海盗り半島 「青林舎ブックレット 海盗り」 初版1984年5月20日 青林舎
原子力船「むつ」の新しい母港が、下北半島の津軽海峡に面する百戸あまりの漁村関根浜に決められたのは八一年五月、亡き中川一郎科学技術庁長官時代であった。
前作の映画『原発切抜帖』八二年)でも、「なぜ、いま、関根か?」と疑問を呈しておいたが、とうとうそこで映画を撮ることになった。そもそもこの『海盗り―下北半島・浜関根』を企画したのは、映画とは縁のない役者さんだった。劇団『ほかい人群』の主宰者である松橋勇蔵(芸名愚安亭遊佐)が発起したものである。
彼は、ほかでもない、その浜関根の網元の五男に生まれた。そして「むつ」問題が関根に降りかかる一年ほど前から、生母の一生を芝居にした『人生一発勝負』(作・結純子)を演じていた。「むつ」が来ると思って作った芝居ではなく、その全国公演のさなかに「むつ」が彼の生地にはりつけられたのである。
八三年春、結さんと彼のふたりからその海と人の話などを聞いてひきこまれ、「非力ながら映画をとらせて頂く」と返事はしたものの、資金のこともあり、「……あわてずに一年計画で取り組もう。まず真夏の海のコンブ漁から……」などと考えていた。
しかし、現地での海を売る話が急展開してきたため予定を早めざるを得なかった。
東京でつかめる範囲での原子力船のうごきは、当の中川一郎の首吊りもあってか、停滞しているように見えた。だが、調査の受け入れという第一関門をパスした原子力船研究開発事業団は、その後交渉の窓口を組合の三十五人委員会とし、はじめの補償金額六億二千万円から一段とかさ上げし、八三年五月二十日を期して一気につめに入ろうとしていた。
急展開とは青森県当局のじきじきの介入がはじまったことを意味する。「むつ」問題がこじれた七四年以来、交渉の当事者能力に欠けると誰の目にも明らかな原子力船研究開発事業団に代り、科按庁の意向にそっての県の登場である。そしてその第一回の仲介交渉は、「徹夜してもこの一夜のうちに決めたい」という県当局の意向から、浅虫温泉の一ホテルを借りきって雪隠づめで進められよう、というものだった。すでに事業団が二回目として呈示していた九億四千万円を、つたえられるように十五億円にして、もはや有無を言わせぬという高飛車な態度で出てくることが予想された。
さらに、その背景と現地事情を詳報してくれたのは、関根より帰京したばかりの後藤孝典氏(水俣事件・川本裁判の主任弁護人)たった。「むつ」のタイムースケジュールから言えば、八六年度には関根浜新母港につながれなければならず、そのためには八三年九月には工事が着工されねばならない。面倒なことに、むつ市の市長は「むつ」問題ではきわめて慎重な人として知られる菊池決治氏である。その市議会の公有水面埋立ての免許議決に必要な手続きの日数から逆算すると、「漁業権の消滅」を議題とする臨時総会は、六月中旬頃までに開かれねばならない。つまり、のちにのべる五者協定のタイムリミっトから、いやおうなく迫られたスケジュールなのであった。
「むつ」の軌跡は、つねに時限をふみ外し、後手後手に収拾を急いだ、その場当りの小史である。今回もまさにその通りだった。
松橋一族
初めて浅虫温泉のホテルで取材開始した五月二十日、三十五人の関根浜漁協の交渉委員、原子力船研究開発事業団(以下原船事業団という)井上啓次郎理事長、北村正哉青森県知事、それに、不承不承形式的に立会いを求められたむつ市長の顔がそこにあったが、「五者協定」の残る二者”県漁連の顔はなかった。そのホテルには、公式の記者会見のときを除いて、記者の立ち入りは禁止されてした。私たちは、その取材協定も知らず、常時ロビーで待機していたが、秘密・非公開の気配が濃かった。
深夜十二時近く松橋幸蔵、幸四郎氏(ともに勇蔵の兄弟)らが怒気を帯びて退場した。
「十五億円の補償うんぬんより、現地の実情を何ひとつ知らずに、なんで今夜中に話をつけようと迫るのか」。ふたりはもはや居るだけで不利だという防御の身がまえでコチコチだった。県当局のよぶハイヤーを断り、早々タクシーで浜に帰り、あとに苦虫をかみつぶしたような県水産部の部課員が残った。泊るほかない関根浜漁協の交渉委員は酒気を帯びながら、「時間が切迫しているのでよろしくといわれても、おれたちにゃ関係ねえことだべ」とぼやいていた。
この日から、私たち青林舎の映画スタッフは、関根の松橋商店漁業部(以下松橋漁業部とよぶ)の番屋の二階に、勇蔵氏と寝泊りを共にし、取材を続けるのだが、ここで、松橋一族のことに触れておきたい。この人たち抜きに関根は語れないからだ。
関根での手がたい反対派は、松橋一族とその漁業部、および底建て網研究会(専業漁民による底建て網の技術交流の組織、会員二十名余り)を母胎とする五十人ほどの「関根浜海を守る会」である。
松橋幸四郎氏(五〇)は、底建て網研究会の創立者であり、「海を守る会」のリーダーでもある。”本家”松橋漁業部の三男でもあり、ふたつのダループをつなぐ得がたい人物である。
松橋漁業部の”大将”幸蔵氏(五七)は、隠居した亀蔵さん(八六)からそっくり網をあずけられてから二十年になる。青森県で最大規模の大謀網を一ヶ統と小型定置網四~五″統をもち、従業員三十二名、”地場産業”とみても浜随一である。三人の息子をすべて漁師に育てた。新定係港予定地七十ヘクタールの水面に小型定置三ヶ統を現に入れている。その水揚げ高、八二年度三億三千万円、主力はサケである。
その漁業部の帳場をあずかるのが二番目の兄、幸次郎氏(五五)。旧制田名部中学の出身で、「むつ」問題についても広く勉強している。「海を守る会」のまとめ役であ
り、取打者に対するスポークスマンも兼ねている。ただ、息子、娘ともに県の水産試験所や青森市役所につとめさせており、自分の活動ゆえに彼らにとばっちりがいくのを案じていた。四番目の徳蔵氏も、製材の傍らツブ龍漁をしており、全兄弟根っからの漁民であった。いねば遊民は末っ子勇蔵ただひとりである。
映画のロヶ八ヶ月の間に、海は売られた。話は一挙にとぶが、この間、「海を守る会」は脱落者があいつぎ、残るのは松橋一族だけとなったのである。
今、幸次郎氏は水産庁に行政不服を、幸四郎氏はたったひとりの原告として事業団を相手どり、埋め立ての差止め請求を青森地方裁判所に申し立てている(ともにその法定代理人は後藤孝典氏ら)。いずれも漁業権消滅をみとめない立場で争おうとしている。村八分というより九分に近い孤立である。
「外洋に母港を!」
「むつ問題」が浜関根にはりついてからの三年、松橋勇蔵は生地に住民票を移し、関根の情報を公演のつど訴え、全国の知人に伝えてきた。
むつ市にも「むつ」問題では歴戦の人士がいる。青森、八戸、三沢の各市の住民運動者の間を勇蔵は走りまわった。関根の反対派の事となると、どうしても自分の一族の動向をのべることになる。具体的で生なましいが、彼のあけすけなぶちまけ話は人びとをひきつける、説得力をもった。
八二年四月の中川長官の関根訪問時には、各地から五〇〇人の労組・市民グループを関根にあつめた。地元漁民五十余名もシュプレヒコールで「中川長官帰れ/」と叫び、浜から北関根(本村)までニキロメートルのデモを行った。それは、浜でははじめてのことだった。しかし、中川は訪問の成功をうそぶいていた。
その夏、イベント「下北半島祭」が開催された。中村亮嗣氏(岩波新書『ぼくの町に原子力船がきた』の著者)をはじめ、むつの市民グループ、八戸・三沢の仲間、むつ地区労を母体とする「原船・原発反対現地闘争本部」は横ならびの共同行動をとり、三日開延二千人、むつ市では、いままでもてなかった質のひらかれた市民の祭となった。
菊池市長があいさつに立ち、セント・ルイス、三輪完児らが会をもりあげ、高木仁三郎(プルトニウム研究会)水口憲哉(東京水産犬)槌田敦(理化学研究所)保坂展人(育生舎)らがシンポジウムにつどい、また、各地のむらの講習会に散った。
八月三十日、科技庁、原船事業団、青森県、県漁連、それにむつ市を加えた「五者協定」が調印された。「むつ」の大湊への再入港にあますところ一週間足らず、ぎりぎりにすべりこんだ合意書である。その骨子は、
①関根新母港の速やかな建設と地元三者の協力。
②「むつ」は原子炉凍結状態で大湊港に入港。
③「むつ」は新定係港の供用開始(八六年九月予定)をまって回送。その間原子炉は凍結状態で大湊港に停泊するが、補助エンジンによる航行は妨げない。
④「むつ」は大湊港の定係港に停泊の間、地元三者の同意がない限り、原子炉の凍 結は変更されない。
この第④項は今日、地元三者(県・市・県漁連)の同意があれば、原子炉は動かせるという弁法を生むことともなった。
この五者協定のうたう新母港供用開始のタイミングを「八六年九月」としたのには、さしせまっての技術問題がからんでいるらしい。
「……原子炉内での核分裂の主役となる中性子源の効力が昭和六一年(八六年)ごろに極端に落ちる」(八二・八・三一読売)「……むつでは被覆管の材料としてステンレス鋼を使っているが、最近の原子力発電所では高温に耐えられるよう、ジルコニウムとスズなどの合金・ジルカロイを使うのが常識」(八二・八・二五朝日)「むつ」の燃料棒は八六年九月段階に、はたして老廃化をまぬがれ、曲りなりにも実験できるかどうか。それすら疑問視されているのである。
八二年から八三年にかけて、岩盤、波浪、風力の調査が進められた。予定地に鉄塔が立った。海にはコッブ礁をよぎってケーブルがひかれた。何よりも「むつ」の「スケジュール」が先行し、既成事実がめだたぬようにつみ重ねられてきた。
調査受入れと同時に、その迷惑料が全組合員に配分された。
松橋漁業部の番屋の中村さんは、網の責任者であっても風間浦村の住民で、ここの漁協の組合員でないため客観的に物ごとをみてした。
「いつ頃からずるずると『むつ』 に引きこまれたかって? それは、まずそもそも調査を引きうけねばよかったべし。あんときは賛成・反対と半々だった。あんときピシャ″と断ればこんな面倒にはならなかった」。この「時点」を指摘する人は二、三にとどまらなかった。
はじめてのケースということもあって、迷惑料千二百万円は均等配分にしたという。
この一見公平にみえる均等配分は、のちに補償金額の呈示がある度に、それを正・準組合員の頭数で割ってみるという期待のもたせ方をあとに残したようだ。
八二年五月、五者協定に先立って、関根浜では、補償交渉受け入れの総会を開いた。
受け入れの諾否は過半数をこえれば足りた。しかしこの賛否の数字は、次に通過せねばならぬ漁業権消滅の際の反対の帰趨を占うものであった。この時、正組合員による総投票数百九十八票中、反対は七十票であった。この七十票は、のちに、あらゆる機会ごとにその数が微増こそすれ、減ることはなかった。つまり、この七十票は関根の 「むつ」母港反対の岩盤のような票であり、漁業専門の生活者の実数なのである。
「なぜ、むつの母港としてこの浜関根が選ばれたのでしようね」と話好きの幸次郎氏に聞いた。彼は、漁業部の帳場や荷捌きの仕事が終ると番屋で必ず一ぱい飲む。
「むつを青森にひっぱりこんだのは自民党の県連や自民党選出議員連中じゃないんですかね。本来『四者協定』を守っていたなら青森県にはとっくのむかしに『むつ』は居ないはずでしょう。その約束を一目でも破ったら白黒はっきりさせるべきだったんです。それを今日まで引きのばして。青森県で引きうける……当時のむつ市長河野幸蔵さんの面子をたてる……じゃ、むつ市のどこに置くといえば、むつ湾の衆は承知するわけはないし。あと残るところはむつ市の津軽海峡側のここしかないわけでしょう。欲と面子のからみあいでここに決った。県自民党と県知事の方がせっついたのかも知れないと思っていますよ」(注一七四年十月十四日、県、市、国と漁連のむすんだ協定は、七五年四月十三日までに新母港を決定し、その二年後、七七年四月までに大湊母港を撤去するというもの。これには当事者能力を欠くとして原子力船研究開発事業団は加えられていない)。
大筋ではこれに賛成だが、私には県漁連の動向がやはり残る。「外洋に母港を!」と彼らが言いはじめたとき、関係者の視線を暗々裡に関根浜に誘導してしまったのではないだろうか。
「むつ」を一旦追い出すことをきめた七四年当時、むつ湾漁民の間ではすでにホタテで年間百億円の水揚げ高も夢ではなくなっていた。宿命的な出かせぎも返上できつつあった。考えてみれば、七三年五月にはじまった第三有明海水俣病以後、全国的な魚汚染の総点検のなかで、厚生省はアジを一週間に何匹といった指針を出すほどに神経質であった。外洋から入る回游魚ですら微量のその毒性を濃縮し汚染されているのに、内海で定置性のホタテ養殖にとって、たとえ安全基準以下のごく微量といえ、放射能汚染は恐慌にあたいしたであろう。
「むつ湾から出ていけ」という声の下から「外洋ならともかく、この湾内ではまっぴらだ」という言葉が継ぎやすい。しかし、この湾内漁民エゴイズムの貫徹が、「むつ」を漂流に追いやり、その後、良くも悪くも「むつ」を焦点の船にした。
だが、外洋の関根に転じたらそれですむのか。幸四郎氏は酔うとそのことにくどくなる。
「おかししですよ、青森県漁連は。私だって県漁連のひとりですよ。私たちの上部組織のはずですよ。自分たちのところで悪いものがどうして関根では良いんですか。これは裏切りですよ。〈危険なものはどっか田舎へもってけ〉という東京の人と変わらんじゃないですか。危険なものと分ってるので反対したのなら、いまの関根にも反対すべきですよ」
じりじりと組合総会の迫る頃、不同意反対派への切りくずしや”説得犬があの筋この筋から松橋漁業部にきていた。ある県漁連の幹部が、「定置網には特別の補償金の枠を出すよう県に仲介する」と言ったとかいう話も流れた。また、”大将”に青森市に来てほしいという県漁連からの連絡もしきりだったらしい。そうした電話をかわすためか、幸蔵氏は、若し船長の息子にうとまれながらも、網揚げにつきっきりで、沖で時をすごしていた。
浜関根
下北半島の漁村を見るとき、一漁協がひとつの村-と見た方が理解しやすい。廃藩置県前の南部藩の領地として下北を見、津軽藩の領地として青森、弘前、津軽半島を見た方が青森県を理解しやすいように、である。
戦後、四年たって新漁業法が制定され、旧網元の網代の形での浜支配を一旦、国に帰属させ、改めて漁協の自主的な管理にゆだね、各漁協間の操業については県知事を頭とする漁業海区調整委員会でご父通整理”する、という制度にとってかわらせた。
これを機にと、「一町村・一漁協」のあり方が奨励されたにもかかわらず、下北ではなかなかそうはいかなかった。たとえば、風間浦は行政として旧三村は合併したが漁協はそのまま三つに分れたままである。
関根漁協は、六五年(昭和四十年)に川代漁協と統一した。そこの組合長だった西口才太郎氏が新漁協の組合長となった。だが、やはりふたつのムラが残存していると見た方が分りやすい。そしていまひとつ、半農と半漁がそれぞれに分れた戦後三十数年の歴史も見ないわけにはいかない。
土地の人びとは浜関根と呼ぶ。下北地方には、浜とか納屋とかつく海ぞいの地名が多い。そこは決まって「やませ」の強い砂丘や砂浜地帯で、一、ニキロの天然・人工の防風林をへだてて本村があるところが共通している。夏場、コソブ採り・地曳あみ・季節の定置網の網おこしなどに浜に小屋(納屋)をたてて船具・網・釣具・ほこを収め、自分も仮泊して半漁の生活をすごすが、半農が基礎であり、暮しは本村においている。浜とは、村からみて共有「入会いのある浜」の謂のようだ。
この無人の浜に、明治三八年、八戸から漁師としてここにはじめて人家を建てたのが、松橋勇蔵の祖父であった。そのあとつぎ亀蔵氏に連れ添った母ミキの一生を彼は一人芝居『人生一発勝負』に、また祖父からの三代の歴史を『百年語り』に、リアルに語り込んでいる。やがて、一戸、二戸と、関根本村からの次男三男が浜に移りすみ、商ト店もでき、やしろもでき、今日集落の形をなしてはきたが、今も古くからのムラのもつ全体性はない。
電話帳をしらべると、移住民である松橋姓は十戸、すべて浜にある。本村の旧家、村中姓(十五戸)杉山姓(十三戸)山崎姓(八戸)は分家をそれぞれ十一戸、六戸、四戸と浜に移している。そのため、浜関根の多くの人にとって、本家とお先組様の筋は直線的に北関根につながる。
この全関根地区のなかで、漁業者としても企業家としても成功した松橋一族は、百年近い年月をへた今日もなお、事の荒だつ時には”よそもの”のあっかいを受けるようだ。海難事故の救助についての掟ては厳しいはずだが、亀蔵老人によれば、「松橋のとこが水舟になっても加勢すな」と村八分にされることしばしばだったという。
八戸出身の流れものと見るとき、松橋一族のありようは、同じ網元といっても旧い漁村の網元制度とそのなかみの違いを感じる。一面近代的なのだ。
北海道のヤン衆(季節労働者)と同じだろうかと勝手に思うが、父の代には川崎船(てこぎの網船)の”人夫”は離れたムラから雇い入れたという。つまり、地元のものは、なにか事おこれば地元だけで結束する。そのそねみやねたみを避けたかったからに違いない。そのパターンはいまも見えがくれするようだ。いま三十数名の雇用者は、数名の肉親、親族のほかに、地元の人も多いが、ムラを母胎とした集団ではなく、ひとえに歩方(歩合)の優遇によって人をひきつけている。盛漁期以外にも仕事をつくって通年雇傭し、月給制をペースにした上で、毎年一月の決算時に歩方をつける。経営上の一定の「基準水揚」(八三年度は総水揚三億数千万円のうち一億六千万円相当)を超えて稼ぎだした一億数千万円の三十五%を歩方として配分している(業界の指導は二十八%という)。このことが近代的体質をうんでいるし、網子と網元の契約上のきずなともなっている。よそものゆえにあみだした方法といえるだろう。年収五百万円以上二人、若い人で最低三百四、五十万円、見習トでも一日一万円保障している。「都会よりよかっぺ」と若い人がこともなげにいうのもうなずげる。
親方はワンマンだが、算盤が各自はじけるように、毎月の収益を公開している。地縁も血縁もなしだけに、生活の糧、つまり金銭をベースにしている。それだけに、ここへの攻撃は、この共同体の経済基盤、つまり収入・水揚げをおびやかせばよい。
漁業権消滅に一気に走る組合長と理事会多数派に反抗して、百二名にのぼる反対派の署名あつめに走りまわった幸蔵氏に対して、県と組合長は交々入れかわって、彼の定置網七″統中、二、三ヶ統が”違法”だ、免許の更新はみとめないとにおわせた。
まずいことに、八三年八月三一日は、十年に一度の知事による認可の更新の年にあたっていた。その”違法八分の網を揚げれば二、三割は確実に減収する。とくに「はしり」といわれる味のよし盆あけからのサケは予定地域の陸ぞいに入ってくるのだ。
「しかしだ……」と兄おもいの弟幸四郎はかばう。「底建て網だって四ヶ統の許可をもらって、十ヶ統ぐらいやってますよ。青森のどの定置網業者が十年間一つの網もふやさずにやってられますか。もし、本気で本家(松橋漁業部)の網を摘発するのであれば、青森県全体の網を摘発しなきゃならなくなりますよ。やってみるがいい。それこそ青森県全部の定置と底建てを敵にまわすことになりますよ。それこそ、海を売らせるためだと知れたら皆怒り出しますよ」と笑い飛ばしていた。
底建て漁民
かつて、むつ湾でホタテ養殖の成功が出稼ぎ漁業者を地元の海にひきもどしたよう
に、ここでも底建て網の普及が出稼ぎの足をとめていた。戦前には北海道のニシン場へ、今日ではサケの大型定置にと北にむかって出稼ぎにいく。関東方面に出るのは、漁やすみの冬場だけだ。幸四郎氏も例外ではなかった。
この海峡は、中央海溝こそ深いが、浜から十数キロさきまで遠浅の海である。海底には砂地と岩礁が程良くある。そのため、深海の底接魚、たとえば、アンコウが四月頃には産卵に上ってくる。ヒラメが真冬だけ深みに去るほか、いつも陸に近づく。春からはアメマス、マス、イワシ、サバ、夏・秋はヤリイカ、イナダ、そして秋から正月にかけてサケが群泳してくる。ときにマグロが入る。キロー万円、一匹で二百万円もする宝魚である。タコは特に多い。それに、ウ二、アワビがコンブ礁につく。そして昆布は、「セキネコンブ」の銘柄品である。身がぶ厚く、鍋物のダシをとったあと煮付けてほどよく味がしみるので、二度役に立つという。
幸四郎氏が底建て網を津軽の日本海側の鯵ケ沢から導入したのは、十年あまり前だった。高さ四、五メートルの三十メートル四方ぐらいの坪に、九十メートルものびた垣網が魚を誘う。これは表層魚ではなく、もっぱら底棲魚をとる。その最たるものがヒラメ、イカ、タコ、サバ、マスなどだ。ときにサケも入る。
この漁法の良さは、専用船さえもてば、網おこしのほとんどがへさきととものローラーの働きですむ。底からたぐった網の底をほどき、獲物をとりだし、また沈めればよい。人手として妻の手があればそれにこしたことはないが、熟練すればひとりで足りる。一網分のおこしに二十分ほど、一隻で一目十夕統ぐらいはこなせる。これによって、生活は向上した。水揚げ平均二千万円は揚げるという。漁民にとって、新規な漁法をとり入れるには勇気がいった。
「最後はなげてしまうことになりゃせんかとこわごわ手を出したなあ」と三年目になる新参の底建て網の漁民は言う。「中古の船五百万円、中古の網一グ統三十万円。
ううん、もちろん組合は近代化資金なんかの枠はないし、とってもくれん。銀行で借りてやった。その代り皆で研究したり、教えてもらったり……。みんな少しずつ楽になって、こりゃいいつうところに突然むつが来たのさ」
この組合には、荷捌き所も、まして冷蔵、冷凍庫もない。信用事業もやっていないし、もっぱら手数料で成り立つ。幸蔵氏の網漁の出荷先は青森中央市場か八戸のミール加工場だが、口銭は組合にもどってくることになっている。
さて、底建て網のうまみは、料亭用の高級魚ヒラメが、岸壁までくる活魚専用トラック業者に活魚値段で引きとられることだ。それ以外の雑魚・イカータコはむつ市の仲買いに運ぶ。そして手数料を組合に払うことになっている。だが、実質的に何もしない(タコとコンブのみ扱うが)にひとしい組合では、年間水揚げ高を正確にははじき出せない。定置網をのぞき推定年間二億円とも六億円とも言う。
底建て網漁民に組合の恩恵は薄い。北関根本村の老いた教育委員や農業者のサロンのような理事会の面々の推進する「むつ」受け入れに猛然と反対したのも、この底建て網漁民たちだった。この専業漁民たちは、ようやく活気を見せてきただけに、漁場を狭められたり、全長千五百メートルの沖出し大堤防で魚道が変ることを恐れるのは定置網業者と全く同じだった。ただ悩みは、いまでさえ仲間の網がふえて漁場が狭くなり、他漁協のイカ漁の都合から公海沖出しは制限され、しかも、そこでの漁期は二月から六月ときめられていたことだ。せめて十月から操業できれば、イカ、サケが期待できる。県水産課は、その悩みを弱みとして掴んでいた。
浅虫温泉の県の第一回介入交渉の失敗のあと、組合への呈示額が、「これを最終とする」と厳しい言い渡しの口調で「補償額十八億円、漁業振興対策費五億円、計二十三億円」と、北村知事から告げられたのは、八三年五月三十一目であった。それは、第一回回答の六億二千万円に比べれば約三倍になる。
だが、もともとの漁獲収入も明確でない段階でピックアップした四十二名の漁種別サンプリングていどの調査で推算した額だった。
しかも計算の厄介なことに、港そのものの専有面積は七十ヘクタールだが、その外縁五十メートルの影響を与える外郭区域の面積は更に七十五ヘクタールといわれる。関根浜漁協のもつ共同漁業権設定区域は千六百十六ヘクタールであり、港だけなら総面積の四・三%だが、港によってその外郭部で影響をうける漁場の七十五ヘクタールを加えれば八%をこえる。原船事業団の計算基準によれば、消失面積は四・三%の方を、つまり、補償金として少額となる方だけをとっているようだ。
こうしたいい加減な交渉経過などに腹を立てて、組合員のひとりが組合長を非難したとき、組合長は即座に「こういう間の抜けた組合だからこそ、おめえらも勝手に海が使えたでねえか!」これには思わずふき出したが、いかにも村夫子然としたこの西口才太郎氏の機智のうらには、組合長に密着して”行政指導”を怠らない青森県水産部員の入れ智慧と想定問答集がなかったとはいえない。
「わしの底建てには違法な網も入っとるんだよ。それをネチネチやられるしなあ」と中年の新参底建て漁民は言う。 いまひとつ漁協のもちまえのルーズさを意識的に利用して、海盗りを容易にする工作がしくまれた。それは、準組合員の正組合員への昇格である。八十二年春、三十九名の正組合員加入がそれである。中に公務員二名、老婆一名といつたあきらかに「九十日操業のものを正組合員とする」という組合の定款を無視した取扱いである。言うまでもなく、彼らは全員賛成派である。いくばくかの加入費をはらって正会員となり、賛成派として議決に加わり、その代償として補償金の有利な分配にあづかることを約束された、いわば分母拡大人員である。反対派の固定票を七十名前後とすれば、二百十名弱では、漁業権売りわたしに必要な三分の二以上の同意は極めてあやうい。そのため、あらかじめ賛成のものを加え、ボーダラインの安定を計ったのだ。
こうした例は、同様の漁業権消滅の問題をかかえる各地の漁協でも、しばしば仕組まれてきたものだ。たとえば、長崎県上五島の洋上備蓄をめぐる動きの中で、正組合員が一挙に三倍近くに水増しされた例がその典型であろう。車椅子の身障者、公務員、一家のうちの老人まで賛成用の”正組員に動員された結果である。そして反対分子は、その水増し分を分母とする正組合員の賛成派に民主的に多数決で圧倒され、漁業権の放棄を決めた。が、今日、長崎地裁でその当否が争われている。
こうしたお膳だてを経るに至るあいだに、関根漁協の場合にも無理をまげてのこの措置に公然と反対する動きはなかった。むらの意識がボスたちによって逆利用されたのである。これは、海盗りのテクニ″クの第一ステップであった。
臨時総会流会
八三年六月コー日、漁業権売りわたしの臨時総会が聞かれた。この日が底建て漁民
の最後の健闘の日となった。
この総会の議事進行予定は奇妙だった。第一号議案に、過半数の賛成で足りる「漁業補償金十八億円、漁業振興対策費五億円受諾の件」案とある。そして、第二号から四号議案が問題の特別決議事項である。すなわち、「①新定係港のために、共同漁業権及び区劃漁業権(注―コンブ、ワカメなど)の一部(注-七十ヘクタールのこと)を放棄する、②区劃漁業行使規則(注I漁場使用の組合内部のとりきめ)の廃止、③公有水面埋め立てへの同意」-これらは三分の二以上の同意がいる。しかも、これは漁民にとって死活の問題であるため、「総会以前に書面による同意書(捺印)」が必要であると法で決められている。つまり、口頭の同意や挙手では済まないのだ。下北・六ヶ所村で海を盗りまくった青森県当局が、こんな初歩的なミスをおかすはずはない。すべて故意である。
まず、第一号議案で金をうけとることをきめる。これは過半数で問題はない。補償金をきめればあとは一気に漁業権放棄に必要な三分の二の同意の雰囲気にもちこめるだろうとふんだのだ。
この前日から後藤孝典弁護士と一部の底立て漁民の間で、漁業法の学習がひそかに行われていた。漁業権放棄に必要な事前の同意書があつめられていないことが、漁業法第八条三項・五項にてらし違法であること、その一点だけでもこの総会は成立しない、つまり流会せざるを得ない。その指摘ほど漁民を勇気づけるものはなかった。
総会は冒頭から、耳なれぬ「第八条、第三項、第五項違反」の声で混乱した。西口組合長は、「挙手多数」又は、「投票によって……」と、一気にムードで押し流すことを考えてしたに違いなく、また従来までの総会ではこのような特別重要議案ですら、慣行的にそのような形ですませてきたのであろう。彼はたちまちに立ち往生をした。だが、この違反の指摘に裏で糸をひいた県水産部は知らなかったでは通らないと顔色を失ったであろう。
組合長はそれでも、第一号議案の「補償金の受諾」(過半数)だけは通しておきたいと躍起になった。その効能はあとで利くと確信していたようだ。だが、このトリックは言わずかたらずの間に見破られていた。「海を守る会」の幸次郎氏にその矛盾をつかれて議長は飛び上るような勢いで「流会宣言」をしたのだった。
本来、総会場は外部と遮断して開かれるものだが、幸い集会場の台所からその喜劇を写すことができた。それほど牧歌的な組合の体質でもあったのだ。
切り崩し
県と組合執行部が態勢をたてなおし、次の臨時総会にもちこむまでに、以後、延々六十五日を要した。その間、組合員三百六十七名、うち区劃漁業権をもつ四十二名のそれぞれ三分の二以上の同意書をとらなければならなかったからだ。区劃漁業権者のうちの反対者は底建て網グループだった。浜の分家は、本村の本家からつつかれたようだ。
「賛成すれば最低均等割分三百万円はもらってやる」というのが同意書とりつけのことばの核心である。これに彼らが信をおける気がしたのは、かつて調査受け入れの際の「迷惑料」千二百万円がそのように割られた実績があったからである。「ここでは一年に二百万円あれば暮らせる」という浜暮らしであれば、「耕耘機一台分になれば」とか「車の買いかえの頃合いだから助かる」といった話も聞こえた。だが、年間二千万円の水揚げに手の届いた底建て漁民を説得するのはむつかしかった。
県水産部は、ついにそのもつ権限を行使した。すなわち、底建て漁民のかねてからの悩みにもとづく要望事項に認可を与える。その代り同意書を出せ、という露骨な利益誘導にふみきったのである。「確認書」問題がそれである。
①従来二月から六月だった共同漁業権外、つまり公海での漁期を十月からにする。
②統数の倍増をみとめる。そのため隣接組合に計り公海上での操業、つまり沖出しに便宜を与える。
以上いずれも県水産部のみが許認可の権限をもつものであった。
もともと右の要望をおさえていた理由は、十月からではイカはともかくサケが入る。
それは、県水産部が六十年までをノドに進めている「サケ(フ化)倍増計画」の妨げになるというものであり、②については近隣の漁協から、「イカの魚道にさしさわりがある」と文句がでていたためだ。
そこで、大畑町出身の自民党県議ら二人を仲介役にして、底建て漁民に対する説得をまかせた。
「いよう、ねばっているそうじゃないか、ところでこどもはどうしとるかの」と肩をたたかれて、そのままロをふさいだ底建ての中心メンバーもいた。県議の親戚を妻にしていたのだ。
この底建てのグループまるごとの説得工作から松橋幸四郎氏は当然除外された。グループも彼の眼を逃れて県議の元にあつまった。幸四郎は、自分のつくった底建て研究会に脱会届を出して抗議したが、むだだった。ついにほぼ全員、同意書を出した。
県は、確認書起草の段階で、「その実現のための努力は、漁業権消滅の日からなされる」の一行をつけ加えた。総会で、無記名をよいことに反対し、もし漁業権がのこったら、何の便宜も白紙にする、というだめ押しの一行であった。
この屈辱的なあしらいにさらに加えて、覚書きとして、
①底建て網にサケが入った場合、放尾する。もしこの約束をたがえた場合、新たな権利は直ちに消滅する。
②仲合での操業上、他漁協との間にトラブルの起きないよう、船体中央に赤ペンキで目印をつける、などである。
誰が網の中に一旦入って弱ったサケをむざむざ放つであろうか。この約束はすべて他漁協むけの放送台本でしかない。そして船は、兇状もちの入墨のように赤く汚されることになった。
六ヶ所村
秋になって、底建て網は豊漁の記録をつくった。彼らの予想通り、新たな魚道や生息地にあたったのだ。その喜びに異議はなかった。ただ幸四郎氏は不気嫌で悲しげであった。
私たちがこの映画に『海盗り』と名づけたのはこれらの権力の所業を大書したかったからだ。ならば、こちらからも『海をとり返す』ことで報復するしかない。盗りつ盗られつでもして漁民の根性を見せてもらいたいものだ、と思う。
海をとり返す話は腹いせ話としてはいつもでた。たとえば、予定の海域に底建て網を入れようといった風に。しかし、県の予防策は法的罰則をたてにその動きを止めた。ならば下北半島に、関根浜にとっての教えとなるような教訓はないであろうか。
浜関根を映画の中心に据えながら、私たちは過去に海をとられた半農半漁の六ケ所村住民や、射撃場のため海岸線十四キロをすべて失った東通材猿グ森の老漁民をたずねだりした。更に、これから海を盗られる大間町の新型転換炉立地点の漁民にもインタビューを試みた。どこも同じ名目と手口でやられている。それでいて「経験交流」はまったくないのだ。そのことが地の果てのなかみなのだと思った。
たとえば海を射撃場に売った老人は、「この猿夕森ほどの適地はない。十四キロものまっすぐな砂浜、小屋はあっても人は住んどらんし。それを防衛庁のひとや村長が来て二度三度頭を下げられて……。誰、か支援に来たかって? こんなところ、共産党も、社会党もくるもんかな。地の果てじゃに。そうさ、あんときから、たずねて話をきいてくれたのは、あんたらが初めてじや」あんときとは昭和三十四年のことだ。ここが内灘射撃場のその後の地であったのだ。
話はさかのぼるが、一丸七二年頃、私は村長に招かれて六ヶ所村の集落ごとに『水俣-患者さんとその世界』を上映してまわったことがある。当時「むつ小川原巨大開発の是非をめぐって、六ヶ所村は推進派と反対派とて二分されていた。その渦中にあった村長、寺下力三郎氏は若い頃、奇しくも朝鮮・興南に建設された朝鮮窒素(水俣病をひきおこしたチッソ会社の前身、日本窒素株式会社の分身)に試験係としてつとめたことがあった。
「現地の朝鮮人はみな牛馬あつかいだった。大企業と現地の人がとけあって暮すなどということは、朝鮮窒素をみた私には信じられない。必ず植民地にされる。中央政治と巨大企業にくいものにされて、村は滅びる」と彼は見ていたようだ。その青春時代の体験は強烈だったに違いない。興南にあった平和な漁家集落の暮しは、日本人警官のサトペルの威圧のもとにつぶされた。(その詳細は水俣病第一次裁判の際、旧工場従業員によってバクロされた)
六ケ所村での私の見聞は、当時わずかなものでしかなかったが、その海の豊かさはいまも記憶に新しい。
たまたま一月八日、私は白糠の浜でアワビの解禁日にでくわして、カメラマン大津幸四郎とその模様を撮った。そこには、自然をまもる浜びとの習俗がその漁法に生きているものだった。磯舟から十メートルほどの長さの鉾を手に、磯かげのアワビを突く。そしてその長さの届く限りをとりつくすが、それ以上の深みには進まない。次の年アワビがその深みから陸に上ってくる。決められた深さまでのアワビをとったら、そこで鉾をおさめる。これなら、資源の涸渇はあり得ない。
その磯の岩はひき汐で露頭していた。そこに黒い貝が密生していた。二枚貝がところせましとくっつきあって、とがった貝のジュウタソのよう。私たちはそこでたき火をし、口を開けた貝の身をせせって食べた。岩の上にカモがむれ、猟銃でしとめたその羽毛を浜でむしって家にもちかえる人の姿があった。
おっかあが、アワビのむき身を股間にあてて、「おらのーだ」とエロテックに身をよじってまわりの女、子どもを笑わせている。私は、そこに質撲さと健やかさ、荒さのなかで息づく生を見つめて息をのんだ。
浜と人のむすびつき、海とむらの生活のつながりをそのアワビ漁に見てあきることはなかった。
この海がその後十数年へた今日、下北半島、太平洋岸のいたるところで盗りまくられ、立入禁止となっていた。人の入れるところはむらの船だまりや漁港の周辺と人家の並ぶ陸の地先だけといえた。
私は、いまは隠居ぐらしに近い前村長寺下力三郎氏に会った。尾駁沼のほとりで小さな商店をつづけている。「もし私か二十年遅く生まれていたら」と彼はいった。
「開発の話が私の五十代に出ていたら、私は気力、体力のすべてを燃やして体を張って阻止できたかもしれない。くち惜しいが、私は二十年早く生まれ、年の老いを感じた頃に開発が来た。私の力では、どうにも勝てなかった。もし、若いAがあらわれて、いまの下北のために闘ってくれるなら、下北はまだ生きのこれるかもしれない」とある感傷をこめて語られた。その面貌は青白く、風姿は枯れていたが、その語気には粘りがあった。
その彼の紹介で、私は鷹架沼の漁民、高田呉三郎氏を知った。寺下氏やのちにのべる新納屋の小泉金吾氏らと共に、漁業補償の不正、ひいては漁業権放棄の総会の無効を含む訴訟をうっている原告十二人のひとりである。彼は、漁協の理事の頃に勉強した漁業法、水産協同組合法の知識を武器に、「漁業権の放棄をみとめず、したがって補償金のうけとりも関知しない(供託のかたちで組合にあずけたまま)」という原則を立てて、その漁業権が百%消滅した鷹架沼でひとり堂々と漁をつづけていた。
鷹架沼漁民としては、単独の闘いであった。しかし、つっぱり一方の姿勢ではないようだった。自分の立場、意見を、県水産部や水産庁にも具申し、地元の警察署長に口出しせぬよう説得をつくし、考えられる限りの保身を策した上で、やすむことなく漁を続けてきた。そのしつこさが、彼を鍛えた。小難しい漁業法に通暁させることにもなった。その結論はいたって明快である。漁業権放棄にも補償金受理にもハッコをつかねばいい。村八分にされても、それをまもりぬけばいいということにつきた。
ハンコさえつかねばいいんだ。魚をとる権利を売らねばいいんだ。これは水協法に保障された権利で、天皇陛下でもこれを奪うことはできねえ。みんなはハッコをついて金をうけとった。だから、いまは一年ごとの特別許可、いわばおめこぼしで漁をさせてもらっているが、おれは、唄かけて漁ができる。この沼はおれひとりの沼だちうところで、ガアハハ」と咲笑するのだった。柴東を沈めてえびをとる柴け漁や、ワカサギ漁をやり、陸にI・五ヘクタールの田畑をもち、半農半漁の生活を通している。彼の跡継ぎも、父親の頑固さをもてあまし気味のようだが、一家の柱として据え、暮しを太く立てていた。女房どのもまっすぐな微笑をたやさないひとであった。
海を盗るものと、海を奪り返すものの死闘の歳月があってのことであろう。私は六ヶ所村ではじめて「海とり」の男とてあえたのだ。
プルトニウム半島
ロケの後半に入って、私はセスナ機で半島を眺望した。地上で撮った風物、街、基地、射爆場、開拓地、廃村、原発予定地、そして国家石油備蓄基地などであるき機銃掃射や模擬弾投下訓練の浜に、ベトナムの戦跡のような光景がとらえられた。「下北は本土のなかの沖縄だ」というのは誇張ではなかった。そして売られてはいても海は蒼かった。
そもそもセスナ機で下北の上空を飛ぶのさえ、土曜日の十二時以降、口曜日のみで、ウイークディは禁止されていた。まず三沢、六ヶ所、泊射爆場、石油備蓄基地、大湊海上自衛隊のすべての上空は、実地戦闘飛行訓練のコースとして、管制されていた。
土・日は彼らの休日ゆえに禁止できなかっただけだ。そう思わせるほど、空からみる下北半島は満身創痍といえた。
東通村白糠には、計画時百十万キロワット用原発二十基分の規模の用地が水田のうねの形をのこしたまま荒れ果てていた。六ケ所村の鷹架沼、尾駁沼は低レベル廃棄物貯蔵用地との声がしきりに高ト。そこに無数の白鳥が飛来していた。新納屋の集落は、神社の社の近傍に数軒の人家をのこすのみである。
日本最初のプルトユウムを燃料の一部とする新型転換炉が奥戸の低い台地丘陵に立地されることに決り、風力調査のための百メートルをこえる鉄塔が占領の記念碑のようにつきささって空に向かっている。自由に翔ぶことを封じられた羽の上の毒ピンのように赤白まだらの塔だ。
そして大湊から北上して浜関根にむかうと下北半島マサカリ部の中で最も利用価値の高い台地がつづく。そこに関根浜になだらかにつらなって大利の浜とその後背地がある。東西に十キロ、南北に三キロの幅がある。核と軍事の見地に立つと未利用のままのこされた下北半島最後の台地状の原野部がそこだ。
三海峡の中で封鎖の最も容易な津軽海狭を思うとき、その海岸線最凹部の関根浜が軍事港湾として転用される可能性もなきにしもあらすだろう。
現に十月末、海を売ったあとの関根漁港に二十数人の高級・中級の自衛隊将校が双眼鏡を片手に、胸にさげた画板の上の地図と見比べながら、「むつ」母港予定地とその後背台地を望見しているのをこの眼で見ている。
ことし一月十七日の自民党科学技術部会の廃船論、母港建設中止の提言は、その後数日間、不用意とも思えるほど政府の下北観を率直に語らせた。「下北を原子力のメッカに」ということにつきる。それを私は「下北をプルトユウムのメッカ」と受けとる。
「むつ」定係港にかえ、あらたに核燃料パーク、或いは核燃料サイクルーシステムの専用港を関根に建設するという。「新港」とよばれるものがそれである。その芯はプルトユウムだ。①ウラン濃縮実証プラント、②民間による第二核再処理工場、③低レベル廃棄物貯蔵所-このトわゆる三点セットを関根にはりつけようとするものだ。一月二十三日の各紙は、自民党の有力筋の構想としてこれを伝えた。
トま落ち目のウラッ=軽水炉型のプロジェクトに何の魅力があろう。「むつ」の旧いタイプの原子炉をすでにチビた草履のように捨てようとしているのではないか。本命はプルトユウムの製造にある。八二年一月、通産省は電力業界のプルトニウム時代にそなえて「プルトユウムーサイクル委員会」を発足させた。
原子力政策を推進しようとする体制のプログラムは次のように思える。
「むつ」の不評を補い、国、県の失政の汚名を軌回するにあたり、片々たる関根の感情を無視さえできれば、最新のプルトニウム・サイクルをもちこむのが、ベストの選択であろう。それには人々の忘却時間を計り、地元固有のタイミングを掴むことだ。
そのためにも、青森県当局(自民党県連)との連帯をつよめ、間断ない利益を与えつづけることだろう(東北新幹線、青森新空港など)。
プルトユウム半島化の構想のさしあたっての持駒は大間町のATR(新型転換炉)を先行して建設すること、それが、燃料としてのプルトユウムを、その至近距離で生産する必要をうみ、ひいては動燃サしビス(民間)による第二再処理工場を、関根浜に牽引することになる。
このように関根(となりの東通村大利をふくめ)の台地の取得と「新港」の建設着工は、いま捨て駒に見えて、実は昭和六十年代に忽然と活きる、かくし”王手”に思えてならない。次の記事が思い出される-。
「電力業界では、①プルトユウム利用の本命である高速増殖炉の本格実用化が二〇一〇年以降にずれこむ見通しとなっている。②この間、原爆の材料になるプルトニウムを貯めすぎることは、米国の核不拡散政策との関連で政治的危険が大きいなどを理由に、プルトユウムを燃料にできるATRの建設意義を基本的に認める方向で一致した」(八二・五・二〇、朝日)
プルトユウムをめぐる核三点セットーその結合の条件がそろう地は、いま下北半島をおいてほかにないであろう。
まだ間に合う
ロケの終りに近く、私は六ケ所村新納屋の小泉金吾氏や小泉三郎氏たちを取材した。新納屋は古い開拓村である。一九七二年に開村百年の碑を鎮守の森に建立した。九十数戸を擁し、開発反対の結束が強かった部落だ。だが今日、彼ら三戸をのこして、土地はむつ小川原開発会社の手にわたった。最後まで残って、小泉金吾氏らと行動をともにしてきた三十数戸は、代替え耕作地のあっせんという対策に応じた形で、ついに守備を解き、土俵を割った。
新納屋の中心にある神社とその森は、むらが四十数戸に増えた時期に建立され、その土地は共有地とされた。四戸をのぞき、地権者は鎮守の森の売りわたしに同意した。
新納屋はむつ小川原港に隣接し、低レベル廃棄物や再処理工場用地にねらわれている区域である。そのためには全くきれいに人家をとり払い、除かなければならない。それには、四戸の反対派のもつ土地に加えて神社をも取りこわす必要があるのだ。
八三年になって、かつての仲間で移転を決めた人たちが、この鎮守の森を売って、その補償金数百万円で、せめて廃村式を盛大にやろうと小泉氏らにもちかけた。これには背後に県土地開発公社がついていることは明らかだった。彼らは激怒して断った。
「神社だけは……と思っていた。その話をかつての仲間から切り出させた。きたない。土地収用法をもってくるならきてみろ。閣議決定が果してできるのか……〈むつ小川原開発〉 は一企業でねえか。その点ではおれらの農業も同じ、五分と五分だべ。やれるものならやってもらうべし!」
激昂して語る小泉金吾氏を眼の前にして、私はしきりに、最後に追いつめられて闘いに決起した水俣病患者を思い出していた。
ともに、巨大な企業と国を相手に抗争して相果てることに決意した人の顔なのだ。ついにそれに愉快を発見した人間の輝度をもっているのだ。思想は、いやがうえに明快になり、その論旨は骨太になっている。そして情は人一倍こまやかだ。みずからの生きる価値を自分の闘いにどっしりとすえて動じなくなっているからでもあろう。
情は、家族に話し及ぶとその密度が分る。
さり気なく、長男が、この家で嫁をとり、孫をつくり、そして農業をひきついで、若いものなりの才覚と計画で生活をたてていることを、わきから黙ってみまもっていることを打ち明ける。
「いつもこんな調子で喋るんで、家のものは閉口しているが、わしは十五年間、同じことを喋ってきた。だから、家のものに事あらためて喋らねえでも、わしの気持はよく分っている。だから跡を継いでくれて、わしについてきてくれてるんだべ」とはにかむ。
二代目、三代目の家族を包んで、彼は闘いにある境地を開いてきた。これが一代限りの気持ちで、土地や海を売った人との決定的な差に思えるのだった。
下北半島には、まだ自然が残されている。六ヶ所村のいくつかの集落の荒廃の光景の中に自然がむらびとを恋い、むらびとに媚びるように野花をさかせている。進出企業の話の途断えたかわりに、海はまだのこされている。「まだ間に合うのでは」の思いしきりなのである。
八四年冬、下北は豪雪にみまわれた。醜い開発のつめあとも、純白の雪景色の中である。そして人々の暮しもまた雪の中である。
「雪がこんこんと降っています。その下に人間がすんでいるのです」
かつてよんだ山びこ学校の生徒のうたが思いだされてならなかった。