もうひとつを見よ 「1987 土木典昭フィルモグラフイ」カタログ所収 初版2月6日 シグロ
「もうひとつを見よ」
私は映画のしごとにつくのが遅かった。職業としてそれを選ぶことにもためらいがあった。突然、記録映画の現場進行係(製作助手のようなもの)のくちがかかったのは満28歳のとき、結婚したくても金のない半失業者の頃である。
映画入りをすすめた岩波映画製作所の創始者のひとり、故吉野馨治氏は「君はカメラマン志望らしいが、体で覚えるしごとだから肉体的には若ければ若いほどよい。演出といっても、政治運動ひとすじに過してきた君にぴったりするかどうか。それよりオルガナイザーとしての経歴がその日から生かせる製作の見習いから入った方がよい」と言われた。
氏は東京・世田谷に住んでいた頃の垣根をへだてた隣りのおじさんだった。無口の人ながら、私にはカメラマンとしての自分の体験を戦時下の防空管制の不寝番のおりなどに話してくれたものだ。カメラマンになりたいと思ったのは吉野氏のひそみに倣ってのこともあったが、私なりに適性を考えてのことだ。「分析力と演鐸力はあるつもりだが、統合と帰納力には自信がない」だから作家たるよりカメラマンがむいているとのべたのだった。
さらに言えば、当時の岩波の作品のなかで眼からうろこの落ちる思いがしたのは羽仁進氏の『教室の子供たち』『絵を描く子どもたち』などの連作であり、氏の方法とともにカメラマン小村静夫氏のカメラに感銘していたからでもあった。一眼レフ系のカメラの機能を生かした望遠・長廻しのカットである。
その焦点深度をかえる指先のうごき、枠の変化のドラマ、パンのきっかけの心理的な必然性などは私を興奮させた。演出はカメラマンのこの個性を通過してはじめて光るものだとあらためて知らされた。
それもあるが、当時の私には”演出”への忌避のこころが働いていた。”政治”の運動を上から、中央からや演出もどき、をしていた自分への反省があったからである。
それまで私は抽象的な政治世界を文字でつづることが多かった。大学時代のビラ、立看描きから「早稲田大学新聞」記者、ついで全学連の「日本学生新問」「全学連情報」の発行名儀人と雑報・解説担当、そして日中友好協会本部事務局員のしごとなどがそれだ。そのどれもが、若輩にもかかわらず、本部や中央などに座っていたために背のびしてやらねばならぬことだった。統合力や洞察力、指導力も乏しいのにリーダーシップ(演出)をとることの空恐しさをたえず考えざるをえなかった。現場や地方で活動している人からの通信や批判、そのリアルな地を這うしごとの声音は丸ごと栄養としたかった。そうした人びとの生き方に対する憧憬があった。だから映画のしごとにあたって、監督とか演出とかになることにはおそれがあったのだ。
吉野馨治氏は私のその曲折を知らない。しかし、つかみの直感から私を製作のコースに据えた。なるほどとも思った。現場進行のしごとは撮影、照明、編集のすべてに通暁できるポジションであり、そこでカメラマンや照明・録音技師にも膚身で接しえた。そして一年、吉野氏は新たなTV企画室の責任者候補に私を選んだ。そのまますすめば、今日私はプロデューサーの道を歩んでいたかも知れない。しかし間もなく、ある事件をきっかけに再び現場にもどり、フリーとして働くことにした。
フリーとして喰いつなぐには来る仕事を選べなかった。仕事はテレビのドキュメンタリーが多かった。人間文化財や地方の変貌をとるといったもので、比較的自由につくれたことがはげみとなったが、10本前後の作品のうち、スポンサーに忌避されオクラになったものが2本、このときの危機感から、黒木和雄、小川紳介、東陽一ら演出グループ、鈴木達夫、大津幸四郎、田村正毅、奥村祐治らカメラマン、そして録音の久保田幸雄らとの「青の会」なる映像の研究サークルの母胎がうまれた。ここでは演出も技術もともに思想の運動、感性の練磨として、区別されることはなかった。
そんな頃、羽仁進氏の『不良少年』のスタッフに加わった。いわゆる監督のもとでの修業体験はこの羽仁氏のしごとだけである。
『不良少年』は劇形式ながら、演出の手法はドキュメンタリーそのものと言えた。出演者の少年達は、ほとんど少年刑務所や練馬鑑別所などの出身者だった。だれもが一時期の自分から脱皮し、みずみずしかった。羽仁氏は劇的な枠組みを設定しながら、かれらの心理と行動様式をひき出し、その発見を表現に変える手法を重んじた。当時、眼をみはる発想だった。この方法なら劇映画も面白いと思った。
ロケはかれらのかもし出すエネルギーと意表をつく”演技”、説明ぬきの心理変化、そのスピーディな場面転換で快調に進んだ。だが劇の形式はあるのである。回想シーンに、大人にからんだカツアゲがある。弱いものにとびかかっておどして金品をゆする、あれである。暴力よりスゴミが必要なのだ。すべてを彼らにまかせた再現シーンであった。このとき口調は一変する。肩つきも腰つきもすべて変る。独特のダミ声、それはセリフではなく生理的声音になる。荒さみのこころにひとたび沈降しなければ出てこないトーンであった。一転、不良にもどったのである。これが俳優ならば、すぐ平常にもどるのだが、そうはいかなかった。ヤサグレの生理にもどって出した肉声だけに、撮ったあとも少年たちには分裂した苦汁がのこった。羽仁氏はその沈うつな時間を、新宿にうつして、ひとつのシーンにまとめた。少年たちの気持ちの復元に即した、そして救いを暗示するすぐれた場面となった。が、この現場体験はあとあとまで私に残った。ドキュメンタリーと劇の位相の差としてである。いご、私はドキュメンタリーでしかとれない、言いかえればドキュメンタリーでは撮れないとされているものにドキュメンタリーの手法でどこまで迫れるか考えていきたいと決めた。
逆に言えば、私がドキュメンタリーをとる場合劇映画の形式がつねに意識され対位されている。そしてもし劇映画を選ぶときにはドキュメンタリーでは決して撮りえないものを核としたいと思う。この逆もまた真であろう。映画の可能性はまだ広い処女地をのこしているのだ。
私は人並に、にんげんなるものに、つきない興味をもつ。そのにんげんなるものには私じしんも含む。ナルシズムかも知れない。が、演出家、あるいは監督の道をあるいて、私はじしんを映画の可能性のベースに構成しないわけにはいかない。
しばしば、ひとの紹介のことばに常套語として「ミナマタの土本」といわれる。たしかにかれこれ20年余、14本の作品をのこし、なお今も次回作をつくっている。自分では一作たりとも自分の前作の自己模倣はしないと心に決めて作ってきた。しかし大テーマとしての水俣に束ねられている以上、右の呼称は当然である。だがいまだに最も怖いテーマである。水俣がこわい対象ではなく、連作の中にしのびよる自らの安坐が怖いのだ。だからこの20年、たえず座標軸を変えてみては水俣に回帰することをくり返してきた。原発のテーマもそれだし、海と人のテーマもそれである。他の海を暇さえあれば見聞するのも、水俣を相対化する試みからである。
視点を変えて見れば、絶対的と思われる事物がちがって見える。次回作「海は死なず」も死滅にひんする有機水銀づけの不知火海のイメージを切り裂き再表現したい気持からだ。あるいはいわゆる劇映画の創作に興味を抱きはじめるのも、”記録映画”を相対化する作業からかも知れない。亀井文夫氏の20年ぶりの作品「生物みなトモダチ」も人間と昆虫、さけ、鳥などとの視点交換がある。人間が自然界の霊長といったい誰が、いつ決めたのか、という思惟が新らしい。
「すべてを疑え」という科学者の眼がある。「すべてを愛せ」という信仰者の心がある。「すべてを見よ」というのが私たちの始まりであれば一生かかっても果しない。せめて「もうひとつを見よ」としたい。だがそれは必ず体制の視点、常識の眼、今までの保守的なるものに反逆することになる。望まずとも気ばらずとも、映画なる眼は変革を主題としてフイルムにとどめることになろう。
映画は「たかだか映画」である。「されど映画」と切り返すには今ひとつの新たな”自分”の生成がいる。私は「壮大ないたずら」こそ映画だと思う。もし毒と薬の混然とした、痛快で危機と楽天のないまざった「いたずらなるもの」をしかける映画ができれば、と思う。これがショウやブラウン管のなかの「いたずらもどき」ではなく、どこまで正攻法の挑発者たりうるか。ねがわくば破戒としての「いたずら」を創りたいのだ。
(1986.12)