国難の中の国つくり…アフガニスタンの四十日体験記 配信 7月5日脱稿 共同通信社 <1988年(昭63)>
 国難の中の国つくり…アフガニスタンの四十日体験記 

 首都カブールで歯の手術を受けた話

 アフガニスタンでの怖かった話を語るならこれから始めるしかない。五十の齢を過ぎてから歯槽濃漏に悩まされる事が多くなった。特に入れ歯を支える要の一本が負担過重のためかしばしば化膿する。今回はアフガニスタンに第一期、数十日のロケ行である。
 ソ連軍撤退という世界的ニュ-スを追って二百人以上のジャ-ナリストが取材合戦にしのぎを削る中にあって、長編ドキュメンタリー映画の呼吸が、ともすれば息急く。五月上旬からスタッフ八名、二班に別れ、ソ連軍撤退の一部始終やアフガン難民の帰国、バザールのあれこれを撮ったり、合作映画の条件つくり等で気苦労が続いた。そのせいか私の歯ぐきは見事に腫れあがった。どこの民族料理にも、歯なしの老人の口にも合う、柔らかい肉料理があるのだが、それすら劇痛を覚えるようになり、やはり手術という事になった。 ロケット攻撃や時限爆弾などの危険性には覚悟があると見栄を切って来たものの、カブールで歯の手術をするには勇気が要った。治療技術の水準について、やはり心配が先立つ。ホテル近くの国立病院の歯科治療室に案内された。各室ごとにピカピカのシ-メンス製やソ連製の治療台があり歯科医に助手、看護婦のチ-ムがてきぱきと患者を診ている。手術は患部を確実に切り取って済んだ。麻酔は弱く痛かったが、その分回復は速かった。
 手術のお陰でここで「医療制度」を垣間見ることができた。バザールの店先からそのまま来たような日焼けした老人や、物売り少年、そしてチャドル(すっぽり頭から被るベ-ル)の女たちが町角で用を足すような気安さで治療に来ている。診療券も保険証も出さず、看護婦に住所氏名を書いてもらうだけで医師の問診に移る。終わると挨拶をかわして街に帰る。外国人の私は治療費を払おうとしたが会計窓口がない。つまり無料なのだ。ただ薬代は要った。抗生物質ほか数日分で百二十円ほどだ。それの免除の途も当然あるという。
 以後、スタッフは水の違いか順繰りに医者の世話になった。とくに録音の栗林は国境近くのジャララバ-ドで腹部に劇痛を覚えた。ひとりの診断では疑いもあると見たのか、なんと十二人の医師団の回診を受けた。万一、手術の事態を考え、カブールまでの空輸の配慮までされた。幸い一過性の症状で済んだがこれは外国人ゆえの「厚遇」ではないらしかった。この国の「医療制度」なるものはこの様にさりげなく定着していた。
 ジャララバ-ドからの帰路、反政府ゲリラのロケット攻撃を避けて夜間の輸送便で飛び立ったが、地雷にやられ手術を要する兵士が担架で運ばれ、故郷に葬りたい遺族の希望で棺桶も同乗する…,その死臭の漂う中で考える。百万人の死者、五百万人の難民を生んでいる修羅場の中にあって、医療制度に割かれている支出はどう捻出されるのであろうか。
 昨年、ナジブラ大統領は「軍事費は国家予算の六割に達する」と公表した。異状なまでの高負担である。だがこの「医療制度」は人民民主党の四月革命(1978年)以来の政策の柱のひとつである。「教育制度」も同様だ。今年から義務教育の初級の五年間、朝食費を全生徒に支給することになった。一日、三十アフガニ、主食のナン(玄麦だけのパン)なら五人分に相当する。学齢に達すれば家事労働を当然の責任のように背負うアフガンの子供たち、とくに文盲の両親にとかく就学を妨げられがちの女子を学校にひきつけるための施策であろうか。教育、医療にみるかぎり、日本の明治維新直後のような、ある必死さが立ち上ぼっている。映画はそのアフガンの底流の活力に眼を向ようと思った。

 ソ連軍撤退の戦車の上で思う
 
 今回のアフガニスタンとの合作映画は、三、四年前から企画として暖めていたものだ。その頃から、「アフガニスタンを知る会」(現「日本・アフガニスタン友好協会)」の会員として、短期訪問の機会にもフィルムを回してきたが、本格的にスタ-トするまでに三年の「待ち時間」があった。当時、戦乱終息に向けての兆しがまだ見えなかったからだ。
 この間に内戦停止、「国民和解」にむけての動きが太くうねり出した。カルマル議長は退陣し、新たに登場したナジブラ政権は新憲法の草案を発表、「一党独裁」と見られる制度の改革に思い切った大ナタをふるい出した。一方的停戦を宣言したうえで、国教としてのイスラム教の位置の明確化、政体を「民主」共和制から「共和制」に差し戻し、反政府勢力にも議席を配分した選挙を実施するなど、「兄弟殺しの戦争」をやめるために、いわばなりふり構わぬ改革を打ち出し始めた事が映画の企画を改めて誘引したのだった。
 今回、のべ三ヵ月(二回取材)のロケーションは五月一五日からのソ連軍撤退から始まった。「ソ連軍の敗北の結果」とも「国際的連帯の責務を果たした」ともいわれ、国際的に全く評価の二分された撤退行動であった。この取材にあたってスタッフはこれを「勝ち負けの判定」の機会とは考えなかった。この数日を撮り、それをフィルムのうえで詳しく解析すればよいと考え、ソ連軍撤退の一部始終に立ち会いたいとの希望をのべた。
 十四日の夜更け、高岩カメラマンと私はジャララバ-ドから撤退する部隊を撮るため、アフガン空軍所属のアントノフ32輸送機でカブール空港を飛びたった。これは軍用機(落下傘部隊用)だが戦闘機能はない。だが同型機は不定期空路に使われ、四月十一日には北西部でスティンガー・ミサイルに撃墜され、民間人を含む二十九人が死んでいる。
 無灯火で高度を取った機内で、ソ連軍の公報担当官から「希望者は撤退する戦車に同乗出来る」と告げられた。撤退地のジャララバ-ドは反政府ゲリラの手中に落ちたこともあり、彼等は何時でも一斉攻撃できると示唆する要衝の地である。ましてそこから首都カブールへの幹線道路はゲリラ戦の舞台と聞いている。そのル-トを同行取材させるということは信じられなかった。ロケット弾に射すくめられながらの脱出行を体験してみたらとからかっているのか。だがOKの手は上がっていた。ソ連軍の自信につられたからだ。
 十五日早朝、ソ連軍自動車化狙撃部隊の基地から千二百名を乗せた戦車、装甲車の列が出発した。ジャララバ-ドの街の中心とその沿道に数千の市民が花束、花輪を手にして迫ってくる。子供の伴走、女子生徒の華やいだ声。日陰に蹲る老人も手をニギニギしながら見物している。動員され作られた歡送とはいえない熱気が戦車の列を包んだ。ソ連兵にとっても意外だったのか、その表情にははにかみの色さえ浮かんでいた。街は平和だった。
 やがて人っ子ひとり居ない山岳地帯に入る。かって舗装されていただろうアジア・ハイウェ-は地雷やロケットで凸凹に寸断され、沿道にはアフガン軍の砲塁が砲身を山頂に向け、つずら折りの道の要所要所に戦車が配備されてこの撤退を援護していた。高岩は装甲車の円蓋の上にカメラを抱え、七時間をほぼ座り通した。挙家離村の廃墟、それに続く土饅頭に石の突き刺さった墓場。両側に迫る絶壁は奇岩に満ち、一発の砲声は落石の雪崩を惹き起こしかねない。ここでの地上戦闘では明らかにゲリラ側に分がある。ソ連軍は火中の栗を拾わされに違いない。それが空対地作戦を選ばせ、ヘリ対スティンガー・ミサイルの戦いにエスカレ-トさせたのであろう。車上に揺すぶられながら、ソ連兵の胸中にいかなる思いがよぎっているか聴きたかった。勝ち負けとしてではなく、である。

 国境と難民とらくだの群れ
 
 ソ連軍の撤退がどこから開始されるか、首都カブール周辺からか、パキスタンとの国境地帯からか。それが過去十年、攻防の焦点の地ジャララバ-ド(ナンガハル州)からであったことはドラマティクだった。「そこから現状、撤退して大丈夫?」という一般の意表を突く決定に思えたからだ。ゲリラの狙撃は無かった。二発の威嚇射撃のみでカブールまで走った。翌日、アフガン側の歓送式を終えて北上する部隊を追い、空路ソ連国境の街に飛んで部隊の到着を待った。すでにカブールで幾人かのソ連軍兵士、とりわけ共同演出の熊谷博子は女性通信兵に焦点を合わせ、母国の土を踏んだ瞬間の彼女の歓喜と安堵を撮ることに気を配っていた。ところがソ連と国境を分かつアム河に懸かる「友情の橋」の真中の国境線まででUタ-ンして欲しいという。マネ-ジャ-の外山は活動屋の押しの一手つで、ついにソ連外務省の現地責任者から国境通過のOKを出させた。「ソ連軍撤退の華はそこに極まる」とでも言ったらしい。スタッフは「越境」してソ連領で再会を待った。
 ウズベク共和国の国境の町テルメスは歓喜の一色に彩られた。カブールでの取材時には、まだ越えなければならないゲリラ地帯を思ってか、一抹の不安を抱いていた兵士に、母国の足下の大地に身を投げ出したいような弛緩が襲っていた。女性兵士はあるたけの声を放って、言葉にならなかった。「責務は果たした」というのが精一杯のようだった。「勝ち負けの価値」といった決め方は、彼等には在りようはなかった。
 日を置いて、難民の帰還を追って再びジャララバードへ、さらに国境へ。その柵の先はパキスタン領だ。そこから母国の地を久し振りに踏んだ難民を見た。かの地で生まれた乳飲み子、幼児を抱え、チャドルに身を堅くした母親。これからの手続きそして今夜の寝る所を案じ、思案顔の家長。同じ帰還者と言っても、ソ連兵とは対照的だった。かってゲリラ側で戦った経歴があっても当然な時間が流れている…。カメラにも一瞬怯む。
 「国民和解のことをラジオで聞いて帰る決心をした」「政府が平和な生活を保障すると聞いて…」と言う。だが疑心暗鬼が面に去来している。無理もない。判断の材料がなく、情報が途絶しており、ラジオと口コミ、故郷の縁者の便りだけで帰って来たからだ。
 この取材以前にカブールの難民受け入れの態勢を撮影し、難民帰還の担当大臣の意見も拝聴してきていた。「平和の家」という仮滞在の宿舎も、そこでの食事や個室、身の落ち着き先を探すすまでの処遇も取材してきた。まだ帰還者は少ない事を嘆く声も聞いた。その記録フィルムでも見せられれば、この人の難渋をいささかでも和らげらるかも知れない、そう思うとこの映画を見せる人の「顔」が想定できた気がした。そこで国境の帰還事務の責任者に「元ゲリラでも問わないか」と念を押した。「そうだ」という返事が返った。
 難民といってもその体験はまちまちであろう。ことにパキスタンにまたがる「領土」を持つパシュトゥーン族の場合、かっても今もビザなしでこの国境を自由に往来している。
 朝七時、国境のチェ-ンが解かれると相互の人の流れ、物の出入りが始まる。許可証を持ったバスやトラックがペシャワル(パキスタン)、ジャララバード(アフガン)へと急ぐ。このロ-ド(みち)は内戦にあっても閉ざすことは出来なかった。アフガンの民族構成の過半数を占めるパシュトゥーンの人たちは、「聖戦」の地から女子供、老人を気遣かって、兄弟の地に赴かせたといった素朴な図式もこの地に立ってみると分かる気がする。
 国境のゲ-トから離れた干上がった川底に、らくだの姿を見付けたのは一之瀬カメラマンだった。背中に振り分けた山ほどの荷を負って、何百頭のらくだやロバが川底の道を悠然と往来しているではないか。おそらくシルク・ロード以来変わらないであろうこの光景に、私は脳天を直撃された思いがした。「これは地下水脈だ」。この映画の仮題を『眠れる泉(カレ-ズ)の復活』としていたが、泉はまさに眠ることなく生き続けていた。どうも矮小な想像力を露呈することになったようだ。