『小笠原和彦は何を訴えたか-『李珍字の謎』を読む 「告知板」 182号 7月20日号 庄建設
死児の歳をかぞえるならいによれば、本書の主人公李珍字は47歳になる。その恵まれた知能、文才からみて、在日朝鮮人作家となったかも知れない。彼の書簡集が今日も触発しつづける力をもっていることがその証左だ。
著者小笠原和彦もその獄中からの手紙の中から謎をみつけ拡大鏡でアップにする。死刑時22歳、思想の開花のピークに絞首台にのぼった。青春の美学をちりばめてである。
李珍字の罪名は強姦殺人である。1958年夏、小松川高校生太田芳江と賄婦田中せつ子殺しの犯人として事件発生から4年数ヶ月後に宮城刑務所で処刑された。著者の中学生時代の出来事であるが、私など50代のものの記憶には民族差別の疑いの濃い事件として残されている。無実の罪であれば誰しも救われた思いのするケースではある。
文学では大江健三郎の『叫び声』、映画では大島渚の『絞死刑』がこの事件をもとにつくられたが、ともに「犯行はあった、しかし」という文脈で在日者の不安、死刑制度の批判に比重がかけられている。だが小笠原は無実論を設定して探索をはじめている点が違う。
小笠原和彦は83年に『少年は、なぜ殺人犯にされたか』(徳間書店)を書いた。その調査執筆の渦中で築山俊昭著『無実!李珍字一小松川事件と賄婦殺し-』をよんで、ともに弱者への偏見、差別をよみとった。モチーフは同根なのだ。
この『少年は-』の執筆動機は実にドラマティックだ。たまたま彼が事件当日、その千葉県柏市の現場近くに居あわせたことからはじまる。そして、犯人が「知え遅れの少年」と聞いたときから調べに入っている。弱者をとりまくもの、予断偏見の勾いをかぎとったからであろう。小笠原らしい感性だ。
だが小笠原は「知え遅れ」という要素にもたれずに、あくまでもひとりのにんげんとしてみる取材態度を一貫させた。そこが感動的だ。
誘導訊問による調書のデッチ上げ、つまり自白の虚構に弱者への偏見をみたことは当然である。「警察でしゃべったことは本当のことです」といって一切真実をのべようとしない心の閉され方がどこで形成されたか。単に知え遅れへの差別か否か。ここからあえて「普通学級」に籍をおいた少年の学級生活をクラスノートをたどって腑分けしていく。そこで級友や教師の証言と少年の無実を信じる心情の核心に小笠原じしんが感動をかくさない。その中で得た確信をバネに、少年院に監禁中、禁句とされた質問「ほんとうに殺ったのか」を発する。立ちあいの係員もそのやりとりを黙過する。そしてついに母親に真相を打ちあけるきっかけを彼がつくったのである。ウイークデイは町工場で働き、金土日曜日と夜をさいての取材である。そのじかにつたわる肉体性が文章表現にリアリティをにじませる。
取材される人びとが、それぞれの失意と衝撃、少年へのつながりの喪失感、ひいては人間不信から、真相の解明につれて、回復していくさまをつたえる。ゆえにこれは解放の文学になったと思う。
『李珍字の謎は当時の新聞、公判調書と証言者の”回想”にもとずいている。回想というのは証言者じしんが事実の記憶より心情のファイルに収め、証言としては不確かであることに著者は苦しめられた消息をうかがうからである。そこには犯行はあったとするものが多い。つまり25年という時間の風化性がいかんともしがたい。
あとがきに彼は、「事件を(無実の点から)見直し、死後再審にむけての一歩となることをねがう」と記す。前著『少年は-』は現在進行形の事実であり、現在の人間と格闘しえた。その巻尾に展開した同志的な弁護士の再審要求と、その制度をもたぬ少年法の欠陥への批判は法務省にも影響を与えたと思われるほど素晴しい論理であった。それにくらべ李珍字の場合、再審請求できる資格者、彼の肉親の所在も分らなくなっている。だから、どうしようもない。指弾のむかうところは、当時の官憲であり司法である。それ以上に、支援者たる人びとの中にある事実へのあいまいさをゆるしたフニヤフニヤしたものにむけられているといってよい。著者もいま42歳、決してこどもではない。が、当時の大人たちの朝鮮侵略を原罪意識とする情感が事実の堀り起しの重要性をおしやったことへの苛立ちが行間ににじんでいる。小笠原は屈折した李珍字の青春がみずから解放されぬまま処刑の日をむかえたことにほとんど憤怒しているが、筆は冷静で苦汁にひたしている。それがこの本の問いかけになっているともいえよう。
李珍字は物証皆無、血液型をとっても強姦のあとの全くない検証記録をとっても、当然無罪を主張すべきなのに、進んで ”犯行宣言”をし、一審での死刑確定後も、上告裁判の進行には殆んど興味を示さず、恩赦も求めず、最後の手段である再審請求すら、今回の調べによってやったらしいと分るほど、延命、自己救助に無欲であった。それはなぜかに小笠原はこだわりつづける。死刑されることで”自殺”をまっとうしたかったのではと推論をたてる。無実でありながら、無実となって一介の貧しい在日朝鮮人二世として放り出された場合を想像し、そこで李珍字はどのように生きられたかをおもう。このあたりから、小笠原にとっては事実の重さをつみかさねる一方で、李珍字が死刑を選んでいく心理的葛藤に眼をむけていくのである。その探求心は人間の根源的な存在感なるものの究明なのだ。愛が、そこで李珍字のなかで占める大きさに思いいたる。朴寿南女史への書簡は、死刑囚であることも忘れさせる開かれたラブレターであった。著者に残念なのは朴寿南との対話が拒否されたことであろう。しかし話せないこと、聞き出せないことじたいに、実は李珍字の抱えたまま死んだ生の意味が重いということかも知れない。この一書は決して再審の手続の第一歩にはならない。しかし、在日韓国・朝鮮人との差異と理解のしかたへの訴えのインパクトを与えてくれたことはたしかだ。解放への途はいまだ遠しとも暗示している。(87.6.30)