三十年、「水俣は今」を考える  ブックレット『水俣病-その30年-』 初版4月25日 シグロ <1987年(昭62)>
 三十年、「水俣は今」を考える  ブックレット「水俣病-その30年-」初版4月25日 初版4月25日 シグロ 

 水俣病事件の異様さ

 この映画「水俣病ーその三〇年ー」は、その三十年の簡単な歴史と、三十年をへた今日の水俣をあつかっている。
 この映画でストックされているフィルムの山を前に水俣病の発見期から今日、とくに昨一九八六年の出来事までをビディオの”早送り”のように見てみると、環境庁や熊本県当局は、この三十年日をひとつの区切りとして、水俣病事件の幕をひこうとしていることを思い知らされた。あらためて、この三十年間に水俣のどこにもついに一つの慰霊碑すら建立されてこなかったことの異常さ、不可思議さを思う。それに気づかせてくれたのは日航ジャンボ機の墜落によるいたましい事故(死者五百二十人)の一年後、群馬県上野村の御巣鷹山の現地に建立された慰霊碑とその庭園、そしてそこに千七百人の遺族がつどい、日航とボーイング社の社長が合掌しているニュースによってだ。猟師道しかない山奥にしてこれが出来た。だが水俣には三十年たっても、患者田上義春さんとひとり芝居の砂田明さんのつくった乙女塚しかない。市やチッソのつくったものではない。

 人は変れど……

 人は変れど主変らずということばがある。チッソは加害者であり、患者は被害者であることには変りはない。しかし、毒としって有機水銀をたれ流していたチッソの当時の社長、工場長はじめ歴代の法人チッソの顔であった首脳は退職し、交替し、他界して鬼籍にうつりいまは当時を知らない中間管理職が患者さんの窓口となっている。「私はあの事件の頃はまだ子供でしたよ」とでもいいた気である。私が患者とともに会ったチッソ東京本社の役職のある人も、物腰は低いものの加害者の貌つきなど全くない。先輩や先代や先々代、いやもっと化石時代の社長たちのやったことで、いま、その責任を問われても、「すみません」としか言いようがないという表情だ。
 チッソをここまで援けつづけ、水銀汚染を放置したり、今日、患者を切り捨てている熊本県の公害部の事務官も、患者の声や要求にムッとするだけでなく、「私たちの立場ではですね」と、事情を知っている故に沈黙している部長をさしおき、役人風を吹かせる若いもんも出てきた。
 人は代わりに代わったが主である患者のひとりひとりは、この三十年水俣病の被害からのがれることも出来ずに生きてきたし、救済を求めてきた。疲れ果て、自暴自棄にならない方が不思議である。「支援の人が居ればこそ、はげみがでる……」とどの申請患者も言う。支援の人はその声に嬉しくもあり、痛みも感ずる。誰よりも一番苦しんでいわば、つねに断崖の上に佇んでいるのは患者たちである事を知っているからだ。
 水俣病の主(患者)の三十年の苦しみをよそに、いま水俣病事件を切りすてようという動きが相ついで出されている。この映画はその時期の到来を描いている。が、充分ではない。まだその全貌が充分に見えず、映画で撮りきれていないからだ。
 この小冊子はそれを補うために作られている。どうか私たちの意を汲んでいただきたい。
 
 水俣病三十年目の現実

 映画の初めの方に、巡礼の御詠歌の流れる物故者慰霊祭の会場がうつし出される。千人収容の水俣市文化会館のホールに空席の白じらしさをご覧になってどう思われたか。患者、支援者、そして三十年記念行事に全国からあつまった参加者が目立つ。水俣市民の参加者、水俣の認定患者と申請患者四千人というのに、その人たちは来ない。水俣市長はメッセージを文章で寄せたが、とても市全体の行事としての扱いではない。ましてチッソの参加はゼロである。この会場の寒ざむしさに肩を落していた浜元二徳さん(アジアと水俣を結ぶ会・患者)、会場を見ることもさけ、眼を伏せている患者運動のリーダー・川本輝夫さんなどの姿は象徴的に、いまの水俣の被害者たちが今も差別と無視にさいなまれていることを示している。この日の救いは、自作の歌をうたい、水俣病の悲劇をくり返すなとうったえた水俣病多発地帯(袋地区)の生徒、数十人の登場であり、この生徒に水俣病教育をほどこし、ともにこの歴史的教訓に学ぼうと努めてきた若い教師たちの参加だった。心の落ちこむばかりの慰霊祭に、この子らは劇的に歌で花を献じた。鳴咽しつつ、歌をとぎらせながら紅潮した頬をあげ、ガランとした数百の空席にむけてうたった。
 水俣病三十年、この日は子供たちが公然と水俣病事件を背負って壇上に立った画期的な日と、私は泣いた。
 三十年行事の中心となったのは、三日間にわたってもたれた「アジア民衆環境会議」である。この映画では、その提唱者、浜元二徳さんの個人史にふれて紹介するにとどめたが、いずれ詳しく次回作品で描くつもりでいる。忘れがたいのは、前述の水俣の生徒が、アジアの環境汚染地からの代表に、つつましくサインと握手を求めた光景である。フィリッピンのミンダナオ島からの婦人学者、インドのガス中毒事件の発生したポパールの婦人活動家との間に、母と娘のような情愛と信じあい、親しみあいが、すでに成り立っていた。水俣、MINAMATAというところであればこそ、こうした濃い関係が一挙に生まれるのだ。水俣の人は、アジア、いや世界の注目の地の住民であることを知らない。当然であろう。それは水俣病が世界につきだした問題の深さ、衝撃度、そして歴史的に意味を鮮かにしつつある水俣病事件を一旦、距離をおいて学びとらなければ見えてこないものだ。三十年はその転機になってほしいと思う。いわゆる水俣大学をつくろうとする動きも底流ではひとつにつながっている。水俣はある教育的な核心をそなえた地に変貌しつつあるのだ。

 傷害、殺人事件としての水俣病

 だが水俣病事件の足枷はますます重く、事態は患者、被害者の切り捨てにむかっている。「水俣病は、病気ではない。見苦しかばってん、病気、病人と思うばってん、水俣病事件は傷害、殺人事件なのだ」と川本輝夫さんは断言的にこの映画の中でのべている。「その証左にチッソ刑事事件がある」という。一九七六年に患者の告訴によって立件されたこの事件は、水俣病事件のピークの頃、ネコ実験や工場排水の有毒物質によって当然、予見しうる悲劇を知りながら排水停止をしなかったのみか、排水口を水俣川河口に変更したことにより被害者を生んだことに対し、一審・二審とも「業務上過失致死罪」と断定している。いま最高裁で審理中だがおそらく否定することはないであろう。水俣病事件史は傷害、殺人事件であって、不治の病にせよエイズのような疾病ではなく、防ぎえたし、今後も発生をとめられる質の企業犯罪事件であるとほぼ公認されているのである。では何故、川本さんが声を大にして、あえて、それを繰返しのべねばならないのかである。
 「多分、患者ひとりひとりにとっては、見苦しかという思いがぬぐい切れんのでしょうな」と川本さんは言う。犯人が毒を一服盛ったにひとしいのに、被害者はそう思えない。毒をくつたつもりは毛頭なく、漁民も市民も誰彼なく、生命の糧として、魚を喰べ、栄養を求めてカキや魚のわたまで味賞した結果だからだ。「丈夫で元気に育つようにとかえってたくさん魚介類をたべさせたから、病児を死に追いやった」と母親は悲しむ。こどもが自分の手でたべたにせよスプーンで与えたにせよ、あるいは母親が腹の中の子を思ってせっせと栄養を摂ったにせよ、犯人が口をむりに開かせてたべさせたのではなく、毒性をもっていた魚介類を自分で食べたーその当時のすこやかな食欲と満足感を自分の体で覚えている人たちである。その因果関係の記憶が、自殺行為、自害行為として後悔されることはあっても、殺人・傷害とストレートに結びつきかねる。これが、救済を求めるとき、治療してほしい「病気」「体の不自由」となるのであろう。「金は要らん、もとの体にしてもどしてくれろ」「何とか働けるだけの体に治療してくれろ」ということにつきるという声をいくたび聞いたことか。「宇宙にまでロケットのいく時代に、水銀は体から流し出してくれる薬も出けんとや。医者が本気になれば開発できんわけはなかと思うが、怠けとるんじゃなかや」
 医学研究者は、一九六〇年には、有機水銀の毒性を解明し論文化していた。つまり脳神経細胞は一旦冒されたら絶対に再生しない。脱落からまぬかれた残余の細胞活動を少しでも活発化する、つまりリハビリ効果によってより悪化を防ぐ外ないことが分っていた。
 患者のこのもとめにほぼ医学・薬学は無力であった。当時の熊本大学の水俣病研究班の一員である病理学の武内忠男氏は「水俣病の原因をつきとめて、それが有機水銀であることが分ったときから、脳の病変、神経細胞の脱落は解明できた。それと同時に、治療の方法のないことを認識せざるを得なかった」という(映画「水俣病=その20年=」より)。
 この医学的知見が発表されてからいご数年に及んで、なおもチッソは大量に水銀を使用、廃水を流しつづけた。そしてこの製法により市場の中で独占的なビニールの可塑剤をつくり巨利を得てきた。この間のチッソの行為を川本さんは「殺人・傷害」と見なし、その責任を問うている。この原点にもどって、水俣病問題を考えなければ、一地方でひとりでに起きた疫病と変らなくなる。疫病でない人為的な事件だという見地に立って、はじめて、「二度とくり返さない」というにあたいする解決が導き出されるというのだ。現実に不知火海には、かりに有機水銀の発症閾値二百ミリグラムとして、二十三億人分の四百六十トンが流出している。その疫学的基礎資料は厳然たるものだ。

 市民の偏見と無関心の狭間で

 今の水俣は、極端に不景気だろうか。たとえば筑豊の廃礦地帯や、高島炭礦しかなかった町、つぶれていく鉄鋼、造船の城下町の今後の姿と重ね合わせて考えるとき、水俣の不景気さはチョボチョボだという気がする。
 水俣病が漁村住民を直撃したとき、「水俣病患者を出すな、魚がうれなくなる」と漁村の中ですら患者かくしがあった。水俣の漁業は大打撃をうけたまま産業指数一%以下に低落した。市民も水俣病問題があるから水俣は浮上できないのだと信じこむ風がある。三万人都市らしい外観と暮しぶりは、この三十年、水俣にも流れてきた。病院のビルラッシュ、大手スーパー寿屋の進出と、チッソ系の水光社は競って流通を独占し、地場の商店を衰退させた。一方で、消費とサービス部門は着々と増大した。チッソの雇用の減少に代って、シリコン産業や縫製工場が奥さん層の労働力を吸収し、ヘドロ埋立工事に関連する土木建設、運搬運輸が伸びてきた。若者のUターンも見られるようになった。つまり特殊な陥没地帯ではなく、地方都市一般の表情を見せている。ただし水俣病問題はノドに刺ったトゲである。
 映画の冒頭のインタビューは、相手を選ばずに市民にきいたものだ。やはり水俣病への偏見がストレートに出る。
 「困ったもんだと思う」と皆いう。なかには 「どうもニセ患者がいるらしか」とか 「わしらは関係なか、医者どんが”棄却”といえば水俣病じゃないということで、とやかく言うことじゃない」といった縁切りじみた声もある。だが多くはない。「一日も早く終ってほしいーしかしあとあとまでつづきそうに思う」という感想が圧倒的に多い。「水俣という名前がいやだ。病名をかえてほしい」とほとんどの人が思っている。
 インタビューの時期、水俣病二次訴訟第二審、不作為裁判第二審、棄却取消裁判第一審がことごとく、原告患者の勝訴に終った。国・熊本県は上告し、解決を先送りした。この確かな勝訴現象にもかかわらず、誰しも問題解決の進展を楽観視できないでいる。「国・県ももう争わんと判決に服したらよさそうなものなのに」と答えたのは、公害教育をうけた高校生男子だけであった。つまり、裁判の舞台は庶民の眼のとどかぬところにある、自分たちのとやかく言うべき問題ではないというのが最も共通した答えである。この無関心の層の中からどうして慰霊碑の発想が生まれることがあろう。市民の数人にひとりは認定患者、もしくは申請中の患者である現実とこの空漠たる放心状態はどうつながっているのであろう。「水俣病の解決は、国や県のなさること。わしらには手も足も出されん」という市民意識が形成されてからすでに二十数年、市民の手による解決などは夢のまた夢だからだ。

 チッソの現在

 水俣病事件をひきおこしたチッソはいまどうか。この会社に押された加害者の烙印は年一年と薄らいできているようだ。熊本県・鹿児島県合わせて約二千名の認定患者の補償に当って、チッソは一九七八年いらい国からの資金を熊本県の県債の形で借りてこれに当てている。八六年までに十六回計三百八十一億円にのぼる。チッソ援護のために策を立てた自民党政府や県議員団の中から、もはや県債の追加打切りの姿勢が示されている。八八年限りとする意向がつよい。だがチッソはさまで意に介していない。チッソが倒れれば、この事件の始末のつけはまともに国と熊本県当局に廻される。だからチッソは言外に常に、「それは覚悟なさっておられるか」と念を押している構図なのだ。その事情を新日窒労働組合委員長・山下善寛氏はこうのべている。”水俣病で企業存続”という文章のなかにー「水銀をたれ流し、水俣病を発生させたチッソは水俣病によって企業としての存続が困難になったといわれるが、この十年間、チッソは皮肉にも、水俣病によって企業活動がつづけられているといっても過言ではない。(中略)昭和三十年代の水俣病の様子を知る人は水俣工場はこんなに変ったのかと思われるほど古い設備は解体され、整備されている。合成工場跡にはVTR用の磁性材工場が新設され、水俣病を発生させた酢酸工場跡地にはIC(注:集積回路)の原料工場の建設が、旧ガス課跡地にはRFシリカの工場建設が進められている。これら新工場新設に伴う約二十億円の費用は『水俣病補償金支払いのための県債を返済するため』という名目で国・県・銀行などの金融支援によるものである」(「水俣」患者とともにー八六年四月号)
 ちなみにチッソ会社の八六年三月期決算における経常利益は二十七億一千七百万円と前期より十億円も伸している。蓄積されたチッソの技術力によって液晶などをはじめハイテク時代の新素材開発に力をそそぐ一方、水俣病問題の当事者は旧新日窒一社である歴史的な経過をよいことに、千葉県五井のチッソ石油化学株式会社をはじめ全額或いは折半の出資により二十四の子会社・系列会社をつくり、技術と資力を分散・独立させ、直系工場は水俣の外、水島工場だけに限った。そして社是を国連の「人間環境宣言」より借用し環境最重視を打ち出している。ここで勘ぐれば、環境を重視するがゆえに、やむなく水俣を撤退することも潔よしとするという転身すら可能である。資本の分散をとことん進めた今、一工場にすぎないチッソをつぶすことは、全チッソコンツェルンからすれば、古びたものの「足切り」にすぎないであろう。水俣に存在しつづける形で企業責任をとる他はないと明言しつつも、一方では水俣撤退による空洞化をもはやおそれていない。それをするのもしないのもチッソにとっては、「水俣市民の出方しだい」と暗に言っているのだ。

 ”チッソ化”する裁判

 チッソは水俣病を予見できなかったことで、故意や分っていた上での過失ではないと、裁判ごとに主張してきた。有機水銀の被害者には「それ相応の補償」はする。だが、誰にも一律というのは不合理だ。労災や交通事故の場合にも指一本ならいくら、死亡ならいくらとランクがあるはずだ。そして慰謝料を支払う以上、いわゆる生活年金や、終身の医療費負担などはそれにふくまれているとして、いままでの補償の常識を外れた過分の要求であるとの考えをかくさなかった。
 一九七三年三月の水俣病裁判と、そのあとの患者の運動によって、やむなく、裁判で出た一千六百万から一千八百万円の慰謝料をみとめるとともに、いわゆる生涯年金と治療費をしぶしぶ承知したものの、心底承服していたわけではない。
 チッソの見通しによれば、当時、四百人ほどの患者ではおさまりそうもないであろうが、究極のところ千五百人と踏んで対策を練ってきたふしがある。七三年の協定書の適用人員をその線以内にしぼるには、認定審査会という関門で操作してもらうほかないと考えていたようだ。
 一九七〇年代、申請者は急激にふえた。申請者の総数のべ一万五千人。これはチッソの見通しを根本から狂わすものであった。認定患者が千五百人に近づくにつれて国・県もさまざまの対策に追われた。主には棄却率を高める、つまり水俣病の判断基準を厳しくすることに躍起になり、何千人が棄却されていった。裁判の”チッソ化”も見事に進んだ。水俣病第二次訴訟は待たされつづけている申請者(保留者を含む)十四名とチッソとの間で争われ十四名中、十二名が裁判で水俣病とみとめられた。この一審判決ですでに、最低五百万という低額が判定された。チッソはこれを不服として二審にもちこみ、一審より更に低額にする判決を手に入れる一方、生活年金、医療費などの支給をみとめた協定書は「軽い患者をも予想したものではない」として、チッソの宿願である年金と医療費の負担を「法の下に」まぬがれることが出来た。十年の裁判の結果、今までの慰謝料の二分のー、三分の一に落され、しかも、生活・医療の既得権を消滅されたのである。

 ”始末”されようとする水俣病

 一九五九年、悪名高い見舞金契約で事件を処理した時点からはじまった医学者(”プロ”水俣病権威者)による患者の篩いわけからはじまる認定審査会のチッソ化、ついで厚生省・環境庁をとりこんでの国のチッソ化、熊本県のチッソ化とつみ上げた上で、水俣病事件は、国家権力、県行政権力対患者の対立となっている。
 チッソは国・県当局を患者の前面に立てて、チッソじしんは後方にしりぞいて事態に裏からかかわる。これが三十年をへた水俣病事件の今日の構図なのである。
 では患者はどこで闘えたかーである。裁判による闘いは、つねに法廷代理人の争いであり、原告の被害者は、定められた原告席をとび出すわけにはいかない。裁判の場を選んだ以上、その場に制約されるのは当然の約束事である。この十年、勝訴につぐ勝訴にかかわらず、すべては上級審さらに最高裁送りにされて解決をひきのばされるのを坐視する他はない。チッソとの直接闘争のような流動的で革命的な変化は起らないのである。殺人・傷害者であるチッソと直面して切りむすぶときの被害者の怨念は裁判にあけくれたこの十年、色うせた旗色にしかならなかった。政府と熊本県はこの機会をまっていたように、水俣病始末を打ち出してきた。

 裁判の空虚な実体

 この映画を撮影中も、申請者は環境庁に、判決にしたがい上告をとりやめ、即刻、解決の策をとることを要求し、坐り込みも辞さない気構えであったが、環境庁は門をとざし、警察は道路交通妨害とか不退去罪で患者・支援者を追い散らした。徹底して抗議行動すれば公務執行妨害罪、暴行罪で訴えられる。そのあと受けて立つ裁判の難儀は耐えがたい。
 この三十年に水俣病事件にかかわる二十一の裁判が争われた。そのうち十六件が勝訴の経過を見ていることだけとってもこの水俣病事件をたてにつらぬく患者・被害者の立場の優位性は歴史的に認知されてきたといえよう。敗訴となったものの最近の事例は熊本県議会におけるニセ患者発言に抗議したことから立件されたいわゆる一九七五年の謀圧事件裁判である。
 県議会の公害対策特別委員会の委員長(病院長である)、自民党県議杉村国夫らは環境庁への圧力をかけるための陳情の場で、「水俣病申請者には補償金目当てのニセ患者がいる」との暴言をはいた。この背景には経団連や自民党の水俣病つぶしの世論操作が組み上げられておりその一環であった。患者が激昂したのは当然である。
 県議会は患者の抗議の陳情を一方的にうち切り、その間の二分間のもみ合いに対し、のちに患者・支援者各二名、計四名を公務執行妨害罪でタイ捕の上起訴した。いらい十一年、一、二審判決も、これを有罪とし、最高裁への上告をもって争うことを余儀なくされた。
 水俣病の三十年行事の間近い八六年四月十八日、福岡高裁判決の日、被告四名は法廷の中で判決に耳を傾けていたが、そこには暴行の共同謀議についての細部の例証がのべられるのみで事件の原因となったニセ患者発言とその名誉キ損にはついに言及されることなく控訴を棄却し、一審の有罪判決をみとめた。映画では二人の患者被告の静かな述懐をとどめている。
 被告のひとり、元申請患者協議会会長の緒方正人さんは 「水俣病事件そのものを語らない判決とは、つまり”水俣病は事実としてあったこと”を意図的に避けている点で、裁判長じしん私たちの水俣病を少しでも知ってもらおうという被告としての切実な願いをうけ容れなかったことだ。悲しいのはこの裁判の場でひととしての耳をもつ人間なるものに十一年かかっても出遭えなかったことだ」。むしろ裁判長をすら人間として哀れむ心情がある。坂本登さんは 「警察にとらわれれば悪いことをしたのだとまわりには思われる。それは”過激派”患者としてだった」と。
 チッソとの対話もなく、環境庁、熊本県庁のあしらいに、一すじの人間味さえ見ることなく、数年、法廷で条理と証拠をつくして語った水俣病事件の意味すら黙殺される。それだけに、訴えの勝敗をこえて、裁判なるものの実体は空しいものであったのだ。

 棄却のさらなる進行

 数千人にのぼる申請者たちは、いま国・県がこの二、三年内に水俣病患者を始末する気だと直感的に感じている。検診に対する強制がはじまった。それというのも、それまであまりに狭められた水俣病の認定基準、その症状のひろう検診センターの”ニセ患者”視とズサンなデータぞろえに抗して、この十年、認定制度そのものの見直しを迫るため、検診そのものを拒否することで不信を表明してきた。ふつう手続としては検診を受けなければ次の認定審査に回されない。その当然の不利を承知の上の”ストライキ”だった。それほど検診は”ニセ患者”の疑いの中でされてきたのだ。
 これに手をやいた熊本県は、検診拒否者にまで、ふつうの申請者なみの”恩典”を与えるのは不公平、不当として、医療費の補助(国民保険のうち本人負担分に対する支給分)を打切ると通告、これとセットにして驚くべき方針をうち出した。ムチに対するアメを画に描いたような案、「ボーダーライン層への救済策」である。
 棄却はするが、「ボーダーラインと思われる病人」、つまりかつては、「有機水銀の影響のあることを否定できないものは認定せよ」とした一九七一年の環境庁通達で、当時なら認定されたと同じ症度と思われるボーダーライン層の人々に対して、棄却の上、県のみとめるもの、つまり、再申請などして県をわずらわせるおそれのないものに、当面三年を限度として、今まで通り医療費を補助しつづけるというものである。なんと露骨きわまる利益誘導であろう。
 それはただちに実施された。
 一九八六年九月の新方式の認定審査会を機に県は九十三人中四人を認定し、あと八十九名を棄却し、ボーダーライン層として六十三人に医療費継続の処置をとった。くどいようだが、これを受け入れれば再申請はできない。水俣病の被害者としての発言の資格は失い、三年間だけ、医療費をうける「元棄却者・ボーダーライン該当者」になる。
 水俣病問題の終りとは、申請者、末処分者がゼロになることだとすれば、もうすでに、すざまじい手口での引き算が仕掛けられてきている。

 不知火海の棄民史の新たな幕明け

 この映画の中で、離島、御所浦町の申請者が足をひきずり、海にも出れず、町役場に訴え出れば、「生活保護をもらえ」といわれ、もつれる口できっぱりと「生活保護だけは、たとえ草の根かじってでも、貰おうごとはなか」ということばを記録している。生活の崩壊に悩みながらも、人間としての誇り、地域にすむものとしての意地までくだくものへの抗議の声として哀切を極める。
 不知火海沿岸に、今後、かつて申請者であった人が「棄却者の何某」としてるいるいと放り出されていくことになろう。
 棄却者の格印は、周辺には必ず「ニセ患者」の証明のように機能する。そうした人びとの集団が、自分たちを「棄民の群」と見なしていることに気づいたとき、どのような爆発力が蓄積されるかー五年後、十年後の、怨念の日を予感しないではいられない。
 緒方正人さんは言う。「認定される人が水俣病なのか、事実、水銀汚染された人が水俣病なのか。水俣病は権力の判断で、あったり無かったりするものではない」。一家全滅の水俣病一族の中で、六歳のときすでに百六十五ppmの毛髪中水銀のあった緒方さんは、狂死した父の幻影とともに申請者の代表者として二十から三十歳台の日々を行政と裁判との闘いであけくれた上、申請者であることを自ら返上した。この人の物語は次の映画で語るつもりである。つまり彼を申請者のリストから訣別させた情念は、国・県・チッソへの根底からの失望と、棄民の自覚であろう。
 「俺は患者である前に人間だ。チッソよ、加害者である前に自らが人間であることを見せてほしい。その時、私は許すことが出来る」と言う。それは、自分に有罪を宣告した裁判長にその人間性を問いかけた思想と同じである。
 自覚した棄民、そのギリギリからの闘いがいかに、つよく、切迫し、魂をうごかすものであるかを私たちはよく承知している。川本輝夫さんらの自主交渉の奇跡をみているからだ。
 そして、今までじっとオシンの心情でまっていた人びとは変るであろう。それを準備しているのが、他ならぬ、国や県だという歴史の皮肉がめぐってこないと誰がいえよう。
 映画をとってきたこの二十年、信じがたいことが起りつづけたのが、私にとっての水俣病事件史であったからだ。チッソも、国や県の現在の担当者、責任者は「代が替りました」といって済むであろうか。三十年の歴史をひもとくことを心からすすめたい。
 あえていえば今日に似た情況が一九五九年(昭和三四年)にあっった。百名足らずの患者互助会が、十年ののち、再起し、水俣病事件を自らの手で切り開いた。もはや後のない戦いであり、支援者も少なかった。
 水俣病の何たるかも、チッソ・国・県の犯罪性も理論的に明らかでない頃、支援団体、水俣病対策市民会議、熊本の水俣病を告発する会の限られた人数によって、資料が編まれ、調査がつみあげられ、患者の声を採録して小さな新聞「告発」はつくられた。すべてが零からのスタートに等しかった。しかし今はちがう。水俣病事件史は少からぬ蓄積を果した。二十一の裁判の記録、数万点をこえる水俣病事件資料集。文学、演劇、音楽、詩、絵画、写真、TV記録、そして映画と他の公害事件にぬきんずる表現と記録活動がのこされ、いまもつづいている。
 この映画でその一端を紹介できたように、世界のミナマタ、コーガイの原点としての水俣の啓示は日を追い、年毎に世界とりわけアジア、第三世界の人々に知られ、人びとを水俣に招く力となっている。
 水俣病事件の勢いの波の高低は、いま日本の公害事件、地球汚染にかかわるすべての運動と連動している。もし水俣病事件が封じこめられるとしたら、この歴史的事件を機に一斉に日本列島株式会社なるものの矛盾をあばき出した何千万人ともいうべき人びとへの攻撃であることをかれらに気づかせるだろう。それは日本全国の反自然、反人間に対する人々の戦い全体を封じこむことだと知ることなのだ。
 巨大産業、先端技術、核エネルギーと、とめどもない反人間文明への最初の警告は、原爆を別とすれば、水俣病事件がはじめてであった。そこまでは、水俣病はすでにこの警告を教訓化しているといえる。
 いま水俣、不知火海の被害者たちは、くりかえして言うが、新たな策略による新たな棄民にされている。しかし、この間、全国いたるところに、何と一斉に棄民が作られてきたことか。しかも、自分は棄民ーという、使い棄てられたものの強烈な自覚にささえられている。
 国鉄問題で人権までもてあそばれた国鉄労働者、中高年層で家庭の担い手として最も重い時期に流亡を強いられる製鉄、造船、炭鉱の労働者とその家族たち、そして遠くない将来、米作農民、果樹経営者、牧畜、養殖漁業者に円高と市場開放による巨大な棄民化が進行しよう。水俣の棄民集団がそのなかでも、怨念の重さ厚さにおいて群をぬくものであることは変らない。ここに不知火海の棄民史の新たな暮明けが見える。
 映画の終りに、緒方さんは、空からはじめてチッソ工場を見て叫ぶ「これは残しておくべきだ」と。つまり人間の愚行の見本として、アウシュビッツが残され、ヒロシマの原爆ドームが残されたように、チッソ工場とその廃水残渣プールも、そのまま、後の人の喚起力のために残したいというのだ。この着想は遠い先を読んでのことではなかろうか。ここに新棄民としての、闇のむこうの未来からのおそろしいほどの希望の声音を聞く思いがしたのである、「闇のあとに陽はまたのぼる」と。 
 (一九八七・三・二〇)