映画世界における政治的「鎖国」を思う 『映画新聞』 第13号 6月 映画新聞 <1985年(昭60)>
 映画世界における政治的「鎖国」を思う 「映画新聞」 第13号 6月 映画新聞


 映画新聞編集部の満一年をむかえるにあたって「最近海外に出る機会のあった映画人として日本の記録映画の海外の評価や、本人として見えてきたもの書いてくれ」との註文があたえられた。ベルリン映画祭のヤングフォーラムへの招待(本年二月「映画新聞」既報)によるヨーロッパかけ歩きをしたことからであろう。その評価に今回頁をさく気になれない。自分たちの作品に触れることへのテライもあるが、もっと重要なことを考えさせられたからだ。だが、短くふれよう。今回、日本の映画ーとくに小津安二郎へのただならぬ傾倒を知らされたし、日本映画史ともいえる五百本上映(パリ)は「日本でも見られないだろう」とフランスの日本映画研究者が言うほど評価は高い。世界の最先端をゆく経済・技術大国としての日本紹介映画にも事欠かない。その中で「日本のなかの第三世界」ともいえる高度成長の自家中毒や弱者切りすての相貌を描いた映画が持続的に二十年近くつくられつづけてきたことに、ある畏敬すらこめられていることも事実だ。
 小川紳介氏の作品群、アテネフランセ映画講座の「東京クロム砂漠」反核ヒロシマフィルム、今村昌平、大島渚、黒木和雄氏のドキュメンタリーそして、青林舎や私のそれも一部に知られている。海外紹介の労をとってくれたフランス映画社、在パリのマダム・ヒロコ・コバース等在欧映画人や映画交流に力を注いでくださった人びとのおかげであるが、若い記録映画作家の作品にまではまだ手がまわっていないのが現状である。もし紹介されれば日本のドキュメンタリーの層のぶ厚さにあらためて注目をよぶであろう。

 ベルリンで上映された「東京裁判」について

 話の本題に入ろう。実は私は今回ベルリン映画祭で、あるカルチャーショックを受けた。それは戦争体験について、もっと絞れば戦争責任についての日本映画とヨーロッパのそれとの異相についてであった。英語版の『東京裁判』(小林正樹)をベルリンではじめて見たときのことだ。五時間に及ぶ長尺大作のゆえもあって、観客は多くはなかったが、それだけに最後まで見た人は様々な思念が渦まいたに違いない。ドイツではニュールンベルグ裁判があっただけに、である。
 私の英語解読力はあやうい限りだが映画の構造は分るつもりだ。私の見る限り、この映画は「勝者に裁く権利ありや」を問い、「裁きしものがその後再び戦争犯罪をおかしつづける愚行を演じている」と東京裁判そのものを、小林氏によっていまひとたび、”裁判”を行っているように思われた。この映画における、映像資料と史実の広い集積と組み上げは一驚に値したし、その重層的な構成と長尺化をものともせぬ記録配分のチ密さの点では、この作品が戦争の記言記録として水準を超えた第一級のものであることを認めざるをえない。(これは国際映画批評家大賞を得た)だが、観終えたあとの異和感はどうしようもなかった。
 まず一部二部に分かれその前半の終り、戦争の記録の終りに、南京大虐殺を描き出したそのピークに、すでに一章をもうけて描いたはずの「原爆」シーンの焼死体の数カットが、再度、意図的にモンタージュされていた。「首切り死体」と「焼死体」ー、当時の日本軍も悪魔なら、アメリカ首脳部も悪魔だと「悪の相うち」の様な効果だった。

 日本の戦争責任は原爆で相殺されるか

 私は何故、映画『東京裁判』に、この裁判では論及されることのなかった(占領下であり原爆報道はおろか批判も禁じられていた)原爆が、南京事件やアジア各地での無差別殺りくのシーンに、ある種のバランス感覚をもって挿入されていることに露わな意図を感じた。「日本の戦争責任が原爆で相殺されるのか?」と。
 第二部に入っていよいよ天皇の戦争責任の免罪過程となるにつれて、「日本の戦争責任を勝者の立場で裁くこと」について疑議をもつインドのパル判事の論理が、作者の意図の代弁者のように構成され、天皇の免責問題が東条以下戦犯の所業として収れんされ、しかもその将軍たちが勝者の裁きのもとにしようとして死に甘受するーといった映画的美学の中におさめられていくのを観た。そしてラストに致って英文タイトルで日本の憲法前文と、第九条が明示され、戦争放棄をした日本とひきかえ裁いた国自身があとアルジェリア戦争、ベトナム戦争をはじめ戦後憩むことなく戦争の”愚行”を演じつづけているとのべてエンドとなる。これは反語的レトリックであり得ても、東京裁判で裁かれるはずの日本の戦争責任の免責の意図以外の何者でもないではないか。戦争放棄の憲法条項のシーンのあとに描かれるべきは、その憲法下の日本が再軍備を年毎に肥大化させ、ベルリンで上映された「海盗り」アメリカとの安保条約のもとに、再び東アジアに脅威を与えるに致った戦後四〇年の変貌を描くことで「東京裁判」を批評すべきではなかったか。裁きのもの然とした作風だけに喜劇的ですらあった。もし日本で観たらこうまで感じなかったにちがいない。だがここでは、”鎖国的”映画人の体駆と神経を感じてならなかった。これを見終えたときの観客の拍手さえ賛否の分かれたひびきがあるように思えたのである。
 これに前後して、ハンガリーTVの『ある団体旅行』というフィルムを見た。毎年五月、アウシュビッツに収容された人々とその家族がバス旅行で旧跡の収容所を訪問するといったそれだけのストーリーだが、出発前の回想、車中話でつづられた収容所の死の世界、そこに四十年たって訪れることの出来る今日の”団体旅行”…それが奇妙な明暗をともなってやがてアウシュビッツに到着する。談笑は消え、参加者はひとりひとりになって建物の壁にふれ、ガス室の扉を見、青い庭の草と花を眺め、それぞれに内からこみあげる慟哭に耐え、うずくまり、涙をぬぐうことも忘れて”あの日”にむきあっていたー。

 映画における政治的想像力とは何か

 この上映後、戦争を知らないベルリンの若者や、この映画を選び上映した責任者の青年たちが、これもまた若いハンガリーの演出者(兼カメラマン)と対話をはじめた。「私の生まれる前の話」といった趣きは全くといってよいほどない。泣きはらした眼、ひたと一点をみつめた眼差しでハンガリーの作家からよりディテールと製作の意図を聞こうとしていた。
 西ドイツでは小学校時代から週一回、四十年前の今月今日のナチス時代の映像や写真をみせてそれぞれの考えを発表させているとも聞いた。また狂信的なネオ・ナチズムが公然と登場し、同じ旧フィルムに喝采を送るとも聞いた。だがアウシュビッツの戦犯の時効を生きている限りつづくものとした事例や、レーガン大統領が四月のサミット会報を機にたった四十八名のナチス親衛隊の葬られているピットブルグ軍人墓地への墓参への国際的批判に耐えている西ドイツの人々の戦争責任の意識化のありようを知るとき、その夜の上映後のただならぬ緊張感を思い出す。ハンガリー作家の方がむしろ蒼ざめてぎこちなくドイツの青年にむきあっていた対等感に打たれる。そしてここでの緊張感の方が『東京裁判』のそれよりはるかにナイーブだったことを思うのだ。
 私は幾日かたってからドイツ人やフランス人にその感想を開いた。「東京裁判のあったことさえ知らなかったし、アジアの戦争をあれほど克明に知る機会はなかったので、為になった」と一様に前おきしてのちの感想は、ほぼ私の危惧と同じだった。西ヨーロッパの全般的右傾化のなかで、ヨーロッパの頭越しのスターウォーズへの恐怖、その中で、アメリカの超軍事力と日本のハイテクノロジーとの、SDI構想線上でのドッキングを恐れている風潮は共通していた。「政治的な無関心のつけが今、自分たちにまわってきている。いま最も心すべきはポリティックであること、そしてラディカルであることだ」と緑の党の言員でもある知識人は言う。そして彼らはニカラグアの情勢、アフガン問題の位置、とりわけ中東の戦争には通暁していた。ソ連の核についての戦略についても、レーガンの産軍一致で進める強硬路線に比べ、是と非を弁別した上で相対的に見ていることもあらためて分った。
 ある所に「日本では政治的テーマはまず企画が通らない。政治家のスキャンダルは別だが…」と私が言うと「それは私たちの国でも同じだ」と答える。それでいて志は、やはり政治を正面からみつめることだ、その報道と記録が何より大切だとの主張をやめなかった。
 私の『海盗り』への感想も原子力船「むつ」と漁民とのいきさつより、端的にひとつの半島の軍事化、それとプルトニウム半島化の一致の必然性を理解する趣きだった。そのことの分析は別の機会にゆずるとして、今日も二〇万人の暫員力を生みだす”戦場なるヨーロッパ”の人々の危機感の切実さは伝わってくる、そしてその共感にはぬくもりがあった。
 今回ヨーロッパでうけたショックは世界の戦争と平和の動向を有機的に自国の政治とそして自分自身と一体のものとしてみるインターナショナリズムの芽とも原基ともいうべきものの発見だった。あえて『東京裁判』を鎖国的視点といったことは即ち私のことである。映画における政治的想像力とは何か、ながいあいだいわゆる政党政治としての政治を嫌いぬいてきた、私が真に政治的なるものの映画について、あらためて思いを深めたい気にさせられたのである。