日本(やまと)と沖縄の“合作映画”-『ゆんたんざ沖縄』の啓示 『毎日新聞』 9月21日付 毎日新聞社 <1987年(昭62)>
 日本(やまと)と沖縄の“合作映画”-『ゆんたんざ沖縄』の啓示 「毎日新聞」 9月21日付 毎日新聞社   

 今まで沖縄の記録映画が何本かつくられたが、ある贖罪感がつきまといがちだった。薩摩藩の支配にひきつづく沖縄の皇民化、そして唯一の地上戦の中で、日本軍による同胞虐殺、そして非戦闘員である島民の集団自殺へと導いた歴史をかえり見れば、本土から島へ取材に赴いたドキュメンタリー映画作家にとって当然の心情であったろう。アメリカ軍による占領下にあって、日の丸の旗は祖国復帰の抵抗のシンボルとして映じたものである。復帰前につくられた東陽一の『沖縄列島』は日本本土を求心軸にもとめず、台湾、ヤポネシアへの飛び島づたいの視点を加えた点で異色であったが、大和んちゅうのほろ苦さと責任を背負っていたことに変わりはない。
 西山正啓のつくった、復帰十五年目、天皇の沖縄(海邦国体)初訪問の年に発表された映画「ゆんたんざ沖縄」は、今日の沖縄人じしんの心の格闘に眼を注いでいる。「ゆんたんざ」読谷村に焦点をすえ、そこだけで描いている。沖縄といえば嘉手納、ひめゆりの塔の南部戦跡や、観光開発で蝕まれゆく自然、そして石垣島の白保の”軍用”飛行場建設によるサンゴ礁破壊などパノラマ的に沖縄の今日を描くこともできたであろう。しかしスタッフは読谷村に住みつくように数カ月くらし、そこに起こりつづける文化の芽ばえ、自在な身構えの村の反基地反戦の活気のありか、戦後四十年目にしてベールをぬぐ集団自決の洞、チビチリガマへの光の回復、それを可能にした村のリーダーたちと金城実による「平和の像」つくりの劇的な進行にひたすらつれそってこの映画を完成した。
 西山監督じしん戦争を知らない世代である。平和の像をつくろうと提唱し、自決した村民の遺族の手づくりしごとへの参加を求めながら、閉ざされた記憶の闇から、集団自決の実相を聞き出そうと苦慮する村の中堅の青年も、また、戦後しか知らない。村はずれの米軍上陸地点にあるチビチリガマの肉親の骨を戦後まもなく拾ったのち、誰も入らず、語らず、風化にまかせた四十年の歳月があった。そして映画は「平和の像」をあたかも寺院の門扉のように洞窟の前にすえることで村の歴史的メモリアルの公の地にかえていく。映画はその像づくりが遺族や村びとの心を変える原動力とし機能した、祭事にも似た消息をあますところなく伝えている。
 さまざまの主役的群像が登場するが、この映画づくりの発起をうながした彫刻家、金城実(大阪・教員)じしん、同じ沖縄人とはいえ、読谷村に魅せられたヨソモノである。一つ一つの村が邦であるような事情をこえて、読谷村に残波大獅子の巨大なモニュメントを築き、つづいて、集団自決の像をつくる。そう誘惑した村の村長、助役をはじめ、村の青年たちの泡盛のにおいのするつき合いからうまれた村おこし、戦争体験の浮上と定着の行動様式が極めて解放的で、この映画の基調音になっている。
 むらおさ(村長)山内徳信氏も「ギブミーチョコ」世代である。その彼がはじめて社会科教科書で”民主主義・憲法”を読んだ感動を丸木位里・俊夫妻(当時、「沖縄の図」制作中)に語るシーンはハッとするほど啓示的である。このリーダーによって、村の教育行事にもちこまれる「日の丸、君が代」反対の高らかな村長施政方針演説の一語一句は、日本政府を刺すと同時に、沖縄ですら少数派となった村の位置を物語る。つまり天皇の今秋の海邦国体のための訪沖にむけて、県レベルの行政指導は鉄冠のように、読谷高校の校長、教頭たちを日の丸掲揚へと締めあげる。村民の三分の一=八千名の署名という”援護射撃”にもかかわらず県教育庁に屈服していく彼等、それに抗して、卒業式当日、旗をドアに捨てる生徒たち。つまり沖縄のうちなる格闘のシーンが展開している。生徒たちの上気した顔が美しい。
 四十年後にして、はじめて自決の瞬間の自分の行動の細部を語り、その後、苦しみを酒にまぎらわした男、女、母、子どもたちの戦後史、それを基地に半ば占拠された読谷村が、個性あふるるリーダーを得て解きあかしていくさまは、沖縄の枠を越えて現代史の語り継ぎのあり方を感銘させる。映像もいい。とくにラストの村娘を含む若者たちの残波太鼓の練習シーンは、大津幸四郎のカメラによってからだのみならず精神の運動美を描出した。
 復帰十五年”日本化”する沖縄のゆれうごきを描いた、大和んちゅうとウチナンチュウ(読谷ちゅう)の合作映画をみる思いがする。