映画『海は死なず-水俣病その30年-』新しい海と人びとを描く 『告発』 第181号 4月 水俣病を告発する会 <1986年(昭61)>
 映画『海は死なず-水俣病その30年-』新しい海と人びとを描く 「告発」 第181号 4月 水俣病を告発する会 

 『海は死なず』という題名をつけたときから、今回の新作には胸騒ぎに似たものがつきまとった。もともと「水俣病・その30年」をつくるつもりが、再びこの三十年をへた水俣病事件の今日を記録する長編となったのも、『海は死なず』と立ててみたテーマがもたらしたものといえる。
 今まで十作をこえる映画で、ひとことも、海は死んだとは言って来なかった。むしろ、海の生命力への期待をこめて綴ってきたつもりである。しかし、自然破壊の惨状に眼をむけないやからに対して、海をいたのは誰かと問いたくもなる。そのトーンはこれまた全作品に滲んでいたはずである。だが今回の題名は、むしろ「海は死ねず」「死ぬことが出来ぬ」という意から生まれた。つまりは「人は死ねず、生き残るーそれならばいかに生きるか、生きようとしているか」を被害の民の中に求めて見ようという意図につながってくる。
親愛なる水俣の友人、鬼塚巌さんは、「ふるさと水俣の海は殺されている。ヘドロ埋立てで埋め殺されている。そうではないか。とても『海は死なず』と言う気になれない」と酔うては抗議される。が、私はあえて言う。「海は人が生きればよみがえる」と。しかしこの題名をつけて、被害を受けた人びと、漁業を奪われた患者に会い直してみると、水俣病三十年の受難のなかから、必死に生き直している人たちと出遭うことになった。たとえば緒方正人さんであり、あらためて瞠目すべき杉本雄・栄子夫妻があり、天草、長島の現役の漁民たちである。
 かつて今は亡き牛島直さん、あの最高齢の訴訟派患者でメジロ爺さんといわれた人の口ぐせは 「わしは水俣病になってよかったことが一つある。全国からわるが家に人の来らす、一文の得もなかに。人間、バカでなければこんなことはせん。わしはこん人たちに会えたのは水俣病のおかげじゃと思うとる」であった。不幸中の幸などという言葉でけがしたくない生気をこめた浄福感がそこにあった。そのことを緒方正人は「生き残る」といいかえる。「殺しぬいたチッソは、わしらまでは殺せなかった。生き残った。生き残ったものの生きざまで、チッソと正面からむき合おう。チッソは自然を殺しつくしはできん。海は百年、千年生き残る」と映画のなかで語りつづけて倦むことはない。
 かつての申請協の大黒柱のひとりの、いわば戦線離脱をマイナスとみるか否か、批評の分かれるところであろう。しかし、彼は海と山を自分の世界の核にしようとしている。それを改めて害し殺そうとするものへの殺意が裏うちされているように思える。彼とて一回や二回の失意や挫折に放ける人ではない。裁判闘争や、対県庁、対環境庁との闘いにおいて、相手の人間性なるものへの一片の期待も切りすて、新たに海につながる人びとへの盟をさがしはじめたものに思える。
 杉本栄子さんには患者像より、新たな不知火型の漁民像が見えてならない。「なんばしてこの海で漁をつづけんとか。荒波の外洋なら、この体では魚をとれんばってん、不知火の海はこんなにおだやかで、イワシの来てくるる。漁ばしたい病気もちの漁師は、誰でんここに来てみなっせ、仕事のでくる。全国の病気もちをひきうけてくるるのがこの不知火海ぞち思う」といいきる。半病人でありながら、いわば半病半漁の生き方をつかみとった強烈な新人類の思想がここ辺境にある。
 私は水俣へのこだわりから、海を好きな人間になろうとし海にかかわる原子力船にも、社会主義国(バルト海)の漁業にも興味をもった。映画会につられて、全国の浜とその人びとに会った。「死んだ海・不知火海」「けがされた海」の汚名は霧消していった。例えば、北欧数カ国の公海、バルト海をみよ。その汐の干満差は十センチにすぎない。原子力船「むつ」を追い払ったむつ湾のそれは二十五センチ、北陸の原子力地帯、若狭湾では四十センチにすぎない。だが不知火海は最大干満差三メートルを越える。水深平均四十メートルの海に、外洋からプランクトンや産卵魚をはこんで一日二回、年七百三十回の汐の満ちひきがある。しかも水俣沖から御所浦にかけては外洋型と内湾型の混合の生物の海があり、生物の間の食性を通じての相互関係、つまりアサリはエビを養い、エビはタイを養い、タイは養う総天然色ともいえる生の階梯があるのだ。
 いま海を汚しているのは、チッソだけだろうか。海を見捨てた沿岸の人たちが、海を汚している。柳田耕一君のいういわゆる”チッソ型”人間も確実にふえているように思える。それと同時に、水俣・不知火海に生きつづけることで、ここの地、ここの海の復権と誇りの回復をねがう人の貌もあざやかである。私はひとの甦りのリアリズムを包んで『海は死なずー水俣病その三十年』をつくりたいと願っている。