日ソ作家による「環境と文学」シンポジウム「バイカル会議」レポート 月刊『aaLa』 33号 8月5日号 日本アジア・アフリカ作家会議 <1987年(昭62)>
 日ソ作家による「環境と文学」シンポジウム「バイカル会議」レポート 月刊『aaLa』 33号 8月5日号 日本アジア・アフリカ作家会議

 シベリア・イルクーツクで、日本の文学者とソ連作家同盟の作家、それもシベリア在住の人びととの、初めての環境問題をめぐる「フリートーキング」の会があるー出席しないかとAA作家会議の栗原幸夫氏からのすすめがあって、すぐお受けした。二十年前「シベリア人の世界」という映画で八カ月過ごした懐かしい土地であるのと、バイカルの汚染やチェルノブイリ問題の情報を知りたかったからだ。
 このプランの提唱者ラスプーチン(この名はすこぶる憶えやすい)氏にも興味があった。バイカルの汚染の問題を土着の「村の作家」の目で描いておられ、反原発の作家と一年前の新聞で読んでいたからでもある。
 メンバーは団長に野間宏以下、「ロータス賞」受賞作家立松和平、女性作家林郁、AA作家会議の栗原、中本信幸に、琵琶湖研究とその浄化のための市民運動に加わっている京大の石田紀郎の諸氏と私である。
 映画『水俣病その20年』を選び、準備のため訪ソした栗原氏にシナリオを託し、医学用語の参考資料もそえ露訳をたのんだ。

 ソ連側の出席者に前記のラスプーチン氏の他、「ノーブイ・ミール(新世界)」の編集長セルゲイ・ザルイギンの名が挙っているので、ソ連のこの会議への重視もうかがわれた。環境問題や氏の出身地西シベリアの発電所反対などに起った人だと聞いていた。残念ながら欠席された。

 シベリア在住のヴイクトル・アスターフイエフ氏。日本文学研究家で朝鮮人民民主主義共和国出身のキム・レーホ(レ・チユン)氏。河川改造計画に反対して闘ったといわれるワシーリイ・ベーロフ氏。作家同盟の環境問題の委員会をしているウラジミール・クルービン氏。そしてアルメニアの作家で社会批評家でもあるゾーリイ・バラヤン氏が参加した。彼は少数民族アルメニアへの愛をかくさず、ロシアの官僚主義と闘いながら汚染をくいとめる闘いのさ中にいて活力めざましいものがあった。実のある人材たちが揃っていたのである。

 八七年七月三一日出発、帰り八月七日、会議の中味はバイカル周遊二日間を含め、四日間の「バイカル会議(通称)」であった。正式名称は「イルクーツクにおける「環境問題と文学」をテーマにした日・ソ作家の出会い」という長たらしいものである。格式ばらず、そして非政府組織(NGO)的配慮があった。

 中継地ハバロフスクの旧市街地は二十年前と変らぬたたずまいであったが、アムール河畔の四基の原子炉が、それも市街地に隣接して建てられているのに驚いた。原子力発電の無事故、安全の神話なしには考えられない立地である。かつて撮影禁止だった中ソ国境線、アムール対岸は今では一切自由だった。
 夕刻、河畔の「青年の家」に髪を赤や緑に染めたパンク風俗の娘がディスコの開くのをまって並んでいた。カメラを向けると恥じらった。
 博物館はアジア先住民族の生活資料展示に広いスペースが割かれていた。

 シベリアはアジアだというのが、かつてのシベリアの旅の強い印象だった。今回の会議の地イルクーツクも、ブリヤード語「蛇行の河」にちなんだと聞いた。三百年祭が昨年祝われた。
 シベリア人の顔つきはスラブ人やポーランド系と北方原住民、蒙古族などとの混血で、ヨーロッパ・ロシアの北欧系と混じった顔と一眼でちがいが分る。
 ラスプーチン氏の風貌にも、ダンゴ鼻といい、丸顔といいアジアの血を感じさせる。モスクワっ子の通訳の青年、アンドレやボリスの白人系の顔や、同じく南コーカサス出身のユダヤ人の通訳ビルトンと膚はさまざまだ。

 八月二日の午前十時、ラスプーチンは開会のことばで、このシンポの意義をこうのべた。まずペレストロイカの精神でやりたい、そして環境問題について情報をもっていないことを率直にのべつつ、「いまや空気も水も病気の原因となる環境の危機に直面している。チェルノブイリは『平和な原子力』なるものは地上にないことを示した。環境問題についての正しい情報を受ければ数百万人がもっと環境のよい所に引っ越していっただろう。政府も環境保護活動をしているが結果は決して大きくない。それに環境問題は国境を越え、他の民族の生活と関連し合っている。その中で、われれがどう生きるかが問われている、つまり良心が問われているのだ。進みゆく環境破壊と人間の破滅の事態を前にして、情報や意見を充分つくす機会にしたい」とのべ、彼の考えの一端を語るー。
 「核兵器に見られるように、われわれをとりまくエネルギーは巨大なものになりすぎた。狂気のような進み方だ。産業発展のスビードは早い。環境保護の声も、産業発展の加速をとめることも、遅らせることも出来ないでいる。個人ひとりひとりも、自分の『家庭の便利さ』を拒否できなくなっている。
 私の考えでは、人間は自分が必要なもの、それに限って生活するという考え方の次元にたたなければならない。この会議は、真にホモサピエンスなるもの、理性的な人間がいまも存在することを示すためである」

 氏はバイカル潮の汚染告発についての自分の業績には一言もふれなかった。場内に市民もつめかけていた。その人たちの存在をつねに意識し、問いかけている口調があっった。
 つづいて(日ソ交互の発言のスタイルで)野間氏は短くあいさつした。氏の携行した論文は活字の冊子十三頁に及ぶ、「日ソ作家シンポジウム「環境問題と文学」への報告」で日本文学者エレーナ女史により訳出されていた。
 それは、大気汚染から酸性雨、オゾン層の破壊からチェルノブイリ原発の世界的影響やその教訓化の動向-農薬禍、食品公害、重金属、化学物質(水俣病など)からIC公害の予測、琵琶湖の実例にみる住民運動にもふれる広汎な問題の各項目の分析と総合の試みがなされているものである。特に結びの文学者の役割の章は「社会主義国にあってもまぬがれることの出来ない」全的危機の認識をうながすもので、マルクスの資本論の中の予言的な一章を引用していた。氏が確かめると参加者は読んでいると肯いた。
 どの一章をとっても、一日がかりで情報交換しなければならないほどの問題ばかりだ。
 「熟読されたい」では済まないのだが、参加したソ連文学者のそれぞれにかかわった自然破壊の現実と、それとの闘いの話をしたいと発言の順を持ちかねるふうだった。

 とりわけ血の気の多そうなアルメニアのゾーリイ・バラヤンは低声からはじまったが、しだいに熱を帯びてきた。十数名の一般参加者はひきこまれるように耳を傾け、ときにどよめき、笑った。レスラーのような体躯である。
 その自然破壊の描写と叙述は、通訳の二ホン語のフィルターでは訳し切れないであろうが、恐らく速記録そのままでも、読みこたえのある文章となっているであろう。アルメニアの諺や詩をまじえての話だが、官僚主義との闘いの部分は聞く者を奮起させる力がある。
 主題は祖国の唯一の湖、セワン湖の汚染がどこからはじまったかの話である。
 十六世紀のトルコの圧制、ロシア帝国の支配-そのなかで革命までに二度もトルコの大虐殺を(ツアーは)許した。その数、数百万人にのぼるという。(この話はこの日の午後の読者との対話集会で詳しくのべたものである)

 平均海抜八百メートル、コーカサス山地のくぼ地に水をたたえるセワン湖はアルメニアコニャックを産んだ良質の水の宝庫であり、あらゆる生きもの湖の動植物の世界があった。
 これを無計画な利水計画で乱用し水位を低めた。さらに原子力発電所をたて、冷却水に利用した。そして近年、この水を工業用水に引いて、首都エレバン近郊に合成ゴム工場を作った。
 「水位が八メートル下がった頃までは、湖の異変にさほど注意を払わなかった。水位が十メートル下がったとき、潮の面積は三〇%失われ、カモメや鳥が全滅し、魚や藻など多くの動植物が死に、湖はその最後の姿を呈しはじめた……」
 彼は告発と批判-社会評論家としてこれを書きつづけ、最近も「最後の泉」と題する著作を発表した。ラスプーチンによれば「科学者も反駁できない位、詳しく調べられたもの」という。
 彼は湖の異変に気がついてから今日までの官僚や科学者の「バカ」(と明言)との闘いを語った。
 「化学工場の計画がもちこまれたとき新聞は『小さな共和国に大きな化学工業がやってきた』と書きたてた。やがて賢明さの足りない科学者は私たちの『真珠なるセワン湖』の水を使うことにした。かれらは『セワン湖の水蒸気などに価値をみとめない。工業につかえばいいのだ』といい、ある頭の変な科学者は『セワン湖は工業化のためなら全部なくなってもいい』とさえいった。この「井戸に唾する」ものどもと最初に闘ったのは詩人たちだった」
 バラヤンは詩人とテクノクラートとのやりとりではつねに「科学のことは科学者にまかせろ」の手口で詩人の直感と良心はいなされたとのべ、「彼らは詩人は詩人らしく、月の下で恋人たちが口づけするといった美しい詩を書いていればいい」といった」と怒りをぶっつけた。
 彼によれば、人口二〇万のエレバン市の新生児の10%が死産もしくは障害者という。半世妃にわたる環境汚染でアルメニアは十万以上の人命を失い、三〇億ルーブル相当の被害を蒙ったー。

 この六月、全ソ閣僚会議副議長は工場閉鎖を決定したが、「それをすなおに受けとる程、私はナイーブではない」とバラヤンはつけ加えた。語録的に紹介しよう。
 「この湖がなければ地球は完全ではない」
 「私にとってのエコロジーとは、自分の国アルメニアについての科学であり、私の家、家族についての科学なのだ」
 「エコロジーとは何か、アメリカの学者のいう「生物学的賢明さのあらわれ」という定義に同感する。そして「賢明さは、論理プラス次の世代=子どもたちへの配慮」なのだ」
 のちに地図を見るとすり鉢状の国の中の火山湖のような、ただひとつの湖である点、その汚染はいかにこの国の人びとの死活の問題か分った。エコロジー問題の活火山の一つなのだ。

 情報の不足もさることながら、自分たちの手で調べていくというパターンが未成熟。日本側から石田氏の「琵琶湖からの報告」は、湖の汚染に気づいた市民(主婦)たちの調査と対策、そのための学習会運動によって、合成洗剤を水域一体から追放し、石けんも自分たちの手でつくり、ついに行政(県)の決定にいたったという報告はソ連の人たちの行動様式の盲点を指摘した観があった。
 立松和平氏は「自分の村と農業の都市化のただ中の自分史が作家の出発であった。ビニールハウスの中で人工的につくられるトマトに宿った一しづくの水滴の美しさを表現したかった」とのべた。

 シベリアの汚染の長大のものはイルクーツクの対岸、バイカルスクの紙・パルプ合成化学工場だ。だが翌日の湖上視察からも外されて、その実態は眼にすることが出来なかった。
 私の二十年前のメモによれば、その規模は一九六七年稼働時で、パルプコード(セローズ)年間二〇万トン、繊維用ビスコン線二〇万トン、良質の紙二五万トン、段ボール紙二八万トン、家畜の飼料化九万トン、樹脂一万トン、ベニヤ二〇万立方メートル、製材三五万立方メートル、建材用合板四千万平方メートルという木材化学王国ともいえる巨大なもので、工場の広さ六〇〇ヘクタール、湖岸六キロメートルを占め、従業員と建設員一万四千人。いづれブラーツク市(当時一六万人)と同じ町になるー(最近の日ソ合弁のフラーツク木材工場が、製材年産一〇万立方メートル計画という)。

 バイカル湖とその汚染問題の報告を担当したのは元陸水研究所長、グレゴリー・カラジー氏である。木材化学コンビナート反対運動で職を追われたという。バイカルの生きた百科全書のような人だ。
 
 バイカル湖は世界の全淡水の20%をしめ、塩分は皆無に近く、透明度四〇メートルに及ぶ。流入河川三百、流出河川は市内を流れるアンガラ河一本だけ。だから水の入れかえに四百年かかるという。つまり一旦汚染されたら回復至難の自然である。
 湖底の沈澱物は一千年に四センチの厚みしかない。しかも水深は一七四二メートル、さらに底質地層の厚みは六千メートルに及ぶ。その水は「今も飲める。よごれていてもまだ飲める」。それほど巨大な自然だという。
 異変は湖特有の藻の消失、魚類の餌となった小さなエビ、エビシュラ(体長数ミリのプランクトンの一種か)の死滅からはじまった。名物の魚オームリが減少し、体重が五百グラムから平均二百グラムにしか育たなくなった。このオームリなどを摂って淡水性アザラシが棲息している。
 
 このコンビナートは一九五〇年代の終りに計画され、一部完成した六三年夏、月刊誌『オクチャブリ』に「計画されている計画が実現した暁には『さらばバイカル』ということになるであろうか」という警告をふくんだルポが発表され、全ソ的にバイカルを救うキャンペーンが展開されたが、この年末には、バイカル湖の汚染についての情報の制限がはじまったといわれる。(ボリス・カマロフ『シベリアが死ぬ時』アンヴィエル)
 この官僚主義的報道管理はグラスノスチの今日でもつついていたと報じられている。
 「党はグラスノスチの路線を宣言しているのに、今なお情報が制限されているゾーンがある。その一つとしてプラウダのアフアナシェフ編集長は環境汚染など生態学の分野を上げ、『シベリアのバイカル湖の汚染に関するデータを集めるのに本当に苦労した』としている」(八七・三・一四、ソ連ジャーナリスト同盟第六回大会基調報告=朝日新聞)
 右は私の持参した関連記事の切り抜きだが、この状況のなかでラスプーチン氏らの取材活動、資料調査は困難を極めたに違いない。
 では今日は明らかにされているかどうか。
 ラスプーチン氏が質疑のなかで洩らした数字は衝撃的であった。人体被害としては、工場所在地の村の若い世代に健康の変化が見られ、とくに子ども48%が骨をおかされ、歩行が不自然になっている。噂ではダウン症も多発しているという。もしこれが事実なら障害の発生率としては水俣病より高いともいえる。しかし医学者の参加していないこの場では詳細を語る人がいない。(ビタミンGの不足によりカルシューム不足におちいったカリエスのような病気ともいうが確かではない)
 工場からの廃棄物は処理されていると当局は言うが、工場で使われ、湖にもどされた水は「死の水」だというだけで、水質やヘドロの分析についての知見が参加者にはないのだ。水俣病事件史でいえば発生の初年度と同じであろう。
 
 「医学者の会議みたいだ」とあとでボヤいた傍聴者もいたようだが、私たちはつっこまざるを得なかった。一九七〇年代に発生したカナダ水俣病と疫学的条件は酷似している。この場合の汚染はパルプ工場であり、そこで大量に使用される苛性ソーダの製造工程中から触媒の水銀がインディアン居留地一帯の「森と湖の国」に流出した。その地理的疫学的条件が酷似している。
 バイカル湖の工場は近くの集落の子供の疾病に水銀が関与していないか。さらにきくと、苛性ソーダ附帯工場があり、水銀法が採られているという。初日の最終段階の情報交換ででた話である。まだ私の映画は見られていなかった。心せいたがソ連の人びとには、その問い正しの意味も、水俣病のうたがいがぬぐいきれない当方のもどかしさも理解できなかったようだ。たとえば文学表現としても、石牟礼道子の「苦海浄土」は科学的データとその水俣病の発生機序も詳しく把握されている。何故ピンとこないのか?
 やはり科学は科学、文学は文学と別々なのか。社会主義と資本主義の違いがあるのか? 野間氏も立松氏も林さんも交々データを聞くが答えになっていない。その情報はかなりまで明らかにされているらしいが、文学の中心課題に関連するとは想到されていないように感じられた。むしろ、より思惟的な変革、根源的な文学の心の問題の交流の方に重きがおかれているように思われる。
 野間氏の十三頁分の報告は文学者としては科学を積極的に吸収して危機の像を立体的にしているが、それが理解され得たか大いに疑問に思われた。
 社会的役割の立て割りーといったことばが頭に浮かぶ。日本の反公害闘争は横並びに動いた。               
 「日本のように、資本の反人間性を見すえ、その企業の秘密主義、閉ざされた犯行現場により近づいて、そのデータを盗みだし、あばき、民衆の論理武装のための表現にかえるといった方法は、社会主義国では元来、発想することもできない非現実的なことなのだろうか。
 その反面、そのアンバランスの分だけ、より魂の問題にソ連作家の重点がおかれている気がした。その間題意識は日本の環境問題の中核的部分と全く重なり、又より思索的にも思えた。

 ロシア・ヨーロッパ部の辺境にすむワシーリイ・ぺーロフ氏は、地元の自然河川の改修ー蛇行する川を直線化するー工事に反対してきた人だ。
 「私はソ連のエコロジーの進展にはペシミスティックです。作家は森林が消滅していくといった事態に何の力ももてない。ひとつにはソ連の作家はテクノクラートと政治家と戦うとき、同じレベル、同じ水準で闘いがたい。彼らは専門的知識で攻めてくる。しかもマスメディアは官僚主義者とテクノクラー卜の手中にあるのだから」といって場内のテレビカメラや記者たちにまで渋面を見せてにらみつけた。
 「もうひとつ私をペシミスティックにさせるのって殺されるということだ。社会の成功は製鉄生産で示される。その鉄は巨大な採炭機をつくる。五〇年代には一しゃくり一立方メートルだったのが今は十六立方メートルだ。電力もむやみに増やす。そして又鋼鉄の生産高を押し上げる。これが進歩といえるのか。魔法のサークルのようなもんだ。私は六〇馬力の車をもっているが、私ひとりで六〇馬力相当のエネルギーをもつ権利があろうか。六〇馬力を六〇人で分かつべきだ。私たちは馬とか帆のある船で、つまり自然の力をたよって生きることを今一度思うべきだ」
 禁欲的でもの静かで、僧衣をまとえばロシア正教会の聖戦者のような人だ。その作品は人気があるという。「ラスプーチンの言うように、便利そのものへの自己抑制がなければならない。それはトルストイの自己修養の考え方につながっている。こういう自己抑制が、国家的規模の抑制に、ひいては地球的規模の抑制につながるでしょう」とむすんだ。傍聴者の中には信心をこめた相槌をうっている人もいた。

 話は前後するがワシーリイ・べ-ロフのペシミズムはシベリア人のつくった映画の思想とも通じていた。ともに巨大開発への批判である。『ダム』という映画で、イルクーツク記録映画部門がつくった作品である。オビ、エニセイ河などに作られた大ダムの着工、建設、完成期のフイルムを随時入れながら「世界一」を標榜し、シベリア開発を謳歌して作られた発電所と広大な人口湖-それにコメントがかさなる。「その電力は真にシベリアの地域に必要なものだったか、数千キロの送電でロスすることを思え。広大な自然と旧くからの村、人家は水没した。文化と伝統を宿す家々は焼かれ、生物は追われた。ダムは自然改造の名をかりて、自然を破壊したのではないか。離れた家には風力発電の工夫が望ましい」ーシベリアの流木に埋まったダムサイトや、突貫工事でガタのきたダムの壁面にカメラをむけた実に告発力に満ちたフイルムであった。だが全国公開の許可が出ない。イルクーツク市民の投書攻勢などによって、何とか全ソ連の人びとに巨大開発に反対するシベリア人の意見を知ってほしいと運動中だという。

 ウラル山脈の西の町に疎開したまま四〇年その地方の工業化を見てきたヴィクトル・アスターフイエフは、栗原氏との親交でミカンや栗をもらったエピソードから巧みに語り出す。
 「果して人間が地球上で一番賢い存在だろうか。地球には一万五千の戦争が行われ、私もその一つに参加した。戦争のとき、人間の死にも立ちあったが、死にひんした動物や植物たちにも遭遇した-。動物たちが死にぎわにみせたまなざしは、人間にむけた、苦しみにみちた批難のそれだった。自然の中で、人間がこのように尊大であり、自然をこのようにほしいままにしてよかろうか」
 アスターフイエフ氏はウラルの石炭・鉱石の乱掘、戦中の企業・工場の疎開と戦後の集中生産の工場地帯とその地方一帯の森林伐採しつくした開発一サイクルの終りを回想し、「人間は賢いだろうか。いや、一番我慢づよく、賢い存在は、私は植物ではないかと思う」という。
 「このように自然をしいたげてきても、わがウラル山脈はまだ人間にたべものを与えつづけてくれる。それは植物です。ロシア人の飢餓を何度となく救ってくれた植物、それはジャガイモです。ジャガイモの花は煤煙で灰色から、黒ずみます。森の木の実をとる手はススで黒くなります。だが、驚くべきは、ジャガイモという植物は、人間が開花をさまたげているのに、実を結び、われわれに与えてくれる。植物には「我慢」があります。もし人間同様、怒りっぽいものであったら、私たちの存在はとっくの昔に失くなっていたでしょう。このジャガイモの前に立ち止って考えなければならない」

 ロシアには詩の朗読の会があると聞いている。金を払い、詩を聞きにいくということはビンとこなかったが、アスターフイエフのかざらない、しかし言葉のつよさ、優しさを聞くのは快かった。それは、初日午後、読者との対話集会であらためて思った。五百人ほどの会場は超満員だった。それも十倍も来た申込みを抽選で入れたという。入場料は映画館より高い一・二ルーブルという。
 そこでの熱い雰囲気には驚かされたのだ。通訳も聞き耳を立てているので寸言しか聞けなかったが、このペレストロイカに作家は何を訴えるか、それぞれに歯に衣させぬ熱弁をふるっているようだった。聴衆の反応で分る。
 記憶派といわれる文学潮流があるようで、しきりに質問が出ていた。乞うて通訳してもらった一節にこんな部分があった。アスターフイエフの発言-。
 「一九三七年、スターリンのテロにより、毎日数千人が射殺されているときに「われらほど自由な国民はない」という歌をうたってきた。真実は知らされなかったからだ。しかしその銃殺を知っており、関与した人間もいる。その人々は事実をかくしつづけてきた。作家もそのことを書かなかった。いまグラスノスチの政策の下で物を語らねは、私たちは死ぬだろう。自分の記憶を忘れてはならない」
 アルメニアのゾーリイ・バラヤンも、更につっこんで官僚主義批判をぶち上げていた。 「企業には官僚が多い。一千万人以上いる。アルメニアには人口三百万人の国に十万人の管理者・官僚がいる。品質をよくするためにそれだけ必要というが、それは労働者の自覚でしょう。この国一千万人の官僚の中には詩人・作家や、科学者になる可能性があったかも知れないのに、だ。一千万人は無駄であった」等々である。観客の集中力も見事だった。
 あらかじめ予定されていた船による二日の旅がやってきた。
 バイカル湖の周遊は「一寸そこらあたり」という日本国立公園風の世界の散策とはケタ違いだった。昼食時間もふくめて、往路十二時間の長旅である。それはイルクーツク在住の人びとにとっても稀な機会らしく、「東欧圏のジャーナリストもまだ行っていない」という。ましてモスクワ育ちの通訳やジャーナリストにとっては一生に一度といった僥倖らしかった。
 作家同盟イルクーツク支部の副部長フイリッポフ氏はラスプーチンの意を体してであろうか、徹底して退屈なまでの時間をこれにあてた。つまりバイカルの体験時間としてである。ひまだから湖の水を呑む、空を見る、水面から岸辺を見る。ときに一刻の水泳の時間まである。

 この船上の見聞で発見したのは、シベリア人の自然保護というときの、その水位の高さである。できるだけ人間の手を加えないのが理想らしい。
 沿岸の森の保護は五〇キロの幅である。魚の保護の禁漁期闇も七〜一〇年単位だ。名物の魚オームリが戦時中の食糧として乱獲され、六〇年代初めからの沿岸工業地帯(とくにパルプ化学コンビナート)の廃水により減少を見ると、まず一〇年間の禁漁期間を設けた。そのため七カ所の漁業コルホーズのうち、今回たづねるオルホン島のそれ以外を閉鎖して、漁民を林業コルホーズ等に配置換えさせ、たったひとつ残された漁業コルホーズの工場部門-くんせい、塩漬け、カンズメ工場もはるばるウラジオストック経由でオホーツク、太平洋の魚をはこび、稼働させて、一千名のコルホーズ員を養ったという。
 一方、フ化養殖事業にも力を入れ、オームリの魚影の濃くなった頃あいをみて、七年後、再開された。漁期は六、七月の二カ月のみ(で、たのしみの刺身は数日の差でたべられなかった)、しかも全水域だった漁場はオルホン島の西の水域だけに限られているという。
 都会人のスポーツをかねた釣は許可制で三ルーブル。十キロ (オームリ一匹三百グラム前後)に限られる。それをオーバーすれば、三本しかない街への道に常駐する警備員にとり上げられる。犬を使うので絶対に逃れられないという。網での密漁は一匹につき十ルーブルという罰金-。これが日本なら暴動が起きるだろう。

 一九六七年からコンビナートは稼働している。ここにも二十年のバイカル事件があったことになる。水俣病事件と符合する事が少なくない。
 汚染事実が明るみに出るや、企業は浄化装置を作った。が汚水は完全にはとめられなかった。
 データのごまかしが疑われた。コンビナート周辺の土質、水質について、企業に属する研究所の科学者たちは、放出はみとめても安全値以内という。
 マスコミ操作も行われた。イルクーツク記録映画部門が企業のいいなりのシナリオで安全PRをした。工場労働者、周辺住民も協力して出読した。(あとで市民からどづかれたと出演した人が苦笑していた)
 市民は科学アカデミーに展する地元の陸水研究所に独自の分析をしてもらったが、有害値が出た。企業の研究所とのデータ争いになり、一般の人にはわけの分らない論争になった。近く、全ソ・アカデミーじきじきの決定が出る予定という。

 水質の外、大気汚染により、二五万ヘクタールも被害の出ている事実もあって、党・政府もこの工場を最終的に閉鎖することを考慮している。しかし前述のように巨大でしかも輸出産業の花形であれば、五力年計画の中で空白にはさせられないとして、それにかわる工場建設案もあるが、当面、産業廃棄物・廃液をバイカル湖に放出せず、そっくりパイプで七〇キロはなれたイルクーツク郊外にはこび、そこで処理する計画が提案されている。
 市民は数千人分の署名を送り、パイプ計画にも反対している。ゴルバチョフからイルクーツクの第一書記あてに、中止を考えるようにとの勧告の手紙がとどくまでに問題は煮つまってきているようだ。

 真のまっ暗闇をバイカルの一夜で味わった。雲の低い夜だった。魚料理に、キャンプにとバイカル体験を重ねた。
 「水清くして魚すまず」といえばバイカル自慢のシベリア人に怒られそうだが、日本の海をみた眼には生態系は薄く思われた。浜辺に貝殻は皆無であった。カモメも群なして行動していない。バラバラになって、魚をねらっている。餌が少ないからだ。
 氷河にけずられた楯状台地らしく、岩盤の上に一メートルたらすの土層しかない。
 もっと極北ではトナカイの好むコケは五年かけて育ち、放牧は最低五年後でなければ、同じ土地にいけない。ここの牧草も二回刈りがやっとであろう。
 このことをシベリアの人は体で知っているのだろう。微量の汚染や水の変化、亜硫酸ガスにも冒されやすいのだ。だから自然を守るというときの保護の基準線の引き方は、高温多湿の国、ニッポン人の想像を超えるものがある。観念的な厳しさではなく、肉体で知っている自然保護のレベルなのであろう。
 
 「バイカル会議」の四日目、すなわち最終日の朝、水俣の映画の上映の機会がきた。私の仕事はこれをキチンと見せることにつきる。
 ロシア語はベテランのエレーナさんがしてくれた。場所は記録映画研究所の一室、一般観客の来にくい場所での上映で残念だったが、それでも上映がはじまるや、四、五十人の人たちは熱心にロシア語解説に耳をかたむけた。時間と手間をかけた訳は完壁だったようだ。人びとの嘆声やおどろきの声、そして最重症の少女のシーンに眼をおおう婦人もいた。はじめて、ミナマタに触れたのだ。
 あとの質問にさける時間は少なかった。ただ一つの質問「工場は何をつくっていたか?」にこたえて「合成繊維やビニールや、いわゆるセルローズといわれる物質もつくっていた」というと一斉にわななきが走った。
 場所をいつもの会場に移してから、市民の参加者から「この映画フイルムをここでも見られるようにならないか」という口ごもった申し出があった。気持ちとしては市民に見せたいが、かといってどうすればよいかイルクーツク・レベルでは分らないが…という風に。
 私は七二年にすでにモスクワで自分の手で党、政府、平和委員会、婦人団体などの責任者たちに水俣映画を見せ、ソ連のテレビ又は教育映画として投に立つかどうかを打診するため上映していた。見た人たちは感動はしたもののソ連での公開の話は一切出なかった。しかし十五年たった今日、市民運動としては、この映画が必要な時期にきているとは痛いほど分った。
 今まで東南アジアの公害研究家にはビディオにしてプレゼントしてきたが、この国は社会主義の国であり、情報公開の機運のただ中にある。だから、国として見せるうごきになってはしいと思った。「これは自主製作でテレビ局のものででもありません。が買い、そして上映または放映するならば、すぐこの場で契約し、OKのサインを出します」と答えた。
 前出のシベリア開発ブームを批判した『ダム』の今日の処遇をみれば、このフイルムの放映はむつかしいと判断したのか、その話はそこで留まらざるを得なかった。

 さて、この映画を皆でみることによって会議の第一日目から水銀中毒の可能性を論じてきたことが、一気にイメージ化された。バラヤンは「絶望そのものの映画であった。しかしそれを記録し、私たちに見せてくれたことは希望としか言えない、心から感謝する。ついては声明の最後に一句加えることを提案する ー今後、環境破壊に原因をもつ疾病にミナマタ病を冠したい」と提案した。
 すでにカナダ水俣病という例があるが、あくまで環境汚染による有機水銀中毒としての発症機序をもつものとして、医学用語化された事情をのべて反対したが、その象徴性の受けとり方としては深く理解できた。
 
 最終段階で、このバイカルでの集いを声明とするかドキュメントとするか、アッピールのようなものにするか論議された。
 栗原氏の提案により、この一回に終わらせず、バイカル湖の汚染とセワン湖、琵琶湖のそれを「三湖一体」のものとして、毎年会合をもち、やがて世界的にひろげる運動にしていくことは一致した。
 だが微妙な差も出た。ソ連作家同盟としては国連のどの機関の決定か(ユニセフか)一九八〇年代を「飲料水に関する一〇年」としていることにかんがみ、この会議の記録を国連への要請に当てたいという希望もあるようだった。私の受けとり方としては国連をクッションにして、外ならぬソ連政府に対し、アルメニアのサワン湖、そしてバイカル湖をめぐる諸問題解決をうながすための、いわば日ソ作家によるノン・ガバメント組織としての意思表示ともなればというさし迫ったものを感じた。

 野間氏は「この機会にしあげるように事を急がず、時間をかけて、世界の作家たちによびかけるものを練り上げては」と提案した。
 そこでまとまったのが、別項のステートメントである。

 この会議で、もっとチェルノブイリ原発事故について語りたかった。片言隻言であったがソ連参加者に原発保持論はなかったことは確認できた。
 野間氏の提出した地球の危機の全体像が、この第一回会議では飲料水汚染に傾いたが、それがここに参加した作家の直面する焦眉の問題であることへの理解は出来た。だが、作家的姿勢、類的人間としての使命観としては、ほぼ求心力を同じくし、関心の焦点も極めて一致していることは感得できた。
 しかし何といっても相互の情報の圧倒的な不足である。言葉の壁は当分なくなりそうもない。この気の遠くなるような相互のへだたりはあっても、こうした作家間の具体的課題を基軸とした連繋はペレストロイカとグラスノスチの時代の活性化には力をもたらすであろうし、日本の文学にもひとつの指標を啓示してゆくことだろう。
 私はシベリア、アルメニア、ウラルの作家にしきりにアジアを感じた。そのことがまたこの会議を生んだひとつの地下水脈に思えた。社会の体制や政治のちがいを超えて、文明の危機をかぎわける人間の所在が、アジアに濃くあることをアジア人の大地、シベリアの地でいくたびも思い返した。
 最後に自分の言葉を節して参加書の発言を盡したラスプーチン氏はじめ、この会議の準備をモスクワで努力したエレーナ女史、そして通訳の諸氏、関係者、及びイルクーツクの作家同盟の皆さんに、心より感樹したい。
 (一九八七・八・二四)