日ソ作家による『環境と文学』シンポジューム 「バイカル会議」レポート 8月  <1994年(平6)>
 日ソ作家による『環境と文学』シンポジューム 「バイカル会議」レポート 

 一九八七年初夏、水俣病の映画を持って、シベリアに行かないかという話が舞いこんだ。 シベリア・イルクーツクで、日本の文学者とソ連作家同盟の作家、それもシベリア在住のひとびととの、初めての環境問題をめぐる「フリートーキング」の会がある…出席しないかとAA会議の栗原幸夫氏からのすすめがあって、すぐお受けした。二十年前『シベリア人の世界』という映画で八か月過ごした懐かしい土地であるのと、バイカル湖の汚染やチェルノブイリ原発事故のその後の情報を知りたかったからだ。
 このプランの提唱者ラスプーチン(この名はすこぶるおぼえやすい)氏にも興味があった。バイカルの汚染の問題を土着の「村の作家」の眼で書いておられ、反原発の作家と一年前の新聞で読んでいたからである。
 メンバーは団長に野間宏以下、「ロータス賞」受賞作家立松和平、女性作家林郁、AA作家会議の栗原、中本信幸に、琵琶湖の研究とその浄化のための市民運動に加わっている京大の石田紀郎の諸氏と私である。
 映画『水俣病その二〇年』を選んだがロシア語版はない。下準備と打合わせのため、事前に訪ソした栗原氏に日本語のシナリオを託し、水俣病特有の医学用語資料もそえ、露訳をたのんでおいた。ソ連の作家会議には同時通訳もできる日本文学のベテランがいる。

 ソ連側の出席者に前記のラスプーチン氏のほか、「ノーブィ・ミール(新世界)」の編集長セルゲイ・ザルィギン氏の名も上がっているので、ソ連側のこの会議への重視もうかがわれた。環境問題や氏の出身地西シベリアの発電所反対の立場に立った人だと聞いていた。ウラルの核惨事(一九五七~八年)やチェルノブイリ原発事故の話を期待したが、残念ながら欠席された。
 シベリア在住のヴィクトル・アスターフィエフ氏。日本文学研究家で朝鮮人民民主主義共和国出身のキム・レーホ(レ・チュン)氏。河川改造計画に反対して闘ったといわれるワシーリィ・ベーロフ氏。作家同盟の環境問題の委員会委員のウラジミール・クルーピン氏。そしてアルメニアの作家で社会批評家でもあるゾーリィ・バラヤン氏が参加した。

 八七年七月三一日出発、帰り八月七日、会議の中身はバイカル周辺二日間をふくめ四日間の「バイカル会議(通称)」であった。正式名称は「イルクーツクにおける『環境問題と文学』をテーマにした日ソ作家の出会い」と長たらしいものである。しかし格式ばらず、そして非政府組織(NGO)的配慮があった。

 イルクーツクへの中継地に一泊した。その旧市街地は二十年前とほぼ変わらないたたずまいであった。かつて撮影禁止だった国境の河、アムール川はどの角度からも撮影は自由だった。
 夕暮れどき、河畔の「青年の家」に髪を赤や草色に染めたパンク風の娘たちがディスコの開くのを待って列をつくっていた。カメラをむけると恥じらった。

 ハバロフスクの博物館にはアジア系先住民の民俗資料の展示に広いスペースが割かれていた。前にも見たはずだが、これほど詳細で豊富な展示だったろうか。ペレストロイカ以後の傾向かも知れない。
 シベリアはアジアそのものだというのが、二十年前のシベリアの旅の印象だった。今回の会議の開催地イルクーツクもモンゴル系ブリアート語の「蛇行の川(イルクート)」からきている。その地の三百年祭が昨年祝われた。ロシア人による植民の歳月である。町でみかけるシベリア人の顔つきはアジア系との混血が多い。イルクーツク生れのラスプーチン氏の風貌も、ダンゴ鼻といい丸顔といいアジアの血を感じさせる。

 さて舞台はイルクーツクにうつる。
 八月二日、午前十時、マスコミと市民環境活動家代表も加えながら、人数を抑えた三十数名の会議が開かれた。ラスプーチン氏は開会の言葉で、このシンポの意義をこう述べた。
 この会議がペレストロイカの時代の到来を見て開くことができたこと、そして、われわれは、環境問題についての情報をもっていないことを率直にのべつつ、
 「いまや空気も水も病気の原因となる環境の危機に直面している。チェルノブイリ事故は“平和な原子力”なるものは、この地上にはないことを示した。環境問題について、もし正しい情報を受けていれば、数百万人がもっと環境の良いところに引越していっただろう。政府も環境保護活動をしているが、結果ははかばかしくない。それに、環境問題は国境を越え、他の民族の生活と関連しあっている。そのなかでわれわれがどう生きるかが問われている。つまり良心が問われているのだ。進みゆく環境破壊と人間の破滅の事態を前にして、情報や意見を十分つくす機会にしたい」とのべ、かれの考えの一端を語る。
 「核兵器に見られるように、われわれをとりまくエネルギーは巨大なものになりすぎた。狂気のような進み方だ。産業発展のスピードも早すぎる。環境保護の声は残念ながら産業発展の加速をとめることも、遅らせることもできないでいる…。
 個人ひとりひとりも、自分の“家庭の便利さ”を拒否できなくなっている。私の考えでは、人間は自分の必要とするもの、それに限って生活するという次元にたち戻らなければならないと思う。この会議は真にホモサピエンスなるもの、理性的な人間がいまも存在することを示すためである」。
 氏はバイカル湖の汚染を告発した自分の業績にはひとことも触れなかった。場内には市民が増えはじめていた。その人たちの存在を意識し、問いかけるトーンであった。

 ついで日本側の野間宏氏が、会議に提出した論文を紹介し、短く解説した。その論文は露文で十三ページにおよぶ「日ソ作家シンポジュウム・『環境問題と文学』への報告」とするもので、すでに日本文学専門家のエレーナ女史によって訳出されていた。
 いかにも氏らしく、手を抜かない綿密な考察のレポートだった。
 それには、大気汚染から酸性雨、チェルノブイリ原発事故の世界的反響とその教訓化の現状から、じわじわ現れてきたフロンガスによるオゾン層の破壊の兆しから述べはじめ、日本の環境破壊の各論におよぶ、くわしい情報と分析がこころみられていた。農薬禍、食品公害、水俣病はじめ重金属汚染からIC公害の予測、とくにバイカルの飲料水源としての汚染に即し、琵琶湖の実例とその住民運動にふれる厚みのある論文である。とくに結びの“文学者の役割”の章は「社会主義国にあってもまぬがれることのできない」全的危機の認識をうながすものでマルクスの資本論の予言的な一章を引用していた。どの章をとっても一日がかりで情報交換しなければならない問題ばかりだ。「(レポートを)熟読されたい」ではすまない。現地でそれをわたされた私はろくに読むいとまはなかったが、ソ連側の作家はすでに露文のテキストを読んでいると頷いた。かれらは自分たちの側の話をしたくてウズウズしていたようだ。

 とりわけ血の気の多そうなアルメニアのゾーリィ・バラヤン氏は低声で語りだしたが、アルメニアの飲料水の水源、母なるセワン湖の汚染の話におよぶや、しだいに熱を帯びてきた。グレコローマン型のレスラーのような体躯からほとばしる言説は、アルメニアのツアー時代からの屈辱感をあらわにする民族的感情すらこもっていた。十六世紀のトルコの圧制に民族差別に苦しみ、その後の帝政ロシア時代とロシア革命の国内戦争時の二度にわたり、トルコのアルメニア人への大虐殺を見逃した。その数、のべ数百万人におよぶ。そのロシアのアルメニア人への差別の歴史を語らずには今が分かってもらえないという風であった。多分、ペレストロイカ以前には語れなかったことなのだろう。
 セヴァン湖。海抜八百メートル、コーカサス山系のスリ鉢状のくぼ地にあるこの大湖は飲料水のみならず、アルメニアコニャックを産んだ良質な水の宝庫であった。
 開発は第二次世界大戦あとから進んだ。はじめにできたのは湖畔の首都エレバンの近郊の合成ゴム工場だった。地元紙は「小さな共和国に大きな化学工業がやってきた」と書きたてた。やがてその工場の電力のために湖畔に原子力発電所をつくった。湖からふんだんに工業用水を引き、原発の冷却水に利用した。さらに都市化と近代化が加わり、湖の水を奪いあった
 「水位が八メートルさがった頃までは、湖の異変にさほど注意を払わなかった。それが十メートルになったとき、湖の面積は30%失われ、カモメや水鳥が全滅し、魚類や藻が死に、湖は最後の姿を呈しはじめた」。
 これをかれは『最後の泉』と題する著作で告発した。ラスプーチン氏によれば「科学者も容易に反駁できないほど、詳しく調べられたもの」という。
 ゾーリィ・バラヤン氏のその官僚や科学者のバカども(氏のことば)との闘いは、水俣病の事件史とどこか似ている。バラヤン氏はいう。
 「バカどもは私たちの“真珠なるセワン湖”の衰弱を無視した。かれらは『セワン湖の水蒸気などに価値をみとめない。工業につかってこそ意味がある』といい、ある頭のヘンな科学者は『工業化のためならセヴァン湖が全部なくなってもいい』とさえいった。アルメニアの諺にいう“井戸につばきするもの”この科学者たちに最初に闘いをいどんだのは詩人たちだった」。だが詩人とテクノクラートとのやりとりではつねに「科学のことは科学者にまかせろ」といなされ、かれらは「詩人は詩人らしく、月の下で恋びとたちが口づけする、といった美しい詩を書いていればいい」といったという。
 ゾーリィ・バラヤン氏によれば人口二十万のエレバン市の新生児の10%が死産、あるいは障害児であり、半世紀にわたる環境汚染で共和国全体で十万以上の人命を失い、三〇億ルーブル(当時の公定換算・六九〇〇億円)相当の被害を蒙ったー。
 かれの語録を紹介しよう。
 「この湖がなければ地球は完全ではない」
 「私にとってのエコロジーとは、自分の国アルメニアについての科学であり、私の家族についての科学なのだ」
 「ではエコロジーとはなにか。アメリカの学者のいう“生物的賢明さのあらわれ”という定義に同感する。そして賢明さとは“論理プラスつぎの世代・こどもたちへの配慮”なのだ」

 このショッキングなバラヤン氏の報告をひき続いて述べられた日本側、石田紀郎氏の「琵琶湖からの報告」は、具体的で、おのずと答えになる類いの情報だった。琵琶湖の富栄養化による異変に気づいた市民を科学者との連携、その調査活動と学習によって運動を組織し、合成洗剤を追放し、廃油から住民の手で石けんを作り、ついに県の行政を動かした…。
 この報告はソ連の人たちの行動様式にはなかった市民運動の形、いわばソ連社会の盲点を指摘したようだ。ここイルクーツクでもバイカル湖の汚染について憂慮する市民の動きは出ているものの、ストレートに自分たちの手でデータをあつめ、科学者と連動して運動を進めるという社会環境がなかった。グラスノスチ(情報公開)がさけばれてはいるが、官僚の壁、企業のそれは堅すぎたからだ。その経過をバイカルに即してたどってみたい。
 今回、船による湖畔のこの工場視察がセットされていたが果たせなかった。だが私は古いメモを持っている。二十年前の一九六七年、私たちがシベリア取材の旅をしたとき、今日のバイカル湖の汚染の発生源である紙・パルプと木材系合成化学コンビナートは稼働の時期にあった。シベリアの豊富な森林資源を生かした輸出産業として、ソ連の巨大工業の典型とも言える工場である。撮影はしなかったが、当時のメモにはその規模をうかがえる数字がならんでいる。
 バイカル湖の南端に近い湖畔にあるバイカルスクに建設・従業員一万四千人、広さ六〇〇ヘクタール、湖畔を六キロ用地に収用している。水俣のチッソに四日市のコンビナート全体を合わせたような規模である。
 パルプコード(セルローズ)年産二〇万トン、ビスコン繊維二〇万トン、樹脂一万トン、建材用合板四〇〇〇万平方メートル、ベニヤ板二〇万平方メートル、上質紙二五万トン、段ボール二八万トン(一九六七年稼働時)。いずれ人口一五万人の市になるというものであった。工場排水は浄化されて湖にかえされる。そこから流れるアンガラ川がイルクーツク市民の飲料水になる。
 この木材化学コンビナートは一九五〇年代の終りごろ計画され、六三年、一部が稼働した段階ではやくも問題視された。その夏、月刊誌「オクチャブリ」に「計画されているプランが実現した暁には“さらばバイカル”ということになるのであろうか」というルポが発表され、全ソ的に“バイカルを救え”のキャンペーンが起きたが、その年末には、企業、官僚の取材・報道の制限と管制がはじまり、以来閉ざされてきた(ボリス・カマロフ『シベリアが死ぬ時』アンヴィエル社)。
 その抗議の波から二〇余年たって、ペレストロイカを経て、ふたたび環境保護運動が起きたようだ。
 この年のソ連ジャーナリスト同盟大六回大会では、プラウダのアファナシエフ編集長は、党はグラスノスチ路線を宣言しているのに、今なお情報制限がおこなわれているゾーンがあるとして、環境汚染などの例として「シベリアのバイカル湖の汚染に関するデータをあつめるのに本当に苦労した」としている(朝日新聞、八七、三、一四)

 ところでバイカルの汚染の現状はどうか。その報告をしたのは元イルクーツク陸水研究所所長グレゴリー・カラジー氏である。このコンビナート反対運動でその役職を追われた人だ。「バイカルの百科全書」と呼ばれている。
 世界で飲料水につかえる淡水は海水をふくめ地球の全水量のわずか〇・三%。バイカル湖は世界の淡水の二〇%を占めている。塩分はなく透明度は四〇メートルにおよび、飲料水としては世界最大だ。ここに流入する河川は大小三〇〇、そして流出する川は前記アンガラ川一本だけであり、湖水の入れかえには四百年かかるという。
 異変は水藻の消失、魚類の餌であるエピシュラ(体長数ミリのエビ様のプランクトン)の激減から始まった。名物の魚オームリの体重が五〇〇グラムから平均して二〇〇グラムにしか育たなくなった。それを摂って生きる、淡水性アザラシにも影響が及んでいる。
 湖底の沈澱物は千年に四センチの厚みにしかならない。変化はきわめて緩慢なのだ。しかも水深は一七四二メートル。汚染されているとはいえ、その水は「いまも飲める」。
 ラスプーチン氏が質疑のなかで洩らした話は事実とすれば重大だ。
 人体被害としては工場付近の村の若い世代に健康のかたよりが見られ、とくにこどもの48%が骨を冒され、歩行に不自由をきたしている。噂ではダウン症も多発しているという。ビタミンGの不足によるカルシューム不足からくるカリエスに似ているというが、この会議に医学衛生関係者の参加はなく、不安と憂慮が語られるばかりだ。このコンビナートからの廃水は処理されていると当局はいうが、参加者は、工場から湖にもどされた水は「死の水」という表現にとどまり、廃水の水質検査やヘドロ分析の知見はもてないでいた。医学者や科学者の参加がまだ表だっていない、イルクーツク市民の反対運動の弱さを感じられた。
 日本の反公害運動は文学者、科学者、医学者、労組、市民、ジャーナリストが横並びにうごいた。それはチッソにたいする患者の裁判闘争支援のための陣形であったかもしれない。しかし、水俣病事件のもつ権力と企業、産学協同の反人間性を見すえ、その企業の秘密主義、閉ざされた犯罪現場により近づいてそのデータを盗み、あばき、民衆の論理武装のために共同作業をしたといった事例は、ソ連のような中央集権のつよい縦わり組織では非現実なことなのであろうか。

 私の持参した水俣病の映画はいざ上映の段になって、てんてこまいになった。16ミリフィルムだったからだ。この小さい出来事でソ連の映画の抱える大きな問題を知ることになった。
 はじめ、ソ連側の主催者は数百席あるイルクーツク市の繁華街のホールをその上映会場に予定していた。だが、信じられないことに16ミリ映写機がなく、ほかの映画上映できる施設すべてが35ミリフィルムしか上映できないことがその当日になってわかった。たしかにソ連では16ミリの撮影・上映のシステムは通常はないというのだ。関係者との質疑のなかで分かったのは、この国では16ミリ映画カメラは“禁制品”扱い、市民の所持にゆるされるのはアマチュアの趣味として八ミリ映画だけで、あとは一挙にプロ用のスタンダードの35ミリになる。それは各地の撮影所、映画大学に備えてあるという。
 日本や欧米では教育映画やドキュメンタリーでは16ミリが主流である。だが、この国では16ミリ映画器材とそのフィルムの入手はむつかしく実質的には禁止に等しい。映画官僚の言い分では、「画質のすぐれた35ミリでの映画システムを完備しているのに、なんで16ミリ方式が要るのか」ということかもしれない。一見、筋の通った話だが、35ミリの映画規格を徹底することでアマチュア作家やいわゆる“独立映画派”、インデペンデント映画を完封し、映画官僚の規制なしには製作も配給もできない仕組みになっているのだ。
 イルクーツクの主催事務局も映画なら35ミリフィルムでないとは思っても見なかったと弁解した。
 数時間もたついて、やっとイルクーツク大学映画科の研究室にアメリカのナトコ製16ミリ映写機が一台あることがわかり、バスを仕立てて行った。観客は五十名ほどに限られた。