映画は若い運動である 「新日本文学」 6月号 新日本文学会
まだ頭の中でまとまっていない事を、軽々に喋らぬがいいと、今回の原稿依頼の際にも、思う。
編集部いわく「土本さん、あなたは自分のフィルムを映写中にとめて、解説するんですってね。”映画は上映のとき映画になる”ということですか?そのあたりを”表現と運動”というテーマで書いてもらいたい」のだそうだ。
誰がそんなことをいった?と聞いたら、八三年のAALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)文化会議で喋ったでしょうという。たしかに喋った。が整理された論ではない。
そのなかみはこうだった。
七七年、自作フィルム『水俣病・その二十年』ほかマンガ映画をかついで、スタッフ四人で四ケ月、不知火海沿岸をほぼバス停留所単位で上映してまわったことがある。内うちでは”巡海映画行動”とよんでいる。水俣の対岸・離島は水俣病のことはTVニュースでしか知らない。そこに映画で水俣病事件史や、水俣病そのものの特異な病像、自覚症状、そして現在の患者の闘いとこの地の人にとっていま何が問題かなどを知らせる上映の旅だった。
主力のフィルムは前出の四〇分のフィルムだが、水俣映画の入門篇ともいうもので、短小軽薄の気味がある。かりに『医学としての水俣病・三部作』を上映すればそれだけで四時間半かかる。そこでとくに重要な脳の病像や、胎児性水俣病の原因をフィルムをとめて補うべく喋った。水俣病の差別には誤った遺伝病視があるからとくにこの地の人にはその点をクリアにのべ勇気づけたかった。その手ごたえはたしかにあり、上映後、相談にくる人がいたのだったー。
こんな話なら、アジアの民衆の中で活動している作家たちにわかってもらえるだろうとの咄嗟の思いつきでのべたに過ぎない。
が事あらためて”運動論”や”表現論”として問い返されるといまいちど整理してみる必要を思う。たとえば、そのようなことを『わが映画発見の旅』(筑摩書房)に書いたら、ある映画批評家が「このような上映をひとが勝手にやったとしたら、怒髪天をつき、はらわたがにえくり返るような所業である。それを作家自身がやるのだから想像を絶する」とあった。これにはひっかかった。
たしかに恥かしいことである。映画は人手にわたってゆくものだ。フィルムが独りだちするその脚力で歩く。そうした完成度をもってはじめて作品といえるーこれが私をふくめ常識であり通念だからだ。補うのは不完全であり、自信がないからだともいえる。その通りなのだ。私は自信のもてない質の作家であり、だから記録映画にむいていると最近思っている。そしてそれは弱点である。だが、この私の弱点ゆえに、観客とのつながりへのハングリーな思いが持続しているのだ。
私の修業時代にめぐりあったカメラマンや構成編集者たちは完全主義者であった。画面決定に一日迷いぬくカメラ、あるいは何分の一秒の間のとり方に集中力をつかう編集。それを徒弟としていかに盗むか、じっと観察したものだ(一九五〇年代後半である)。
別のプロ編集者は、「一旦棄てたカットは二度と手にしてはならぬ」と教えていた。それほどに煮つまってからカットを選べということだ。恐ろしい話だと思った。その点、羽仁進氏は自由なひとだ。『不良少年』などの編集を任され、長篇の呼吸を教えられながら、全く非職人的にフィルムと遊べた。
のちに、黒木和雄氏らと、まだ助手、助監督、せいぜいTVフィルムの新人だった仲間と「青の会」というグループをつくった。小川紳介、東陽一、岩佐寿弥(演出)、鈴木達夫、奥村祐治、大津幸四郎(カメラ)それに録音の久保田幸雄氏らである。このグループの主な仕事は、仲間のとった一カット、一シーンの徹底的な鑑賞と、その上にたっての批評であり、ひいてはその作品活動を追体験として共有することであった。同じ作家をめざすもの同志なので、アラを探しても、それはお互いさま、チョボチョボの話である。だから響いた一カットがいかなるスタッフの緊張関係から生まれたかを論じぬいた。裏目よみや深よみとは縁がなかった。それは批評家の仕事であって、作り手としては寸分のごまかしもひんむかれるていのものだった。このグループの仕事については別の機械にゆずりたいが、「あなたの映画をどう見たか」を語ることからはじまり、それに尽きることによって自分たちのものとして共有化しようとした点で、私の映画づくりの原点となっていることはたしかだ。一九六〇年代のはじめである。
この時代、しかし岩波映画はPR映画で支えられたころであり、作った映画の観客は企業の招く人びと、そのPRに参加する人びとが主であり、せいぜい一般むけの試写会でしか上映活動を実体験することはなかった。PR映画に深く賤業意識がびまんしていた。それに抗ってのグループ活動であったが、やはり作品の評価は、芸術祭賞であったり、コンクールの受賞であった。批判的であり、否定的であったにせよ、選ばれることで、映画がより広く見られることを期待したことは間違いない。だから映画は鋭角的になり、実験的にならざるをえない。ターゲットがプロ批評家や映画人や”識者”たちにむけられていたからだ。映画の製作現場でよくもめた。
例えば「……映画は多少難解であるべきだ。それは観るひとの意識への挑発的対話だから……」
例えば「映画にコメントは一切いらない。なぜなら映像だからだ。ことばとはちがう」 例えば「イメージをどう組みたてるかは観る人の自由だ」などなどだ。それには一理も二理もあると思っていた。
戦争中の映画の意図的ナレーション、戦意発揚型のモンタージユ、戦争美化、死生観への詩的ことばにみちたフィルム。
そして戦後、社会教育映画のもつ啓蒙主義、教育主義、さらにPR映画になって企業の仕事への共感を誘う点で、戦時中の映画技法が粧いを新たに登場した。それらへの作家の映画を映画として発展させ、その主体を守るには並々ならぬ緊張関係が必要だった。敵は企業であり、大資本である。そしてときに製作部を通じての管理と規制としての力をもつ。だからそれとの心理的闘いに追われる。
私の場合、映画第二作目の『ドキュメント路上』はまさにそのよき見本である。これはTシネマの自主作品だが、警察庁交通局での御用達を目算んだ交通安全教育読本用の映画として企画された。処女作が『ある機関助士』だったこともあって、動くものに強い新人と思われたに違いない。
私は交通安全映画シリーズの総論にしようということでひきうけた。安全運転のノウハウや、安全要領を教える映画ではなく、「いま交通戦争の実態そのものがどうなのか」というテーマをたてた。でき上った映画は当然、なんの教育性も実効性もないものだった。日常みる交通の風景や、手慣れた運転手の労働と日日の生活が、どのように危険な要因を紙一重ですりぬけているかーそれをネガで透視したような映画になった。作る過程でスタッフのもったねらいは「交通と都市の無政府性、運転者同志の敵対性、車のもつ凶器性をバクロすること。そして運転者とか路上の人間にしみついている危険さへの慣れや日常性の、その皮膜をはがして、眠っている生理本能を外気にさらすこと。まず人は自分を自衛することからはじめねば……」といったモチーフだった。
カメラマンの鈴木達夫、録音の浅沼幸一氏らは見事にそれを表現した。ナレーションのない、物語性をもたない作品だが、その映像のもつ衝撃力はあった。これは内外でも賞をもらった。だが作品はついに売れなかった。
試写会である人は「この映画を見るより、銀座の交叉点に一時間立ってみた方がずっと交通安全を考えさせられるだろう。なんで映画である必要があるだろうか?」と疑問を出した。
あるタクシー運転手は「出口なしは分っているが、こうまで見せられると……」と口をつぐんだ。ともに映画をみての感想である。映画への批判としてすごく重かった。
つまり、私は観る人、都市生活者、交通労働者へのメッセージを”警察庁映画”ゆえにかくしたのだ。私が投げだした主題のまま、「投げだされた」にすぎない。この映画は仮に映画による作家の文明批評たりえたかもしれないし、安易な交通安全心得映画を拒否したかもしれないが、観客との対話のない、いわば自閉的で、一見自信過剰に思われるほどの主観主義で貫かれた映画だったことになる。つまり、予期せずしてひとのお金で実験映画をつくってしまったのだ。Tシネマには思い出しても心が痛む。賞状やトロフィだけが残り、あと映画としてはゼロにひとしい。
私が上映とか公開とかを考えるとき、この観客不在の映画づくりの失敗が思いかえされる。映画は運動をしないで死んだのだ。
一九六五年、自主映画『留学生チュア・スイ・リン』をつくった。これは本国マラヤの独立運動をしたために、強制送還の命令をうけた留学生の支援のための映画である。この映画から、私はメッセージをそのままつたえられる自主上映映画製作の道に入った。途中CMやPR映画を手がけながらも、基本は自主製作の仲間とともに仕事をしてきた。水俣シリーズや、今回の『海盗りー下北半島・浜関根』の反原発映画が主なものだ。
このなかで、いやおうなく私自身が映写機をまわし、観客と応答しあい、あとは合評会、こんだん会に出るということをくり返してきた。これはなかなか辛いことだ。たとえば中途でひとり退場しても、どのシーンであきたのか、コンピューターのように脳を回転させる。観客は、つまり人さまざまである。賛否なかばして当然と思い切ればそれでもよい。しかし、私は、上映中の人びとの息づかいや昂奮、ときにしらけやアクビ、腕時計に眼を落したり、あとどの位かと後をむいて映写機上のフィルムを見たりーそうしたアクションにほぼ共通項をよみとる。身体が映画を批評しており、それはことばより瞬時に反応している。これはこわいことなのだ。
だから、一本の映画のおわりに、「ああ見せてよかった!」といえる映画をつくるたのしみも、これは誘惑的である。そのたのしみのための苦行であっても痛苦では決してない。
私は相応にうぬぼれ屋で、自信家でもあると思う。だがこういうある劇映画の巨匠のことば「私の映画についてのもっともきびしい観客は、ほかでもなく私だ。私が最初の観客だ。だから映画館で自分の作品を観たことがない。完成したときに、私の映画とは別れる」。こうした質の自信は全くもてない。この巨匠はカリスマ性をもち、近づきがたい感じすらする。これが映画監督というものだろうか。
私は記録映画づくりの中で、何度も自信をもち、何度も失望する。その振幅ははた眼には見苦しいほどだと思う。シナリオ風の構想を立てるときはまだよい。撮影の現場からスタッフは複数になる。カメラ、録音、交渉や段取り、そのどのひとつをとっても、心を託す存在であっても、私が代りになれない。「これで艮かった」「これしかない」つまりOKだと一カット毎に思いたいが、私がカメラをのぞいているわけでも、レシーバーを耳にしているわけでもない。対象とスタッフとの間の磁場に身をおいて関係を緊張させる役割をもつとしても、映画的現実をつかんだかどうかの不安は一カットごとに追いかけてくる。
編集中もそうだ。自分のつなぎが「これしかない!」のかどうかだ。だから、私は、スタッフのなかに、まず”観客”をつくらねばならない。私と一緒に、この映画を観る側に立つ人を獲得しなければならない。
スタッフはまず強く主観に立つものだ。編集とは「そうとれたと思う」その主観を相対化する作業なのだ。シナリオもストーリーもどう発展していくかわからないたぐいのドキュメンタリーの場合、映画が確実にできつつあるという自信は、まず自分たちのとれたフィルムへの関係の強さとその重層への期待いがいに何があろうか。
その点、青林舎(私の属する映画集団で株式会社、代表高木隆太郎)は発足以来十数年、良い習慣をもっている。スタッフ以外の人が、現像上りのラッシュフィルムや、第一回目の荒い構成の「原型」をいつでも観て、意見をだすー。これはスタジオ育ちのプロ活動屋さんの世界には決してないことだ。まずNGはぬいて、ほぼ完成の段階まで、スタッフ以外、覗き見厳禁がこの社会の不文律である。私は先にのべた「青の会」時代から、このタブーからは全くときはなれてきた。だから奇とも異ともしないが、このタブーができたことにはスター主義とか監督カリスマ説とかいろいろの映画発達史の底にしずんだオリのようなものがあってのうえであろう。だがドキュメンタリー映画には、本来そういうものがなかったのではないか。これは仮説だからさておくとして、各製作のふし節に、私は観る人間がふえ、そして共感と自分の批判を加えて、一本の映画にしていく作業こそが映画づくりのほかの表現ときわだってちがう特色だと思っている。
劇映画の多くが、まず文学作品を原作とし、映画的にシナリオ化し、スターを配し、本番に入る。それまでに映画のアッピールカや”大衆性”は原作でほぼ把握されており、シナリオでねりあげられ、さらに話題と吸収力のあるスターでイメージをつくるとすれば、観客は作家の中で、すでに想定されているであろうし、その自信はない方がおかしい。監督の決断力と統率性と信頼関係は個人に収れんされるであろうし、カリスマ性を帯びずにはおかないだろう。それが巨匠の顔というものだろう(悪い冗談をいった)。
ドキュメンタリーの場合、事実、事件、現実がそこにある。それは絶対的存在だが、映画的自信とは別個のものだ。つまりゼロからすすみはじめる。巨きな石や粘土のかたまりがあるだけにすぎない。それから何を彫り出すかにあたって、つまり製作の全過程に、スタッフや、観る人の観方、見え方、感応を手がかりに、相対的自信をつよめていくーこの精神運動こそ、映画ドキュメンタリーの特質といいたい。それは集団の営為なのだ。
以上、話をひろげたのは、なぜ私が自作の上映の場でストップしてまで解説するのか、その心根の一貫性をのべたかったからである。私は私の映画が、ある集団に対しては実に不完全なものにならざるをえないことに、残念ながら、ある諦念に似たものをもっている。
例① カナダ・インディアンー水銀汚染からカナダ水俣病を受けた彼ら居留地の上映のとき、指導者たちや女性たちは真剣に映画を観たいとのぞんだ。だが、英語版であった。原地語ではなかった。それにもまして、子供たちが会場いっぱい”インディアンごっこ”を展開した。何故か。子供むけの映画を一本も準備してなかったから、頭からうけつけなかったーこれはきわめて特別な例かもしれない。しかしこれが翌年の巡海映画のときに役立った。
例② 先にのべたように、水俣病を語るのに極めて不充分な映画と自覚させられたとき。つまり、自分の体の不安をとことんまで知りたい観客の要求にこたえるにはどうすればよいか。その答えはいく通りも考えられる。そのひとつとして、画面をとめ、スライド化して喋ることにした。これは受けた。
例③ 新聞の切り抜きだけでつくった『原発切抜帖』をある漁村の若い人たちに見せた。日頃、活字の世界に親しんでいない人びとには催眠効果を与えた。都市・インテリむけの映画でしかなかった。こうした場合は、むしろ、スライドで肉声で語る方がよい。Etc.
こう考えてくると、映画は万人むきだと思うことが間違っている。既成の映画でも「十八才未満お断り」から、児童むき、青少年むき、一般むきといろいろある。だからといって、表現したいことを、そうした区分にむけてつくりわける才覚はいまのところ私にはない。原発にせよ、水俣にせよ、いまの現実を映画的現実に表現する上で、いかに内なる観客とその批評を受けつづけるかである。そのためには作り手として上映のからみ合いを重ねていくはかない。
ただ、以下は私の希望としてある。夢といってもいい。
映画は人びとの集まりの中で見られる。
映画は、その上映自体、つどう関係を求める。戸外に出て見ただけの価値を発見しようとする。
映画はその人びとについて、テレビが日常であるのに反して、非日常のイベントである。
映画はつくり手と対話することができ、交通しあう可能性をもっている。
映画に参加することーつまり「上映が映画なのかもしれない」と考えることができる。製作から上映までの運動がこれらだ。
そうした運動を考えるとき映画は実に若いといわざるをえない。