「水俣」土本典昭 新人国記‘82 岐阜県⑫ 繁栄の意味を問う 248 <1982年(昭57)>
「水俣」土本典昭 新人国記‘82 岐阜県⑫ 繁栄の意味を問う 248

ひとの命と不知火海を奪った戦後の繁栄の意味を「水俣」で問いかけて、記録映画監督土本典昭(53)の映像は鮮烈で、したたかだ。昨年、画家の丸木位里・俊夫妻が縦三メートル、横15メートルの「水俣の図」を完成させるまでの過程を克明に撮影。映画評論家は「心にしみ入る鎮魂歌」と絶賛した。
焼き物の街、土岐市生まれ、代々、山の地主だったが、大祖母と祖父が財産をばくちなどで使い果たした。幼児期、「お前は百姓一揆(いっき)の血を引いている」といわれて育つ。早大時代、全学連副委員長としてレッドパージ反対闘争を指導、メーデー事件にも参加した。山村工作隊のとき逮捕され、半年間拘置所に入ったが、完全黙秘のまま毛沢東とトルストイを読みふけった。羽仁進の「絵を描くこどもたち」を見て、映画をつくろうと岩波映画にはいり。処女作「ある機関助士」は、水戸から上野まで三分遅れしか許されぬ列車運転がいかに危険かを、完ぺきなコンテで訴えた。水俣病の惨状を知ったのは17年前。患者に接してから当初の撮影意図は崩れ、それまでつくってきた映画が水俣のための習作に過ぎないことを知ったという。
以来、水俣をはじめ不知火の沿岸を歩き、自ら魚の汚染を調べたり、隠れた患者を見つけたりした。行政の空白部分を告発するため撮った水俣の記録映画は、これまでに14本。視点は一貫して、患者とその家族に於かれる。悲しい出来事を追いながら、土本の映像は、しかし決して絶望をうたわない。対象が変革することを確信するから、という。「まだ終わらない。どうにも終わらない」。本当の海を取り戻すため、土本の足は、なお水俣に向かう。