記録がドラマを産むとき 『朝日新聞』 2月18日 朝日新聞社 <1981年(昭56)>
 記録がドラマを産むとき 「朝日新聞」 2月18日 朝日新聞社

 突然に予期せぬ転倒 対象とカメラとの交わり

 よく私は「映画は産まれるもので、作るものではない」と言うことがある。劇映画ではそれは同義語かもしれない。シナリオから始まり、撮影・編集の過程をへて映画の世界を創り上げる意味で、使い分けの必要がないであろう。
 一方、記録映画では、「やらせのない」演出とか「冷徹なカメラアイ」とか「カメラを意識しない対象の人びと」とかが評価として語られる。はたしてカメラのない映画現場や演出のない撮影などあり得ようか。私が作るという場合、”劇化”されたドキュメンタリーを指すものではない。かりに従来とられてきた記録映画の方法に、忠実であり、事実を解析し、人間への誠実な描写を貫いたものであっても、いわゆる記録映画の約束事に即して作られているものはどこかおかしい。私の言う「映画は産まれるものだ」というのと違うのである。

 恋とか出産に近い
  
 ひとことで言えばそれは作る側が作用し、影響し、運動するところの映画の世界そのものである。それは愛とか恋とか出産というひとつの流れに近い。すぐれた劇映画にもそれを感じる。そこには共有するシナリオがあり、究極の表現にむけて創造はするが、俳優と監督(カメラ)が分業しており、決して交代しあえない。だが、記録映画の場合、いわゆる対象が独自の存在と表現をもつ人・物である以上、カメラ(作者)はそれに交わり、関係し、一緒に産みの過程に入る。不妊もあり流産も死産もあるにせよ、産むことに近い。「カメラの発見」といわれるものも実はこの交わりの結果であり、その表現なのだ。
 「取りあえず撮ろう」「資料となるだけでもいいではないか」などど、私は漠然(ばくぜん)と先行きを思いながらも、極めてあいまいにスタートすることがある。
 あとから思念が追いかけてくる。水俣病事件に限らず、時代と人間を記録したいと考えるとき、その撮る機会が突然訪れることがしばしばあるからだ。だがそれが長期取材になると、映画の撮影行動そのもの因果法則が起こり始める。見方が表層からより深層に、行為がより鮮明になり、予測を超えたことがおこりはじめる。とる方もとられえる方も予期せぬ転倒を体験し、次の地平に進んでいく。そのとき私は終わりを感じ、一巻のフィルムにまきとる。それはドラマ性を帯びざるを得ない。編集台上のドラマ化ではなく、その間に生起した一回性のドラマとしてである。それはいわゆる記録映画らしくない。かといって劇映画でもない。しかし私は、映画であり、記録であることから、ドキュメンタリーの範疇に入るものであると確信している。
 
 映像資料の強烈さ
  
 NHKの昭和回顧録などに敗戦前のニュース・文化映画とともに、アマチュアの撮ったフィルムがある。戦時中のニュースが戦争の責任の衣装をいやおうなしにまとうのに比べ、そのフィルム資料は今日の視点でいかようにも料理され、”歴史的フィルム”に祭りあげられる。当時の撮影者の責任と思想は問われないのだ。
 私も水俣病事件を撮りながら、多くの、未発表資料を残している。いつの日にか水俣病資料館でもできたらと考えている。しかし、この未加工、未発表フィルムが、後年あるとき、このような回顧録的な扱いをうけたとしたら、それは私の責任でもあろう。
 だが、一方で、やはり映像資料の強烈さを、私は、水俣病発生当時、熊本大學医学部がとった医学用フィルムでいやというほど知らされた。
 急性劇症の死亡患者の生前の記録がそれである。医学者は自らの研究や発表に使った以後20年、それらの多くフィルム屑(くず)に近いほど風化していた。
 私たちは『医学として水俣病三部作』にその主だったものを収めた。そして今なお、その資料ゆえにこの作品は意義を認めらている。

 人目に触れる場で
  
 記録映画のもつこの「資料」のあつかいについて同じ悩みをもつ人にたとえば日本記録映像センターの牛山純一がいる。
 氏とそのスタッフは私と同じように約束事にとらわれずに資料性の高いドキュメンタリーをめざしている。約15年間『すばらしい世界旅行』をてがけ、つとめて大洋州、アマゾン、アラスカなどの消えゆく人類学的資料を系統的にとってきた。
 しかしTVの時間の制約から多くのシーンを未使用のままのこしている。氏は作品化できなかった映像資料を復活させることは現実的に至難に近いことを指摘し、有意義な資料であればどんな形ででも作品にしておかなければ消滅するだろうといっている。人目に触れる場で公開しなければ、いわば資料の存否すら社会的にはわからない。映画資料が作者の手中に生のままにある限り無価値であり、その所有を離れて、作品として外化しないかぎり資料ともなり得ない。(牛山氏が力をいれている映像カルチャーセンターのドキュメンタリー映画の常時公開はその実験的は試みであろう。)
 作品にすることはドキュメンタリー作家の責任であることは自明の理である。
 そのときそれば作品となっていればのちに決して恣意的な解釈をされないであろうし、それぞれの時代の変化する価値をもって歴史的資料にされるであろう。

 可能性を求める試み
  
 このほど、私たちは原爆の画家として知られる丸木位里、俊さんの大作『水俣の図』の制作とその水俣の表現を撮った『水俣の図・物語』を作った。これも「とりあえず撮ろう」といって一年前にはじめたものである。今までの映画のように、とくに水俣現地が舞台でないものだった。そしてこの一年、このふたりの画家とともにカメラを仲介に仕事をし暮らすおりおりに、私は、改めてドキュメンタリーとは何か、とくに記録映画のもつ資料性とドラマ性との間についてかんがえた
 映画も絵画も表現としてある。参加をもとめた武満徹氏の音楽、石牟礼道子さんの詩もおなじく水俣(海)の表現として一つの映画の時間と空間を共有した。この映画の資料的な忠実度をもちつつ、原爆作家といわれる大きな仕事に生きた丸木夫妻のもつ内面のドラマ、そして私たちと水俣との新しいかかわりのドラマになった。
 それははじめから意図した”シナリオ”ではなく、だれもが水俣を考えつづけたその一年の結果としてである。そしてこの映画が、私にとってドキュメンタリー映画の可能性をもとめるひとつの試みであったことにはかわりない。(記録映画作家)

 記録映画『水俣の図・物語』(1時間57分)の試写会は19日から三日間、東京・霞が関の久保講堂で、問い合わせは青林舎へ