はまず、むつ湾の漁民や青森の漁村の人たちに見せたい。同じ漁民じゃないか、仲間がやられているということを知ってもらいたい」という。
「誰に見せるのか」という私の問いに、「となり村の漁民に見せたい」という、その上映の寸法がいたく私にひびいた。「日本中の……」 と言わないところがよかった。かつてホタテ養殖を守って、『むつ』の追い出しにむけ、執拗な闘いを組んだ青森県むつ湾岸漁民に、外洋の小漁村・浜関根漁民の生活と漁業の実情を見せたいという、その切実さが私を衝った。
たとえ少数者であろうと、逃げ場のないほど追いつめられたものの戦いは、いつかは勝つという教訓を、私は一〇数年見てきた水俣病の患者闘争から学んだ。と同時に水俣の実情が、眼と鼻の先の対岸の天草や不知火海沿岸漁民にはなかなか伝わらないものだということも、私の体験で知らされた。
浜関根のいわば『むつ』騒動記をストーリーにしつつ、「なぜ反対せざるを得ないか」という漁民の根拠、つまりその生業と海とのつながり、平凡な漁師さんの思いを、その海・漁業の場で描けば、かならずや周辺漁民に伝わるものがあろうと思った。
「しかし、多数に無勢。映画は負けイクサの記録となるよ。その記録の果てに、もりかえしのきざしが辛うじて見えはじめる……そんな映画になればとは思うが……」と私は沈んでいた。勇蔵は私ほどに落ち込みはしなかった。「いやぁ、あまりにもむちゃくちゃだからねえ、漁業権放棄に反対する漁民は少なくない。ひょっとしたら勝てると思うよ」と言う。
こんな二つの見方に別れたまま、スタートした映画だった。だが忠実な記録映画に、ということでは一つだった。
「漁業権放棄」のしかけ
浜関根は、戸数一〇〇戸あまり。一本釣り漁民は一〇年ほど前から、出稼ぎに出ている。周辺の漁家集落四つをまとめてできた関根浜漁協は、正組合員二五〇名、準組合員一一三名を含め、総数三六七名と数の上では多い。これはかつて、自然とともに生きた浜の人びと、こんぶを採り、わかめを摘み、いわし網をひいた時代からの名残りの「浜びと名簿」の総数なのだ。今日、漁業一本で暮らしをたてている人は八〇名前後。彼らはわかめ養殖、うにかご、たこはえなわといったものから、主力の底建て網、さらには定置網(大謀網)を頂点として、それぞれ仕掛けに投資し、はじめて採算のとれてきた漁業者たちである。
「一本釣りだけでは漁師はくえたためしはない。だから半農半漁だったし、農も漁もできねえ冬場は、あったかい関東方面さに出かせぎにいったのさ」と彼らはいう。なにもすきこのんで漁を捨てたのではない、という気持がこめられている。
だから原発にせよ、開発にせよ、海が売られ、補償金が出て、それが分配されるという事態になると公平にという声がでる。
「まんず同じ浜の者同志という気持で物事を決めてほしい」ということになる。推進派の組合長、区長、漁協理事も、そのような気持を汲み上げたかたちで、海を売ることへの賛成同意をあつめる。今回も正・準組合員とも、「一人最低三〇〇万円は保障するから」といって、漁業権放棄の同意をとりつけた。
漁業権放棄といった、沿岸漁民にとってはもっとも重大な利害関係をもつ案件を総会にはかるには、「特別重要案件」のための臨時総会を開く前に、正会員の三分の二以上の文書による同意を必要とすると決められている(水産協同組合法)。ふつうの議題なら過半数で決めうるが、漁場の消滅や変更など、漁業者の権利の根幹を決める議題には、「賛成三分の二以上」という厳しい条件がある(昭和二四年の新漁業法には沿岸住民の漁業権を守る精神があった)。
準組合員にはその議決権はない。組合の定款で、「年間九〇日以上操業する」者を正組合員とみなすと決められ、その彼らにのみ議決権が与えられている。専業漁民なら少なくとも波浪や風で休みの外は年間二〇〇日は出たいところだ。九〇日操業すら、専業漁民の資格のメドとして少ない日数といわれ、組合によっては「一二〇日以上」としているところもある。それほどに正組合員の権利は本来かたいものだという。
「関根浜漁協の定款通りに総会を開いて議決していれば、海は絶対売られなかった」と、今日たった一人の原告として裁判で争っているのが松橋幸四郎さんである。
事実、資格審査に耐えられる専門漁師だけなら、海は金輪際売られることはなかった。正組合員に該当するものは約一〇〇名前後。そしてこの二年間、調査受け入れなどにみる『むつ』反対票は七〇前後、もし専業の正組合員だけの賛否なら、圧倒的に反対なのだ。
松橋勇蔵が「勝てるはず」と読むのも、漁民のこの固い岩盤を知るからだ。
県当局の汚ない「手口」
私はあえて「だが敗ける」と言った。すでに青森県当局は、漁民と原船事業団との間の仲介者の域を大きく踏みだし、「当事者能力ゼロ」と言われる事業団に代わって、海と陸の買収にと前面におどり出てきていた。巨大開発といわれる六ヶ所村の反対派つぶしでベテランのつわものを配して、漁協執行部に入れ知恵を怠らなかった。八三年はじめ、”三分の二工作”の地固めに、準組合員三九名を正組合員に昇格させている。公務員二名をふくむ非漁業者たちである。多分、補償金配分に手心をくわえると因果をふくめ、賛成派の分母を強めたであろう。二一〇名前後だった正組合員総数では、七〇名前後の反対派に勝てないからだ。
組合長はこの違法な昇格の際、「ここんところはまげて承認ねがいたい」と非を認めた上で頭を下げたという。組合執行部の面めんの地縁・血縁をたどっての工作であったに違いない(こうした手口は映画ではとれなかったものだが、その速記録は残されている)。
いなかの選挙が投票日までにすでに終わっているように、臨時総会以前に多数派工作は終わっていた。いかに強引に議事を運ぼうと数さえ決めれば、漁業権放棄は民主的になされたことになる。県の事前の小細工が改めて問われることは稀なのだ。こうして八三年八月七日、総会において、海は”民主的手続き”を経て売りとばされた。意表をつく意見・提案も出されたが、相手にすらされずに葬られた。映画を見ていただければ、いかに空しい進行であったかお分りいただけよう。ソフトなファシズムとしかいいようがない。
私は「負けいくさの記録」を撮るといったものの、逆転や正論の通ることを心まちした。が、議場には無力感だけ残った。
だが、奇妙な数字も残った。
総会開催前に水産部と組合執行部は、ひそかに一九名の底建網漁民と取り引きを行ない、総会開催への同意書をとりつけ、漁業権消滅の場合に漁期の延長、漁場の拡大を特別にとりはからう一札を入れて、利益誘導による賛成派へのねがえり工作をしていたのである。
ならば、反対はより少ない五〇票前後となるはずであった。だが、一、二名の裏切りをのぞいて、あとは漁業権消滅に反対票を投じていた。面従腹背もいいところである。したたかな専業漁民の渡世の根性がそこにあった。
しかしそうなってみれば「負けた勝った」ではない。この事態をどう把えるかである。反対票は死んでいないではないか?このことは、松橋勇蔵と私の当初の勝ち負けのさき読みごっこに終止符をうつものだった。
撮影はこの”敗北総会”を境に、一変した。「なぜ、いま、下北か」という主題に立つことになったのである。撮影に四カ月かけていた。さらに半年、下北半島の全体像と、そのなかでの関根浜「むつ」母港化の意味を探っていく姿勢に変わったのである。
余談になるが、撮影中、NHKの番組『明るい農村』で関根浜の”海盗りのテクニック”を話したら、長崎県上五島の洋上石油備蓄基地で闘う漁民から、即刻反響がよせられた。”海盗り”の手口は長崎県当局も全く同じだという。ここでも、洋上備蓄問題の起きる前、三〇〇余名だった漁協組合員が、一挙に正組合員一〇〇〇余名に水増しされたという。三分の二以上の同意をとるためである。そのひどさは関根浜の比ではない。
「こんなことがまかり通ってきたとしたら?」という疑問から、もう一度下北半島を歩き直すことにした。「海をいつ、どのように盗られたか。そして今日、どうなっているか」。
改めて地図を開くと、下北半島はまさに満身傷だらけといえた。
軍事基地、原発、巨大開発が
軍事については、三沢基地、及びその実弾、ロケット射撃場の天ケ森海岸地帯。地対空射撃場の六ヶ所泊海岸。石川県内灘からどこかにいった艦砲、各種大型火器の試験場は、東通村に一四キロの海岸線を盗っている(猿ケ森)。
これらすべては、陸海空三軍の三点セットを完備する青森県ならではであり、その要は、津軽海峡封鎖、対北方作戦基地の軍港・大湊である。どこも正面から取材を申し入れたが、多くは撮影不能なので、日曜休日だけ空港制限が解除される時を選んで、セスナ機で撮ってみた。弾痕だらけの浜、ベトンと不発弾の散乱する砂浜、そして漁船の姿なき海が下北半島太平洋岸に連なっている。
開発計画のかけごえのまま、不毛の地となった六ヶ所村。その内水面漁業のゆたかさで、宝沼とよばれた白鳥渡来の地も、その海と同様一〇〇パーセント漁業権を消滅させられていた。
いまそこに、「原子力のメッカ」(中曽根首相の青森での演説)として、核の三点セット「ウラン濃縮、核再処理工場、低レベル核廃棄物・高レベルの核のもえかすの貯蔵場」が貼りつけられようとしている。
東通村の原発二〇基構想時に線引きした広大な用地が、東電・東北電によって買収されており、本州最北端・大間町には、プルトニウムまぜだきの新型転換炉(ATR)の立場がほぼ内定され、調査が進められている。これらすべてが海盗りについて同じやり口で攻めこまれていた。
その被害がまだ可視的になっていない各海岸と浜の村々に比べ、六ヶ所の巨大開発地域や、各軍事施設の海岸には、もはや死に体の海があり、漁家集落の滅亡の事実がまのあたりにあるのであった。すべて辛口の”国策”と甘口の”地元振興”のアメとムチの使い分けによるものだ。「海を失えば、陸は必ず亡ぶ」という典型のようなむらが一、二にとどまらず、マサカリ型の下北半島に出現していた。それらのすべてを巡る旅をフイルムにおさめた。巡って下北を見直すと、関根浜の位置と「むつ」問題が鮮明になってきた。
この一月からの「むつ」廃船論は、体制にとっての本音であろうが、原子力半島化の総意志の上では手痛い大失敗である。原船母港を原子力関係の専用港にといい一見逃げの手口を打ったあと、時を見てプルトニウムを軸とした最もけがれたダーティな核取り扱い専用の港にするつもりであろう。
だが下北半島の人々に、すさまじい体験を負わせた分だけ、教訓のゆたかな反対運動の経験の宝庫にしてしまったことにもなった。
問題の地は、一五年、二〇年と、時を閲してきているが、まだ自然は残されている。
「まだいまなら海を奪い返せる!」というのが、下北の海の春秋を見てきた私のよりどころだ。