死の時間から現在を計れば皆チョポチョボ-私の青年時代 「青年心理」 1月号 ぎょうせい
私の青春時代、といっても大人なみの労働を求められ、物事の矛盾を感じはじめるのが青春のはじまりであるならば……だが、戦争も敗色の濃い昭和一九年頃からがそのはじまりだった。二〇年夏の敗戦のときは十六歳だった。よく「学歴は?」と聞かれると、冗談半分に「中学二年二学期まで」と答える。学生運動で除籍されているので、早稲田大学には在籍していなかった扱いだ。では中学卒かとなると、昭和二〇年、四年修了を卒業に切りかえられ、どさくさの中、卒業させられはした。が、教室生活は答えの通り、二年生の三学期から以後三年、勤労動員にあけくれた。勉強する気を出すにも、大学を受験するような”平時”が訪れるとは考えなかった。戦争にいって死ぬだろう。それは二十歳か二十五歳か、といった人生の間尺のとり方だった。
小学校時代に徹底的な軍国主義教育を受けた。宮城に最も近い学校のひとつ、麹町小学校の生活は、精神修養に「素読」といって古典を朗唱する。勤皇の学者、藤田東湖の「正気の歌」。これで天皇への崇敬の念を養われた。剣道は寒稽古までして全国一、二位の座を守ったウルトラ右翼学校だった。少年航空兵に早々と志願するものもいた。中学二年生ぐらいの少年がその入学に当たって、近所の人に見送られ、「死して護国の鬼になるつもりで頑張ります」と、つっぱる。その母親が身をよじって鳴咽するのを見のがせなかった。「壁に耳あり障子に眼あり、スパイは君のとなりに居る」という標語を当然としてうけとっていたが、通学の途中、潜水艦の型の当てっこをしていたばかりに私服刑事にこっぴどく叱られたのには大いに不服だった。
私立麻布中学は比較的自由な校風を持していたが、時代にはさからえず、三名の軍事教練将校にしめつけられていた。三年生になると陸軍士官学校や海軍兵学校などを受験する優等生が続出した。私もついその気になって受験票を出したが、馬鹿馬鹿しくなって受験にいかなかった。後日、憲兵から思想的背景はないかと父親が取り調べられた。母は無言だった。
書籍に飢えた敗戦の前の年頃から、住んでいた世田谷砧あたりの疎開者から本の始末をたのまれ、二束三文で買った。地元の若僧が、「本をもちよって回覧する文庫をつくろう」ということで「砧読書会の会員募集 ぜひ参加を」という手書きのポスターを駅前のソバ屋に貼り出した。あとで考えれば、大正時代のマルクスボーイたちの研究会などに「読書会」という名称が使われていたそうだが、私たちは知るよしもなかった。ポスターは一日もたたず特高にはがされ、ガサ入れされた。河上肇の『第二貧乏物語』ほかマルサスの『人口論』などが没収された。未成年ということで、再び父親が呼び出されてあれこれ聞かれたそうだ。自分では愛国少年で「儘忠報国」、まっ赤っかの人間と思っていただけに”赤心”を疑われたのには弱った。学業や勤労動員をサボってムーランルージュをのぞいたり、映画を見たりするのがせめてもの気晴らしだが、未成年ひとりではつかまるので、見ず知らずの大人にぴったりついて、連れのように慣れ慣れしく会話しながらモギリをだました。こまっちゃくれたガキだった。
戦争は聖戦を疑わなかったが、軍人、兵士と隣組の組長は不愉快だった。ある参謀本部付青年将校は中学生全員の前で、「シンガポールだけは金輪際日本の領土にする。マラッカ海峡を制するものはアジアを制するものだ」というあたりはいいとして、「皇軍にさからうものはこらしめねばならぬ」と、図にのって「南京では匪賊の女どもも容赦しなかった。オ○○コに銃剣でブスッ、とやった」などと並居る校長・教師を前にぶちはじめた。その困りはてた白髪の校長の反応ばかりが気になった。パラノイヤ的精神異常者の”武勇談”はのちに南京大虐殺のことだったのだと思い当たったが、少年の心に穢れをふりまかれたようにイヤなものがからみついた。兵・下士官をこの眼でみたのは、本土決戦にそなえて、利根川すじ、水郷あたりの運河掘りにかり出されたときだ。軍管部は宿屋をかり切り、自分たちは民家の物置きや馬小屋に分宿した。彼らには少年たちの食事のことなど念頭にほとんどない。孟宗竹の輪切りニケに麦飯一杯とみそ汁だけの生活である。半月もするとみんな栄養失調になった。それでいて暁部隊宿舎には川魚や米をたく匂いがただよい、村娘を徴用して、酒をのんでいる。唾腺がジュウジュウ痛んだ。
東京の空が赤く焼けるのが望見されると、両親のことが気になる。申し出ると、いきなり軍刀をぬいて「このガキら、叩き斬るぞ!」とくる。友達は失禁したほどだ。「これが日本軍か、これが”兵隊さん”か」と呆れはてた。彼らの眼を盗んで底泥さらいの苦役をサボり、タニシをしこたまとって、母屋の農婦から少々の塩をもらい、ゆでて仲間とたべた。皆蚊にくわれたところが化膿しはじめ、私は軽く喀血した。衛生兵は「ひとに伝染するから帰れ」という。友達にタニシの塩ゆで法を伝授して帰京した。
いやな人種はふえるばかりだ。隣組の組長がイヤ味をいう。「詐病だ」といいふらす。男手の少ない時節がら、防空の不寝番をせよという。「非常時にいい若いもんが……」と圧力をかけてくる。一方で、ヒワイなことばで若い出征兵士の嫁の気をひいたりする。その小権力も、配給物の分配の差配をしているからだ。イモやミカンの買い出しにいく。農家の都会ものに対するあしらいはにべもなかった。「わしんとこで買ったとは死んでもいわんこっちゃ」と耳にタコができるほどいいふくめられた。ヤミは買い手も売り手も厳罰だったからだ。「どん百姓めら」とうらみをもった。
ただただ読書だけが楽しみだった。肺浸潤のため微熱で伏す床の中で『チボー家の人々』や夏目漱石全集に読みふけった。
敗戦の放送を隣家のラジオで開いた。元外国航路の機関長をしていた老人が「ホイ、終わった」と軽くつぶやいた。哲人風の元船乗りで、外国の港々に詳しい人だ。その人の一言でツキが落ちたように無心になった。
話ほとぶが、昭和二三年に日本共産党に入党するまでの三年間、無頼の限りをつくした。大人たるものは一切信用できなかった。民主主義の風まかせでしたり顔をするもの、共産党風を吹かせるもの、どこか、そのファナティックな物のいい方と高飛車な態度が戦争中の人間嫌いのもとになった軍人、兵士、隣組組長と一脈相通ずる気がしてならなかったからだ。「いつか来た道、ああ、そうだよー」といなした。時流にのるまい、ベストセラーを読むまい、上り坂を歩むまい、何事も疑え、自分を一番駄目なやつだとまず思え、などなど十戒じみたものを自分に課したが、していることはニヒルな不良じみたことばかりだった。坂口安吾ばりに「堕ちろ 堕ちろ みな堕ちろ」と口誦しながらカッパライや本の万引きまでやった。既成のモラルをとことんまでこわす気でいたが、ただ仲間だけは失いたくなかった。
敗戦の翌年、早稲田大学の専門部法科に入ったが、旧憲法は教えるわけにいかず、刑法も不敬罪はもとより姦通罪など廃止になる箇条が随所にあり、教授は人気とりの漫談まがいの人生談議で時間をつぶすのがやっとである。馬鹿馬鹿しいので、四年間に三〇日ぐらいしか出席しなかった。レポートだけで進級できた。復員服を着た年かさの学生や、威勢のいい頭の切れそうな学生が自治会をつくり、共産党の細胞を創設し、サークルを結成し、熱気にみちていたが、前述の十戒にさまたげられて渦中にとびこむ気には毛頭なれなかった。悪の系列の文学に魅かれ、とどのつまりがドストエフスキーの全巻読破にとりつかれた。しごとといえばそれを読むことだった。倦むと古本のブローカーをやった。映画人の多い街(世田谷・砧・東宝撮影所界隈)なので、戦前の映画の本が古本屋によく売りに出された。それを買って早稲田の古本街にもちこむと倍の値段で売れた。片手間仕事でも金は潤沢だった。気の合う仲間とカストリをのみ、日劇の踊り子に入れあげ、軽演劇や映画のはしごをし、夜どおし万年床でドストエフスキーを読み、「一杯のコーヒーに事欠かねば世界がどうなろうとかまやしない」という『地下生活者の手記』の一節をつぶやいているーそんな生活の中で、しきりに自殺を思った。
当時、焼けた小学校の理科室から盗み出した「劇毒物」と書かれた白い粉末入りのビンをもち、四、五人でひそかに分けていた。皆が欲しがったからだ。それを所持すると世界が変わって見える。「いつでも自分の息をとめられる」自信は、ときにナイーブな寛大さを自分にもたせるのだ。それまで貸す耳をもてなかった他人の悩みごとに興味をもって聞くようになった。「だからって死ねるの?」という一言を押し殺せば、何事もゆるせる範囲の話である。死の時間から現在をはかれば、強者も弱者もチョボチョボに見える。その”死”をいまポケットにもっているーそれは奇妙な安堵をもたらした。何事にも寛大になれるのだ。
しらけていた党員にも近づけた。マルクス主義文献も聖書にも興味をもった。人恋しさの情にあふれるようになった。戦争による死にかわって、自分のほしいままな死を手にできた奇妙な自由と自律が生じたかのようだ。
そんな遊びが不意に絶たれた。薬を手渡していた年かさの友人が服毒し、八日間、時々刻々内臓を糜爛させて絶命した。かけつけた時に手遅れの旨医師から告げられ、長時間苦しんで死ぬと告げられた。私は一つのことだけ決めた。それは彼が死ぬまで一睡もしてはならない、それがつとめだと思った。
悲しみを超えて無心になった。殺してくれとせがむのでバンドで首を締めて医師に怒鳴られた。可笑しければ声をあげて笑った。ただ彼から片時も離れず眺めつづけた。「やはり死ぬのはイヤだ」とつくづく思った。友の命の軽視をその枕元で責め、「俺は生きるよ」と告げた。「そうしてくれよなあ、まったく」と血を吹きながら彼はいった。ある青春の一サイクルの終わりという覚悟ができた。私は二十歳になっていた。人恋しさの心はつのるまま生きることがしごとになった気がした。
後年、私は初めての著書に『映画は生きものの仕事である』(未来社刊)と題したのは偶然ではなかった。