映画を撮りつつ考える-水俣病その30年で見えるもの 『思想の科学』 6月号 思想の科学社 <1986年(昭61)>
 映画を撮りつつ考える-水俣病その30年で見えるもの 「思想の科学」 6月号 思想の科学社 

 昭和四十年、記録映画(TV)のしごとで、はじめて水俣を訪れたときから数えて二十一年になる。当時にうまれた人なら、すでに成人に達している。
 今、『海は死なずー水俣病その三十年』と題する長篇記録を撮っているさ中だが、随時に水俣の市民、青年にインタビューを試みている。
 「水俣病患者と会ったことがありますか?」「水俣病について、その解決について、考えることがありますか?」など極めて大まかな質問にして、誰彼なしに訊いてみる。今まで二十数名ほど、警官やチッソの守衛さんから、主婦、勤め人、学生・生徒などランダムに選んでの質問である。人口三万六千人ほどの水俣、そのうち認定患者、九百七十四人(二・七%)つまり市民の百人に三人が水俣病と認定されており、つよくその疑いをもつ現在までの申請者の総数四千五十一名(ともに昭和六十一年一月現在、他地方への移住者患者をのぞく)、市民の十人に一人は申請者ということになる。約五千人の被害者を抱える水俣市でありながら「患者をみたことも、接したこともない」と答える人が大部分である。ほとんどの人が患者に同情的だが、つっこんで聞けば「本当の患者さんは気の毒と患うが…」と口をにごす。つまり本当でない患者もいると思っている人が多い。そして解決について、明快に答えられる人は皆無だ。もともと質問の意味が広く深すぎて、答を求めるのが無理というものであるが、それぞれの反応のしかたに、水俣病理解の深浅がよみとれる。
 「水俣病の人は街なかにはおらんとでしょう。みんな湯堂とか茂道とか(ともに患者多発地帯・漁家集落部)でしょう。こっちには見あたらんですよ」と街のデパート(水光社、寿屋)あたりの買いもの客はこたえる。そこに、一時間もいれば、必ず私の知った患者さんのひとりふたりに出あうのだが。事実、認定患者の三分の二(六百十六人)は、その多発地帯に集中している。しかしそれにしても、この事情は何を語るであろうか。大多数の患者が自分から患者と口外することはないからであろう。患者多発の漁家集落で、良くもわるくも一体性のつよい二、三の集落をのぞいて、隣の人が認定されているのも、向かいの人がひそかに申請したのも定かでないのである。都会の砂粒状の生活、「隣は何をする人ぞ」といった趣きが、こと水俣病問題にとっては同じなのだ。
 隠れ水俣病とはかつては天草の離島などで、行政的に非汚染地区と見なされ、健康調査も水銀汚染追跡調査もされず、故意に隠され、棄てられていた被害者のことを指したいい方であったが、ここでは自らかくれ棲む被害者のいみで、隠れ水俣病、隠れ申請者というべきかも知れない。
 これにはそうなるだけの差別と分断の水俣病事件史、その三十年の受難があってのことであることは言うをまたない。とくに発生・発見当時の奇病・伝染病あつかいによる酷烈をきわめた部落はずし、村八分があった。共同井戸の使用もいやがられ、村一軒の店での買いものにも、銭を洗われ、戸口ごしに物をわたされるという目に遭ったのが患者たちであった。いまの申請者がかつて差別者であった例も多い。この奇病視がそのまま、ブーメランのように、今、申請者の内部に返ってきているのかも知れない。たしかに結婚差別はいまも厳然としてあり、就職時の健康のチェックの際も「水俣生まれ」はマイナス要因として働いている。日本中どこでも、水俣生まれの人は患者であるなしにかかわらず、差別にさらされているといってよいだろう。
 水俣でのインタビューで数人の若い人に、「他所にいって、水俣生まれでいやな目に会ったことはないですか?」と聞くと、
「修学旅行で京都にいったとき、〈ゲェッー、水俣だってよ〉と他の中学生からいわれた」
「地方対抗体育競技に出場したとき、シャツの胸元につけている水俣一中の名札をみて、ミナマタ、ミナマタとはやし立てられて口惜しかった」
 あるいは高校卒で就職した少女は、「つとめ先の仲間から、手をふるわせたり、よろけたりして水俣病、水俣病とからかわれた」という。それが東京、大阪ではなく九州のそれも熊本市の勤務先である。毅然として、「水俣病は自分でなった病気ではありません。企業の流した毒ですから、何も恥ずかしいことはない。私はもうそのいやな思いを乗り超えました」とさわやかに言ってのけたのは県外の大学に学んで帰省している女性ひとりだけだった。学校教育の中で、水俣病のことを学んだ水俣高の男子生徒は「国、県など行政にもチッソと同じ責任がある」とのべたが、前出の中学生は特に社会科でとりあげられることもなかったと答えた。むろん熱心な教師がいることはいるが、限られている。水俣病事件ほど人間とは何かについて語られるものの多い現代史の好対象であるにかかわらず、地元の教育は不足しているというほかはない。

 水俣に関心を持ち、水俣病事件に支援者として何らかのつながりをもった人は全国でのべ何万人にも及ぶだろう。水俣市の人口に匹敵するかもしれない。また水俣病にかかわる研究、資料、それに表現(文学、写真、映画、演劇など)は決して少なくない。それにもかかわらず、水俣は長く拒否反応のなかで、それらをうけ入れようとしなかった。石牟礼道子の著作が、水俣の有名書店に並ぶまでに、十年近い歳月を要したし、私の映画の場合、いまだ一本も、市の教育委員会の推せんを得ないことでもお分りいただけよう。まして、水俣に定住した支援者、とくに、運動部分を担ってきた水俣病センター相思社などは、その世話人代表、柳田耕一氏が自嘲をこめていうように「いぜんは近くの部落のおばさんから、赤軍さん、赤軍の学生さんとよばれた」のである。
 最近、「ふるさと水の会」という、ふるさとをみなおし、水俣らしいイベントを重ねつつ、町おこしをめざしている若い市民たちの集まりでこうのべた。
 「私をふくめ、東京や京都、大阪から水俣を訪ねた人、かかわりをもった人は、誇らしげに、あるいは声高に(水俣にいってきた)とか(ミナマタにいます)とか言ってはばからない。水俣にかかわることに自分で納得がいっている。一方、水俣の人は、(九州の南の方の生まれです)とか(熊本の鹿児島県境の町出身)とか言ってぼやかす。水俣生まれの人ほど”みなまた”と低くくぐもった声でいう。これが水俣病事件の残したものであってはならないと思う」とのべた。若い人たちには共感の顔があった。
 彼らがいま水俣にふさわしい大学をつくりたいという話しあいの場であった。
 街で成人に達したばかりの若い女性にインタビューするとき、「私たち、分んない。水俣病って今のままなら当分つづくんじゃないかしら。どうすりゃいいなんて、分らない」という返事がかえってくる。これは質問する自分の方がむりというものだ。私じしん戦争中に育った自分に「なぜ戦争をやめさせることはできなかったのか」と問責されても、返事のしようがないのと同じである。この人たちの生まれ育つ以前に事件はおこり、その事をつげる親も教師も友人ももたないまま、世界的レベルで公害の原点・ミナマタの市民となった。どこの町の市民と同じように生活を楽しむはずの自分たちが、こと水俣病問題になるとミナマタ市民ゆえに特別視され、差別される。こんな不当なことがあってよかろうか。そんな気持ちがつたわってくる。
 同じインタビューのなかである女子中学生は「水俣病のミナマタっていうのはいやです。水銀病とか何とかいってほしい。だって、ミナマタっていえばすぐ水俣病、ミナマタビョウですもん」という。以前に、同じ趣旨の高校生の作文が第一位に推され、水俣の教育現場の精神状況を露わにしたものとして患者・支援者から厳しい批判をうけた。そのことを念頭に「教室でそんなことを話しあったのですか」ときくと、言下に、「私の思ったことです。でも、みんなそうじゃないかしら」というこたえが返ってきた。水俣をふるさととして愛するゆえに、水俣病をなきものにできればという気持ちあってのことだろう。これが十四歳、これからが人生という少女だけに胸の痛むことばであった。

 水俣病事件史は、図式的に言えば、六千人に及ぶ末処分者が”処分”されてゼロになり、いまのいくつもの裁判がすべて結着すれば終わることになる。のちにのべるように、この図式で結着を見ることは不可能である。がかりに決着しえたとしても、受難の地、水俣の市民、受難の水俣病患者、棄却者群が、自らを閉塞し、隠れて生き、負の心情で生きるとしたら、この何千何万の人々の痛苦はどこでむくわれるのか。このような世界として水俣が残されるなら、現代史は救いようのない「最も愚かな時代」として後世に記録されるに違いない。水俣病をひきおこしたチッソの犯罪だけが愚かなのでなく、その事件の地が負の地、負の海とし、そこに生きる人みずから自分の存在とその意味を見失うならば、である。ここで問いかけられているのはほかならぬ私たちなのだ。

 映画をもって外国での上映の旅でうけた質問のなかでもっとも答えられなかったものを記してみよう。
●チッソは工場を閉鎖していないのはユニオン(労働組合)の意思か。工場の汚染源は完全にクリーンアップされたか。ミナマタ湾のヘドロは企業の手で浄化されたか。
●市民はチッソの工場撤去の運動をしたか。市民に被害者の自覚はないのか。
●国・県当局は会社、工場責任者、技術者をなぜ処罰しないのか。被害者の救済に積極的でないということは厖大な国費の支出をおそれているためか、あるいは企業を擁護するためか。被害者の実情の調査もしていないということは救済の計画をたてることも出来ないということだが、いまの当面のプランはないのか。
●医師が認定するということは、地域住民の被害者の中から水俣病のひどいものは救い、軽いものは除くという発想なのか。審査会は判別するのが仕事というが、全員医師、衛生関係者であれば治療や診療など患者サイドに立つのが務めと思うが、なぜ判別の専門家なのか。
●「健康な被害者」を想定した判断条件など、それ自体矛盾したことだ。疫学的な判断が第一と患うがどうか。
●地域まるごとの汚染という典型的公害に対する対策にあたって、被害地域の自治体と住民はどんな働きをしているか。地域医療、衛生関係間の連絡や共同作業はどうなっているか。住民の健康に対して追跡調査はなされているのか。
 これらの質問のほとんどにノウと答えるしかないのは苦痛である。公害の原点ミナマタを語りながら、ひいては日本の現実を語ることになり、日本人の意識を問われることになる。ひいては今後起こるかも知れない世界各地の公害問題に対して、何の良き前例をつくり出していないことになるのだ。しかしその疑問のすべては水俣の被害民の闘いの中でくりかえし提起され、抗議され、訴えられて法廷であらそわれてきたものだ。
 それぞれ数年から十年余をついやして、争われた裁判ー最近のものとしては第二次水俣病訴訟、いわゆる待たせ賃裁判控訴審、棄却処分取消し訴訟の勝訴にもかかわらず、その判決は国・県の方針に影響を与えていない。被告席に立つ、国・県当局は控訴、上告したからだ。

 周知のように、水俣病事件と患者の運動は、二度のピークをむかえてきた。昭和三十四年の不知火海漁民闘争と患者の捨て身の坐り込み闘争によって、そのつど補償をかちとった。漁民闘争はその後、リーダーの逮捕によって報復され、患者はチッソを加害者と断定できない状況の中で、慰謝料としてではなく、城主チッソの城下町の最下層部・被害民への見舞金として出され、いご十年にわたる沈黙を強いられた。そして水俣病は忘れ去られたのである。
 この間に、のちにのべるように水俣をゆさぶるチッソ会社と労働者のストライキ闘争があった(昭和三十七、三十八年)。
 そして、昭和四十三年九月、厚生大臣(園田直)の水俣病についての公式見解(チッソの廃液を原因とする)の発表いご、チッソを加害者とする被害者・患者の闘いがはじまる。四十八年の水俣病裁判の完全勝訴と、ひきつづいてのチッソと患者との間の生涯にわたる生存と医療のための協定書成立へとのぼりつめた五年があった。そして有明第三水俣病を機にチッソに責任を問うた不知火海三十漁協の闘争をふくめこれが第二のピークといえる。
 この後者の闘いの中で、国は環境庁をつくることを余儀なくされ、昭和四十六年その初仕事ともいう形で事務次官通達が出された。「有機水銀の影響のあることを否定し得ない場合、認定せよ」というもので、自民党政府の対応としてもある意味で前進の一歩を印した。とくに協定書締結は画期的なもので、県の公害事件全体にとってあるべき解決案の水準をつくるものとなった。
 その翌年から反動期が訪れた。
 闇から闇に葬られた事件に第三有明水俣病があり、第四徳山水俣病がある。四十八年はひとりミナマタの水俣病事件だけでなく、各地の有機水銀たれながし工場とその被害地域住民の闘いを予感させたし、ひいては大気汚染、土壌汚染等、日本の産業社会、文明による人間環境破壊のすべてを洗い出し、異議申立てを続出させうる点で、自民党政府にとっての危機であり、その先頭にたった水俣病闘争は最もラジカルな意味をもち得た。それだからこそ、いご今日まで環境行政ののど元につきささったトゲのように、事件は終わり得ないでいる。しかし、この後の反動は明らかである。裁判ではつねに原告の被害者が常勝連勝し、その判決は国・県の非をつまびらかにしていながら尚、被告がわの国・県において一向に法理のまもられない異常事態がつづいている。それが、日常的で持続的であるだけ、つまり異常と思えないほどの反復をかさねているだけに、本当に異常状態なのだ。

 この経過の底流には、昭和四十六年の事務次官通達の趣旨に添うならば、チッソのみか日本の全企業を脅かすに足る画期的な補償原則が樹立されることになる。それへの自民党政権の必死の反対意見がよみとれる。新たな産業、原発、ハイテク、バイオ企業などが、環境汚染防止対策に足をひっぱられることになるからである。「水銀の影響の否定しえない限り認定せよ」とは、認定即補償である限り、厖大な資本投下を覚悟しなければならない。

 不知火海沿岸には、水俣の他、八代、本渡(天草)、出水(鹿児島)の四市があり、二十の町村を含め、総人口四十三万八千二百人。ちなみに漁業従事者八千三百人(漁船、四千五十一隻)その家族は平均一船当り三人として二万五千人。これに魚を多食する一般住民を入れれば、かりに総人口の四分の一、十万人に有機水銀の影響があったとしても不思議ではない。
 六十一年一月現在の申請者(熊本・鹿児島両県ならびに県外に移住後発症をみた人を含め)ののべ総数は一万四千三百九十七名、うち未処分者、六千名、すでに棄却とされた者同じく約六千名、認定患者は両県あわせて二千九十八名(これは沿岸住民の〇・五%)である。
 認定されれば最低千六百万円から千八百万円まで三ランクの慰謝料をはらい生存患者には生涯の生存と医療を保証しなければならず、チッソの内部資料に算定されている一人総額最低三千万円平均の出費とみて、現在の申請者を救済するだけでも四千数百億円かかるのである。

 チッソは企業犯罪を冒してきた。昭和三十年代の元社長、工場長は水俣病刑事事件の一審で、業務上過失致死傷罪の判決をうけている(現在上告中)。猫実験で、餌にアセトアルデヒド廃液をかけて発症をたしかめた(昭和三十四年)のちも、その事実をかくしつづけて、いご十数年、無処理のまま有機水銀を含む工場排水を流しつづけてきた。これはもはや歴史的に確定された事実である。ゆえにチッソは水俣病裁判の一審判決に服した。このとき患者総数百二十一名(うち訴訟派は二十九世帯)にすぎない。判決の慰謝料認容総額約九億四千万円。これだけの慰謝料にとどまるならば痛くもかゆくもなかったであろう。だが申請者のその後の増大は国・県の予想をはるかにこえた。しかもこの申請者たちは国・県の手によって拾い出されたのではなく、良心的な医師グループの検診によったもので、疫学的には全く蓋然性の高い人たちばかりである。
 県や国はこの綿密で持続的な検診が高い申請率をもつことに心底恐怖し、昭和四十六年から昭和五十年にかけて不知火海の漁村部五万五千人を対象に検診をすすめたが、わずかに要審査対象百五十八名をピックアップしたに留まった。その杜撰な検診と不徹底さもさることながら、いまだ色こい水俣病かくしの精神風土を利し、交通不便の事情や水俣病への地元医師の不勉強をそのままに、バラツキの多い表面的になぞっただけの一過性の対策をとった。
 
 この十数年間自民党政府と熊本県当局は大略つぎのように患者の切り捨て策をとってきた。
 まず申請防止について、
●右にのべたように、申請者の増大を極力ふせぐこと、総人数の抑止である。
●汚染地区を水俣および隣接の芦北郡、鹿児島の出水郡の一部(九州本島部など)に限り、対岸や離島を切り離した(天草には毛髪水銀データ記録上世界最高値九二〇PPMの人がいたのにもかかわらず)。地域的拡大の防止である。
●再調査・再検診のサボタージュ。
●地元開業医、主治医の水俣病申請へのたえざるプレッシャー等、医事行政を通じてー。認定審査過程での患者切り捨てについて。
●当初の事務次官通達を事実上廃棄し、症状の組み合せをつよめ、認定基準を厳しくした昭和五十二年の新事務次官通達の線への後退。
●水俣病には専門家の知識がいるとして、地元医の診断書の徹底的無視と、審査会の全員一致制(多数決でなく)の慣行化(六十一年三月棄却取消訴訟判決ではこの点をつよく非難している)。
●疫学的条件の無視、これにより、被害者家族や漁民共同体(網元・網子など)が同じものを獲りたべていたことなどを全く考慮しなくなった。
●死亡した申請者に新資料をうる見込がない場合認定しない(新事務次官通達)。
●医学的見地からの「保留者」をへらし、棄却か認定に分つ傾向をつよめた。
●審査会を患者の批判からまもるため、「知事の諮問機関だから」の理由で、患者と会わせないように配慮する。答申当事者たる県当局は諮問機関の権威を盾に、独白の判断を自ら封じ、審査制度そのものを密室化した。患者は認定ではなく棄却のための審査会になったと指摘する。
●検診のデータのとり方そのものにある患者と検診医の不信関係、「これが見えないはずはない」と瞼にテープをはったり、血の出るまで四肢末端をつついて感覚障害の訴えを頭からうたがうような検診方法(そのピークは昭和四十九年夏のデタラメ集中検診である。これに対し患者は検診拒否の対応をとるにいたった)。

 患者は棄却されれば大半は諦念する。だが裁判(二訴)で棄却者の大部分が司法の場で水俣病と認定されたり、最近の棄却取消訴訟一審では原告(死者二名を含め)四名全員に対する県の棄却処分がとり消された。これに対して県当局は控訴した。この四名の認定にとどまるなら、チッソはすぐに応じるであろう。しかし事は六千人の棄却者への影響である。「棄却者全員を見直せ」の声は、これら裁判の法理の指示するところなるがゆえに、国・県は十年裁判の上に更に最高裁までの数年間の時間稼ぎをしたのだ。その間に、患者は老齢化し、死亡していくことを読み込んでのものとしか思えない。
 異常状況はしかし日常性の中にある。それはいかにして可能なのか。

 さきに、水俣市民へのインタビューで水俣病患者に見たことも会ったこともないという人の多さをのべた。そして心の中では「水俣病とも思えぬ人も補償金めあてに申請している」と思っている人、「何といっても水俣病の専門家の医者の決めたこと、国・県もそれを参考にしてやってる以上、棄却の人は水俣病じゃなか」と思う人が市民の大部分である。
 この四月十八日の「ニセ患者発言抗議事件いわゆる謀圧事件」二審判決は一審同様、水俣病事件を裁くことなく、全治三日のヒザ蹴りの事実を抗議の人たちの共謀とするものであった。この杉村県議(公害特別委員会)の「ニセ患者」よばわりは、市民のこの漠然たる申請者への違和感をもとにして発言され、市民意識をあらためて顕在化させた。市民の申請者への差別意識は市民権を得た。口に公然と出さなくてもーである。今や水俣市民で水俣病を知らない人はほとんどいないだろう。しかしテレビや新聞で知るのがほとんどで、患者さんのところをたずね、その耳、その眼でたしかめた人が何人いるだろうか。「見ない、言わない、知らない、関係ない」のである。七百十四人に及ぶ死者のうち、急性激症で狂い死にした人たちの映像、胎児性水俣病の人たちなど生活に介助を要するものーこれが人々にとっての水俣病患者像なのだ。可視的に見える患者ー廃疾者となったものへの哀れみはあっても、五体のそろった申請者の治ることのないさまざまな障害にまで、想像力は及ばない。
 多くの水俣病研究者の指摘するように、今日の水俣病患者はほぼ慢性型であろう。有機水銀中毒は特異な性質をもつ。夜ごと襲う激痛やけいれん、感覚障害や共同運動失調による生活上の不便、労働へのダメージは特有である。
 漁船を下りたある申請者の場合「海面をみつめていると必ず首に激痛がおそう。船にのる仕事なのに体の平衡がとれない。魚のうごきですぐ動かなければならない手や指がこわばって漁もしならん」体をかばいながらでも仕事の出来るうちは良い。海に落ちる恐怖がいちばんという。陸での体の仕事、手先のそれ、まして工程の複雑な工場の労働は出来ない。それでいて、人には五体満足に見えるのである。 無機水銀中毒は可視的である。口のど消化器から排泄器に至るすべてを腐蝕、ビ爛し、吐血、血便、血尿の上、肝臓、腎臓を冒され絶命する。有機水銀はこれと全く異なり、脳の中枢、神経を冒す。黙って坐っている限り、重症の認定患者ですら常人と変わらないのである。極論すれば、「気ままに横たわり、気ままに体を動かしている」ことが療養生活の原則といえる。無理がまったくきかないのが水俣病なのである。それが「ブラブラしているくせに申請して金のくるのを待っとるだけ」の印象批判となる。
 同じ小さな街も、水俣病患者・申請者との生活間の距離は異国のようにへだたっているのだ。
 「毒があるとはちいとも知らず、休の悪うなるのは栄養不良と医者どんにいわれたけん、よけいに魚ば喰うた」と渡辺栄蔵旧訴訟派患者は映画でのべたことがある。魚の多食の上に多食を重ねた。「サシミを井一ぱいは毎日喰いよった」「主食は魚や貝じゃった」さらに「魚の、なまこ、たこのワタ(臓)が好きでそれをたべてミ(魚肉)はくわんじゃった」「焼酎と魚があればメシはいらん」。よく聞くエピソードである。
 水俣病発生以前の食生活は原因不明期の中でパニック的に変わる。ことに多発地帯では、魚があやしいといわれたときから喰いびかえられた。それは何より海といきものの異変を目撃したことによるであろう。イリコをたべた猫がおどり、魚をついばむ海鳥が墜死し、犬が盲いて死に、豚が残りもので倒れたピークの昭和三十一年、水俣港は浚渫のさ中にあり、ヘドロはまい上がっていた。さらにチッソは昼より夜を選んでいっさいの廃棄物を海に流した。
 「それこそ、赤いの、青いの、紫色のネチネチしたつを流すのを夜ぶり(釣り)ごとに見た。海の底には黒か豆腐のようなヘドロが沈澱し、竿をさしたり、錨ば上げれば、そん塊がゆらゆらしていっちょも沈まん」(前出渡辺氏)
 海の汚れが水俣漁民の眼に映り出したのは工場開設いらいであったろう。大正末期にすでに汚染に対し、漁民は漁業補償を求めている。この時代にチッソの譲歩をうるにはよくよくの汚染があったと思われる。
 いま医学者の研究(熊大第二次水俣病研究班)によれば最初の発症者は、昭和十六年と推定されている。昭和二十年代の発症例は枚挙にいとまない。水銀を触媒とする酢酸工場のアセトアルデヒドの稼動開始が昭和七年であれば、むしろゆっくりと出現したものだとも思う。その間、水俣漁民はしだいに海のよごれに耐性が出来ていたのかも知れない。前に紹介したような毒々しい色彩の廃棄物、かきやうつぼの死ぬ百間港船だまり、そしてあらゆる生きものの死と連続的に起こった異常事態を時々刻々まのあたりに目撃してきたのが漁民である。汚悪水や粉塵・悪臭ならいざしらず、魚を介して人間をたおした有機水銀の特異な毒性には思い到るすべもない。ただ魚があやしい、それが工場の毒物の流出による、とつなげるだけでせいいっぱいであっただろう。
 私は海がそこまで汚されていても、声をあげなかった水俣漁民に疑問を感じたことがある。「会社ですることじゃっで、しよんなかと思うとったです」(渡辺栄蔵氏)。のちの氏の怨みの深さを知るとき、汚れに目をつむり、耐えた歳月の長さを思うう。会社が毒と知りながら廃棄物を海に流したことを、ひととひとの暗黙の盟約をやぶったものとして心の底からの怒りがあったと思う。水俣湾の汚れと生きものの弊死をじかに目撃し耐えていた人ほど被害・加害を峻別しえた。
 市民は漁場としての海の汚れを漁師のようには日常見ていないし、膚で痛みを感じないですんだ。水俣病の発生したときに、腐った魚をたべたー不衛生な漁民たちー日本脳炎風の流行病、伝染病ーそして奇病と、知る限りの病像をつらねてもなお分りがたい狂い死にに、奇病の名をつけたー下層漁民特有のやまいとして差別視し、海と生物の世界の死を海辺の事件として、その海とむき合うことなく街の暮らしがすぎていった。もし地獄の原光景をつぶさに見ていたら、腐った魚ではなく、腐った海そのものが水俣病をひきおこしたことを深く納得できたにちがいない。
 水俣病を生んだ土着の風土から切りはなされ、市民社会にとじこもり、チッソの繁栄を市のそれとみて、工場の風景をわが町としてきた。市民が海とヒトとのつながりの断ち切れたとき人みな同じであるべき感性が分断され、異化して、差別感情をほしいままにしていったと思う。
 水俣病事件への直視を避けたうらにはチッソをここまで巨大にしてきた水俣の誇りがあってのことである。会社ゆきを選ばれたものと思い、「技術のチッソ」が時代の先端をゆくことを心から喜んだーその意識の牙城が、水俣病ゆえに音をたててくずれ、今や世界にまでミナマタが公害の原点として据えられることは耐えがたかったに違いない。だが水俣のチッソ、チッソあっての水俣の蜜月期間は昭和三十七、八年の街を二分したといわれる安賃闘争までではなかったか。合化労連傘下、新日窒労組と合理化を計る会社が工場をロックアウトし、御用組合・新労(チッソ労組)を強制就労させ、労働運動の分裂に専念したとき、チッソの企業体質は一挙にバクロされたはずだ。街は会社応援側の商店と組合支援のそれと二分した。市を支配したチッソが水俣の地の人びととまったくかけ離れたよそものの大学卒の会社幹部たちの手中にあったことを、さめて知らされた。
 この大騒動に比べれば昭和三十四年の一過性の不知火海漁民”暴動”などとるに足りない出来事だったろう。そして会社は、ほぼその意図通りに合理化と新工場建設、子会社への資本分散をほしいままにし、千葉に五井工場(石油系化学工場)をつくり、それまでの水俣の電気化学工程に代えた。この五井工場の完成の日、厚生大臣の公式見解が発表され、それがひきがねとなり水俣病事件が再燃し、拡がっていった。このときの市の支配層、上層のパニックは、「チッソの水俣撤退」の予感に裏打ちされたものだったろう。
 会社か、水俣病患者かの選択に当って、ほとんどの市の構造部分が会社を選んだ。ひとり、組織として闘う姿勢を示したのは新日窒労組であり、市民組織の水俣病市民会議だけであった(労組の活動家も、市民会議を支えた)。
 チッソは機会あるごとに水俣病の補償問題にからめて破産・撤退をほのめかせる。それは第三者の立場を固持する自民党政府、熊本県当局を心底おびやかすものであろう。なぜなら、チッソを生かして補償金を生み出す他、PPPの原則(汚染者による補償責任)はまもり得ず、チッソが倒れれば、国・県はその負の遺産をそっくり引きつがなければならないからである。国庫から県債の形でチッソの水俣病に関する経費の肩代りをしていることも、チッソがそれを当然のように受け取っている事情もそこにある。表むきに環境行政を口にし、実体的には健保や老人医療の故意にみられるように福祉の後退を図る政府にとっては、チッソが倒産すれば鉄の陥穽にはまることを意味する。底なし沼の水俣病事件にあと総額いくらかかるか、いくらに押えこめるか、それが自民党政府の対策の底流の意識なのだ。

 いま水俣病事件の始末を図る政府と県は、棄却処分者の再申請・再々申請を防ぐためにボーダーライン層への医療費補助の策を練っている。被害者にとって最も切実な医療費の面倒を見ることで他の補償への途を絶つことである。それとセットで申請者の”棄却の口実をつくるためだけ”としか見えない検診への拒否者、忌避者への医療費補助(申請一年後から支給される)を打切ると通告してきている。検診を強権で促進させ、審査会で棄却し、棄却者のボーダーライン層は救い上げるとして、再申請や裁判による救済への方途を封じる策の立案中である。「誰だれがボーダーライン層に該当するのか、棄却者のどの部分に線を引くのか」と問う患者に対して、「知事の認めるもの」としかこたえていない。つまり悪意的に救済対象を決めうるのだ。つまり反抗的患者は排除する。大人しいものにのみ与える特典であるとにおわせ、患者の沈黙を強いている。
 これが行政の未処分者ゼロー水俣病事件解決策の見取図である。そしてここには主敵・チッソは全く介在していない。自民党政府と県の姿しかない。行政の患者切り捨ての布陣だけが寒々しく露呈している。
 かりに強行的に未処分者ゼロ(即ち殆どを棄却処分)にしおえたあと、残るのは協定書による少なからぬ支出である。だがこれはあくまで民法上のきめであり、契約を破棄できるものである。国・県の共同責任は用心深く回避されてきた。ゆえに末処分者がゼロになったとき、もはやチッソという自らの盾、水俣病解決-補償金支払いの当事者としての装置性はなくなることになる。極論すればかりに工場施設と労働者は残っても、企業としてのチッソ株式会社本体が消失することができる。もはや今日雇用源としてのチッソの威力は大きく減じている時代である。水俣病の幕引きにチッソの倒産で画期を策すことに全国の世論は反対するであろうか。むしろ当然と見るだろう。そしてチッソは全国各地の子会社、関連会社の中に溶け散ることができる。

 水俣の人びとにとって、水俣病事件を患者の増大-慰謝料めあてのニセ患者と白眼視している時代ではなくなりつつある。チッソの撤退が遠景にくっきりと想像できるいま、チッソなきあとの水俣の生き方を準備しなければならなくなる。思えば長年にわたってチッソによって変容された海、埋めたてられた毒だらけの埋立地、ほしいままに占有された工場、専用港などに代って、あるべき水俣の街、ふるさとの海山をどうイメージするかである。
 患者・被害民はあくまでも救われなければならない。水俣病事件は、われわれも求め、享受した物質文明のはてに倒され、病む人びとであり、その弱者としての労働、結婚、生活、そして老後、その全体の生と療養にかかわらないではすまされない。
 「十年、二十年、裁判すれど、申請すれど先のまっくらないま、せめて医療費など下されば…」と本心、そこまで落胆し窮迫しているのが犠牲者たちである。さきにのべた国・県のボーダーライン層への医療費支給はこの心情を逆手にとったものだ。ならば、さしあたり、不知火海沿岸住民のすべてに医療救済すべきであろう。地域認定ともいうべき原爆手帳のような策が立てられないはずはない。「にんげんの生活がしたい」それはすべての犠牲者の切実な共通の声なのだ。そのためには不知火海の人々の共生共死のよみがえりしかないであろう。それがなにかまだ見えがたい。
 近代史の中で、炭鉱閉山とともに消滅した町がある。長崎の軍艦島や北海道の中小鉱を見ればよい。しかし水俣にはもともと何があったのか。それを見ようとしはじめたのが「ふるさと水の会」であろう。患者さんの水俣病闘争に心ゆさぶられて水俣の地を選んできた若者も結婚し、子をなし、家庭をつくり、地域に同化しはじめた。
 水俣病センター相思社の十年は甘夏、堆肥、石けん運動を通じて地域の農漁民・市民と結びつき、実践学校(夏期講座)や生活学校(一年間の労働・学習)は若い定住生活者をうみ出した。もともとの水俣の海と畠と山の原風景と、人びとのチッソとは無縁な生活の営みに魅されたからであろう。患者多発地帯には水俣病ゆえにむすばれた、よそものと地ごろの人の出会いがあり、共生への手さぐりがある。その試みも十年を閲している。
 被害者の痛苦を軽重を問わず理解するのも患者なら、被害者であることだけで”認定”をまつ申請者に厳しいのも患者である。しかし同じ被害者であり、同じ水俣の地におこった事件の体験を同じくしている。必ずいつの日か同じ場でむすばれる日がくるだろう。それはチッソあっての水俣病補償に頼ることではなく、”水俣”あっての水俣病被害者の共生を考えなければならなくなるときである。”水俣”の名と実体を守りつづけて、水俣を再生させることしかない。そのための甦りの兆しを海の中に人びとの中にさがし求めるような映画を作りたいと思っている。
(八六・四・二〇・水俣にて)