亀井文夫の“埋葬”者はだれか 第3次季刊『辺境4』 7月1日 記録社 <1987年(昭62)>
 亀井文夫の“埋葬”者はだれか 第3次季刊「辺境4」 7月1日 記録社 

 戦前、戦中、戦後を記録映画一筋に生きてきた亀井文夫氏は、私などのように敗戦後の高度成長期に映画界に流入したものにとっては、ただ唯畏敬の人であった。それも祖父への孫の情に似ていた。映画界に入っての最初の一年(一九五六年)、起居をともにし、以後師事する人のひとりとなった撮影監督・瀬川順一氏は、『戦ふ兵隊』のカメラマン三木茂氏の助手として親しく亀井氏からその作り方の一ぶしじゅうを学んだ人である。その彼の語る亀井氏のドキュメンタリー論は、当時渇えていた私を潤してやまなかった。文字通り孫引きのような学び方をして来たことから、「孫の世代」といってもいいであろう。
 若輩の私に対し、こと映画論、とりわけドキュメンタリー論の論議については手心を加えない瀬川さんは、卵とはいえ演出者の殻をもった私を前にして、演出とカメラの間の”矛盾”、撮影の現場と編集・構成との”矛盾”といった、今も解きつくされてはいない問題を、かつての『戦ふ兵隊』の映画体験にひきつけながら、その体験をいまのドキュメンタリー映画の焦点として反復反唱する必要があると考えておられたのであろう。
 
 戦前からの記録映画の小史を無知のまま棚上げしてその論争にふけった頃、伝説的な東宝映画文化映画部の黄金時代なるものを想定し、その中から亀井氏をはじめ戦後、記録映画をリードした人びとが輩出したと思っていたが、事情は私の映画に入ったころと全く同じといってよかった。より悪かったともいえる。文化映画部は本篇の劇映画から外されたり、見込なしといわれた人の溜り場である一方、新分野でもある戦場映画(大陸映画とも言った)づくりの場でもあって、会社に入りたての編集者を起用した。心のどこかで華めいた劇映画へのコンプレックスがあったと、亀井氏は当時の職場を回想している。その中にあって、劇より記録(文化)映画の「画で語る」カに魅せられたベテランカメラマンや、ニユース映画をこえる記録性を獲得したカメラマンが育った。そのういういしい昂揚期に瀬川氏は撮影を志し、亀井氏は三十歳前後にして、『怒涛を蹴って』や『上海』によって、にわかにドル箱演出者の地位を手中にしたのであった。この成功をテコに、ドキュメンタリー研究の空気が醸成されたことになる。このことは、十数年のち、PR映画の世界で、やや潤沢な撮影条件で、いろいろな試みが競われるようになった戦後と事情が相似ていたのである。と同時に、制約の厳しさも共通していた。一方が戦争に対する軍部の目的意識性なら、私たちの当面していたのは製鉄、ダム、電力企業のそれの広報活動である。その制約の中で、いかに作り手の意識を、せめて『戦ふ兵隊』の爪の垢ほどもとりこめるものかーそれが亀井氏の方法論に切実に学びたかった私の願いである。
 当時、氏の『砂川三部作』や『生きていてよかった』は勿論見て学んだが、どこかで、運動の目的意識性に傾いていて、『戦ふ兵隊』の条件下のように一カット一カットのシャープなカット(映像)とその構成に比べ、ともに甘さがみうけられて、傑作とか古典とかの印象は受けなかった。
 こんなとき「カメラ・ルーペ論争」を瀬川さんから聞かされた。それは自立していて、それだけで圧倒的なワン・カットの獲得という、カメラマンとしての猟犬のような本能とないまざっての論だけに、仮想敵たる演出者に私が立たされての苛烈な話でもあった。
 当時、現場はカメラ部だけという事情と、「ルーペ」とは画面のフレームを切るファインダーのことで、撮影中はカメラマンの他、助手はもとより、演出者も分らない”画面”、つまりカメラマンの独壇場の話をめぐる論なのである。たまたまある座談会で亀井氏の発言した「カメラマン・ルーペ論」は三木茂氏の猛然たる反論を招いた。「キャメラマンはルーペ(ファインダーと同じ)からしかものを見ない。目隠しされた馬のようなものだ。それは当然なことなのだが、だからこそ演出者が、役や側面の世界を見る為に必要になる」という亀井氏の発言に対し、撮影監督のベテランたる三木氏は次のように反論した。ルーペから見るのはカメラマンとして至極当然としたうえで、当節の演出者が「理屈を言えるものなら誰でも演出者になれるのが現状」であることを嘆き、「映画演出の教養の低い、そしてルーペの何たるやも知らない演出家たちに、このカメラルーペ説を鵜呑みにされることは断じて認められない」として、「カメラで物を見せるという技術はカメラのルーペを心得ていなくては出来ない」と痛烈に映像のメカニズムへの固執に畏敬をもたない自称演出家群にむくいた。それはカメラマン陣営と演出家陣営の戦いであり、企業体質批判をも含むものであった。(この間題についてはまた機会を改めてのべたい。)
 瀬川氏の亀井文夫論には、この三木氏への共感にもとづく映像論としての批評が色濃くあった。即ち、亀井氏の卓抜した編集・構成者としての資質と、才能への敬意を惜しまぬながら、同時に、映像を、構成の部品と称してはばからない亀井氏に対し、映像の従属性からの復権、作家の手駒の地位におかれて来たカメラマンの主体性の確立を瀬川氏は主張したのである。
 だから「『上海』は企画のよしあしや撮影者用のシノプシス通りにとることによって成功したのか?」「ひとえに三木茂のカメラの固執した映像の確かさによって成立したのではなかったか。」「『戦ふ兵隊』も三木氏のカメラアイなしでは出来なかった!そして同時に、この作品の場合、亀井氏がはじめて現場での当意即妙な着想と被写体たる(兵隊-将校を含め)との関係づくりという(演出と撮影の掛算)あっての成功ではなかったか」という問題提起として語ったのである。それらの論点を介して私は亀井像を組み立て、自分の拠るべきスタッフ論をまさぐってきた。その意味で、亀井氏は瀬川氏というカメラマソのフィルターを通して、ユニークに私たちにうけつがれたといってよい。そして今も確乎として私の師なのである。

 紙数に限りがあるので、ある結論めいた印象から言うと、亀井氏は現場においても、対象を自分の映画世界に同化させる資質・能力をもっていて、つまり人格のすべてにおいて、ドキュメンタリー作家としての圧倒的な個性にめぐまれていたこと、それに加えて、処女作いらい、その本領を構成と編集にあると氏自ら信じて疑わなかった人と思われる。それほどに編集による映画的構成の魅力を味わいつくした作家だったとも言える。
 戦争と文化の肥大という皮肉な好条件のなかで、個性的なスタートを切るときから、作家の内なる得手を思想表現の手段として捕捉し、きたえ磨きあげたのが、構成・編集カにあったとしても当然であろう。その奔放な想像力から言えばいくらカメラマンを信じ評価したとしても、シーンを見るまでは、つまり編集台上の素材として相対するまでは気を許さなかったのではなかろうか。それはスタッフとして、カメラマンを愛することとは別の本能だと考えていたに違いない。そこにどうつなぎようもない両者の違いの自覚、そこから来る作家としての孤独、そして反面、それではもともと成立しがたい映画なるものへの模索が最後まで氏を悩ませつづけたのではなかろうか。映画の集団化が一つの小さいとはいえ会社になった。その日本ドキュメントフィルムが二十余年ぶりというか、その時間をもつことを許されて、長い空白をへた上で映画がつくられたことじたい大変なことであろう。

 話を一挙に『トリ・ムシ・サカナの子守唄』に移そう。この作品に亀井氏の進歩、退歩を言う人もいる。「変った」との評もある。だが私は氏の精神と肉体の最後の燃やし方として、最も自発的で何の規制も約束もないこの作品にその構成・編集力のみを賭したことに、亀井ドキュメンタリーのある一貫性を見ないわけにはいかない。二時間半をこえる厖大な鏡舌体を”見せること”に腐心した魂は変っていない。

 映画をつくり出すエネルギーの根源は人によりちがう。私などはその過程の発見性と、思考錯誤をあえて反転のたのしみにかえる生理がある。作品の思想性はそのプロセスから生まれるもので、あらかじめの”構文”はもたない。予定原稿的なシナリオやその完全性への反撥がある。そのため「何を言いたい」のか「何の役に立つのか」が分らない映画も出来る。そのオトシ穴からいまだに脱し得ない。自分の甲らに似せて穴を掘るのたとえに即して亀井氏の作品を見るとき、まず「言うべきこと」「語り継ぐべきこと」「世に一石を投ずべきこと」がくっきりとあること、その姿勢の端然さにおどろくのである。亀井氏の連作にみる、使命感とも思えるメッセージ発言の源には、自らの人間性、その眼識、映画美学、映像心理学など、つまり映画の文体(俳句的叙述への傾斜を含め)がある。映画作家としての生と作品の赤い糸は一貫しているのであって、時の党派的見解や方針、組織運動論とは不即不離ではあっても、一卵性双生児ではありえない。そのおのれを識るがゆえに政治、党派運動には謙虚さを失わなかった人である。ときに、「私は反戦作家ではない」「戦争中は傍観者であった」「私は新聞の投書欄に筆をとるごとく私の映画を提出したい」ということばにみる「革命家たち」へのまぶしさは、ほぼその通りにうけとることができる。
 すでに多くの人びとが指摘しているように、「あるテーマを逆手にとったときに亀井氏はその本領を発揮する。」「風潮に染まるとかパターンに乗っかることを避けてきた。自分に忠実のあまり一匹狼にしかなりえなかった」といわれる。(野田真吉、勅使河原宏のことばより)その軌跡としてはいかに共産党への加担者でありつづけたことか。
 戦時中の作品への姿勢も、戦後の運動への姿勢も、そして二十数年の空白をへて総大成した『トリ・ムシ・サカナの子守唄』も変っていない。鳥瞰図という視点で人間世界を斬った切り口も手法も、本質的には不変の”亀井ドキュメンタリー”であり、あと模倣者も追随者もふりはらうほどの独創性をもって吃立している。私には遺作について私なりの意見はあるにしても、その死の床にあった制約の前には仇し言葉はない。その作品分析についても今回その余裕はないが、彼が個性的な作家として生きぬいたことを胆に銘ずる。
 
 最近、亀井氏に対する奇妙な意見が、「赤旗」紙上に散見する。これほど”党派性”を下敷きにして一作家の生涯を評した文章を私は知らない。ここでは専ら、亀井氏を退歩し変質したと見る意見をみてみたいと思う。
 山田和夫氏は、「すぐれて民主的な過去の作品群」と「『ムラ共同体』への回帰に行きついた失望感と、やり切れない悲しみにみちた遺作」とを彼の一生を切断して論じた。『生きていてよかった』までの反戦、反軍、反天皇制、反核の作品群の結実は「日本国民の民主的なたたかいと不可分に結びつき、ともに歩んできた作品と活動であるはずだ。」それが遺作のような作品になるのには「原因がある」として、平和と人間性の”敵”に対する姿勢が「事実上なくなった」からだと指摘している。”反核、反独占”に立脚しないで、何ぞ「人類の愚かさ」に言及できるか、「ムラ共同体」や「ムカシ人間像」の賛美にすりかえられるかーと自らの思想の下敷きの正当性をのべ、「亀井はこの映画の製作にあたって(自民党から共産党まで)の統一戦線を主張したが、そのあやまれる考えが作品の思想的方向を規定してしまったように思える」として、亀井氏がすべての人類に投げかけたいという気持を党派にワイ小化した上につぎのようにしめくくる。「(三里塚闘争)などニセ左翼の妄動を擁護・礼讃し、日本国民のたたかいに背を向けた画家・丸木俊の絵を使ったりした姿勢も同じ姿勢の産物である。」(八七・三・一五同紙)
 ついで二二日「赤旗」の児玉由紀恵記者は日本記録映画のなかで亀井文夫を継承するものとゆがめるものというテーマで、再び、亀井氏の作品の「大きな変化」について山田論文をなぞる。「かつての名作にこめた主張と、(遺作との間に)相当な距離のあることをみてとることはそうむつかしいことではありません」として、わざわざ二十数年前の『世界は恐怖する』のラストの亀井氏の字幕を引用し、それと矛盾しているとして遺作の思想的変化と対置しようと試みる。「『トリ・ムシを…』のなかでは、亀井氏はこう説いています、人間は自然…破壊し、おのれの自然な発達を抑止し、個人主義的競争社会に埋没しており、知慧の暴走が核兵器をうみ出すに及んだ、自然への現代人の思いあがりが今日のすべての悲劇の根源である……」という観点は、(児玉氏によれば)かつて「死の灰の恐怖は人間がつくり出したもので天災とは違う。人間がその気にさえなれば、必ず解消できるものであることを付記します」(『世界は恐怖する』のラスト)の亀井氏の視点と「大きく変化しています……」。
 原水禁運動のセクト的分裂により映画製作上映運動の立脚点をもひきさかれ、後退を余儀なくされた亀井氏が、二十数年の思索をへて「その気にさえなれば」のなかみを外ならぬこの映画で、この時代に投じたことではないのか。少くとも、「その気」に責任をとって彼は孤立のなか、自分のその気を、映画メッセージに託してこの世を去ったのである。
 本人の口でつねに「『戦ふ兵隊』は決して反戦映画ではない。美化された戦争に対し、不潔で、非衛生で、希望のない日々に疲れはてた日本の軍隊と、救われることのない流亡の中国民衆を同じ眼で描いただけだ」と宣言するように言う亀井氏である。戦後より自由な言論の展開をもとめて党員映画作家として中核的に生き『日本の悲劇』『戦争と平和』をつくり、再び上映禁止や検閲の体験を嘗めた。その彼が再び可能な創作の方法を、したたかに、何通りも考えなかったと、もし考えるなら、氏の作家性そのものの冒瀆になる。「その気にさえなれば」という附言にこめたものは、分裂した原水禁運動の中で共産党の旗をまもりぬく途をとることでも、あるいは政策方針の絵とき映画、「運動」映画をつくることでもなかったであろう。
 山田和夫氏があたかも反党分子との接触の証左のように丸木俊に言及して、”連想ゲーム″をしかけたように、児玉氏は「三里塚における妄動をあくことなく撮り続けた作家」小川紳介とともに、「水俣などの一連の作品や、反原発の『海盗り』などで、常に統一に背を向ける姿勢をあらわにしてきた作家」土本が、亀井氏のあとをつぐものとする意見に反論のかたちで、亀井氏を葬送するに際しての党の方針をひそませる。そこには、亀井氏の党員としての分別や評価は保留され、前半生の讃辞と遺作への前述の渋面が刻みつけられる。これで、党員の参加する上映が出来るわけはないのだ。小川や私に対する党の”敵″としての処遇は永い。その線上に並べようというのだろうか。引き合いに出されている私たちの痛さと情けなさほ今言うまい。
 かつて反核映画の十フィート運動のはじまった頃、ウカツにも、私はその総指揮に亀井文夫が擁せられるであろうと予想した。本質的に構成者として鍛えぬかれた氏以外にだれあろうと思ったからだ。それは橘祐典氏であった。素材が新らしい他は『生きていてよかった』の脚元にも及ばないフラットな作品であった。考えてもみよ。亀井氏いがいに人は無かった。
 だが寡聞にして氏から一言もこの一連にまつわる話は聞こえてはこなかった。
 亀井文夫の一生をふりかえるこの機会にあたって、太平洋戦争の中で、戦争映画に傾斜を深めた今井正、山本薩夫と亀井文夫の資質のちがいを改めて言うまい。戦後の第一次独立プロ映画運動の殿り戦をドキュメンタリー映画の中で戦いぬいたのは誰と誰と誰であったか。亀井文夫ひとりではなかったか。大きく変ったのは何であり誰であったか。ひたすら自分の個性のサイズで撮りつづげ、あくことなくこだわりつづけたのは誰であったか、党の評価してやまない前半生の作品は党の力で出来たものと言い切るのであろうか。

 『戦ふ兵隊』のシナリオ化のために、はじめて三十分余の話し合いの機会を得た、日本ドキュメント・フィルムの後継者・阿部隆は、忘れがたい挿話を話してくれた。死の十数日前のことだ。亀井氏が意識のとぎれるようになった最後の頃、事務所に待機する阿部氏をよび、どうしても言っておきたいこととして、そのひとことをのべて、また眠られたという。
 「私は共産党員だった。そうでないと思っている人もいるようだが、私は一貫して党員のつもりでいる。くれぐれも誤解のないようにー。」
 このエピソードは、今からくり返し問いつづけなければならないだろう。党員であることを捨てなかった世代と、それを捨てざるを得なかった私の問題としてである。
 私のひきつけられる亀井文夫氏と私との差異は、ここに鮮明にある。埋葬しようとする一党派のエゴイズムと、党員亀井文夫の作品歴をその党史観でズタズタに切るもののセクト主義に、ついに口を閉した亀井氏に替って、どう考え、表現するかである。
 ”この指とまれ”ではないが、党との位置、党との距離、党との矛盾を抱くものをことごとく「統一戦線に背を向けたもの」とする救いようのないうすよごれた保守思想者の埋葬から、亀井作品を洗い出し、それを正当に残す作業からはじめたいものだ。
 (八七・六・六)