水俣病判決にしらけるのは何故か 『公明新聞』 3月17日付 公明党機関紙局 <1988年(昭63)>
 水俣病判決にしらけるのは何故か 「公明新聞」 3月17日付 公明党機関紙局

 三月一日に報じられた水俣病刑事事件にたいする最高裁の決定は忘れかかったころにだされた。昭和五七年八月の福岡高裁判決から五年半たっている。この決定により、水俣病事件の業務上過失致死罪について、最高裁は一、二審判決を支持し被告側の上告を棄却することで、チッソの元社長と元工場長の禁固二年(執行猶予三年)の有罪を最終的に確定した。四大公害裁判のなかで刑事事件として立件され、企業の最高責任者が裁かれたのははじめてである。その意味で画期的であろう。
 両人は昭和三十年代の前半、チッソの最高責任者として水俣病の原因物質・メチル水銀の有毒性をほぼ察知しうる立場にありながら、大量の工場廃水を処理せぬまま水俣川にたれ流し、それ以前かろうじて水俣湾内外にとどまっていた濃厚汚染地区を一気に不知火海全域にひろげ、沿岸住民を死傷にいたらしめた個人責任を問われた。三十年前の行為があらためて究明された。元社長吉岡喜一、現在八六歳、元工場長西田栄一、七八歳。なみの敬老精神をもってすれば「晩節を汚されてお気の毒…」といった感じがないではない。
 この画期的と言われる決定に水俣現地の声は複雑だ。「これでは父の墓前に報告できぬ」という声もあれば、「ふたりとも高齢なことへの同情から、裏返してまたまた患者への差別偏見が助長されはしないか」「何千人の被害者の救済問題とはつながらん」。そして誰からも洩れるのは「あん当時ちゃんと廃水ば止めとればなぁ」の嘆きである。 
 水俣病患者はいまだ係争中の裁判に影響を与えるものかどうかを深く疑っている。一・二審で「勝訴」の判決を勝ちとりながら、チッソ・国・県当局の控訴・上告によりベルトコンベアに乗せられて最高裁送りされつつある「待たせ賃訴訟(水俣病患者認定の遅れに対する国家賠償請求)」、「棄却取り消し訴訟」、「第三水俣病訴訟」、そして大阪、東京、京都の訴訟がめじろ押しの現在、水俣病事件史上はじめて示された最高裁決定の内容とその姿勢が、どのように今後に反映されるのか、固唾をのんで見守っているであろう。
 十三年前のこの刑事事件の発端を昨日のことのよう思いだす。昭和五十年一月十三日、「川本裁判」東京地裁判決の日のことだ。いわゆる川本裁判とは新たに認定された川本輝夫氏ら水俣病認定患者が補償をもとめる直接交渉の過程でおきた紛争状況のなかで、同氏がチッソ社員の告訴により、暴行罪容疑で「被害者」が裁かれる事件(後に公訴棄却として告訴そのものが控訴審で却けられた)であった。
 罰金五万円(執行猶予一年)という、いわば暴力事犯であるとするなら、量刑としては痛くも痒くもないものである。それだけに判決の底意は露わに過ぎた。公判廷では「有罪!」のひとことを聞いてからのちは、傍聴席は総立ちとなり抗議の渦と化した。ある女性の未認定患者はひきつけてその場に倒れた。川本被告への有罪判決にいかりを覚えた傍聴人や支援の人びとは帰るに帰れず日比谷公園の広場に集まっていた。
 その広場の人垣のなかで川本氏は後藤孝典弁護士の助けをかりながら寒空のしたで「未必の故意の殺人・傷害事件」の告発状をしたためた。そこに殺人傷害事件に関わったとして、三十年代前半、水俣病の原因のほぼ究明された時期のチッソ首脳と歴代の厚生大臣の名が列挙された。弱者からの決闘状だった。
 『未必の故意』とは、辞書によれば「行為者が、犯罪事実に発生することを積極的に意図したわけでわないが、自分の行為から場合によってはその結果が発生するかもしれないし、そうなっても仕方がないと思いながら、なおその行為に及ぶときの意識である…」水俣病事件ほどこの言葉に当て嵌まるものはなかろう。川本氏はつねづね「水俣病は病気じゃなかぞ。メチル水銀を飲まされたことによる殺人・傷害事件じゃでな。」と言う。「それば言っても仕様がなかけんいわんだけで…」。彼の言わんとすることはもはや明らかであろう。業務上過失致死罪などという労災型事件の訴追ではなく、歴史上はじめての構造型企業犯罪にたいする制裁であり、それを許した行政への告発であったのである。
 検察側は早々と大臣たちの不起訴をきめ、「未必の故意による殺人・傷害事件」の真意を削除した。この仕組みを患者たちはただちに見抜いた。このときからしらけ、いまもしらけっぱなしなのである。
 今回の裁判に一貫した特色は、刑事責任の訴及にいたるまでに二十年に近いほったらかしがあり、その空白の責任がどこにあるのかはっきり示されないまま法廷劇が演じられてきたことである。チッソはその空白を法廷技術にフルに利用した。たとえば「時効」論議であり「裁判の迅速性」をめぐる憲法論争である。それがチッソ側の「殺人罪でもその時効は十五年、まして業務上過失致死罪は三年(当時)ではないか。こんなに遅延した起訴自体憲法違反だ」という言い分になったた。時効成立の線ぎりぎりの時点、昭和四十八年六月十日死亡した事で被害者の代表に選ばれた胎児性水俣病患者上村耕一少年(三十五年生れ)にたいしてもチッソをして「ヒトとして出生した昭和三十五年八月から起算すれば、当然時効である」との主張を繰り返させ、さらに「胎児はヒトかどうか? ヒトなみに傷害罪か」の大論争にもなってすべての水俣病患者とその家族を深く悲しませたのである。すべては遅すぎた起訴にある。本当は水俣病事件の原因が厚生省によって把握された昭和三十四年当時に、警察検察当局が殺人傷害事件として、チッソにそのメスをいれていなければならなかった事なのだ。つまり、最高裁は今回チッソを裁くその手で、行政と警察そのものの犯罪性を抉らなければ辻褄の合わない話だったのである。
 (八八・三・一一)