アジアへの想い 「アフガン映画ニュース」 準備号 3月22日号 日本アフガニスタン合作記録映画を実現させる会
「アジア」とは私の頭のなかではながく「東南アジア」のことだった。戦争と戦後の米軍占領下で青春時代を過ごした私の「アジア地図」は貧弱を極めていた。
おなじアジアといっても中国と朝鮮は別格だった。二十代に日中友好協会で働いていたこともあって新中国は思想上のいわば「宗主国」でもあった。毛沢東、劉少奇、周恩来が挙げて建国にいそしみ、ソ連とも蜜月時代であった。かれらの本をむさぼるように読んだものだ。朝鮮・韓国については朝鮮戦争と切り離しては考えられなかった。だから過去の日本統治への謝意をこめて、アメリカ占領軍の軍事基地反対闘争に参加した。朝鮮半島の問題は「アジア」問題よりもっと切迫した関係に思えた。アジア一般ではなかった。
東南アジアを考える場合もまず贖罪感が先立った。米英仏・オランダの植民地のくびきから解放する聖戦と称して侵略、収奪、暴行のかぎりをおこなった、いわゆる「大東亜共栄圏」の版図がそっくりそのまま私の「アジア地図」に移しかえられた。戦時中、新聞の前線報道、占領記事を指で辿って覚えたアジア、皇軍の旗の林立した東南アジアが、戦後もそのまま植民地的な印象をひきずって脳裏にあったのである。その地図を根底的に引き剥がしたのはベトナム戦争だった。これが第三世界としてのアジアに目を開かせた。
その頃、私はある留学生の映画を作った。英領マラヤから千葉大学に学び、祖国の完全独立のためにたたかい強制送還寸前にたたされた学生の記録『留学生チュアスイリン』である。それにつづくソ連のアジア部の横断取材『シベリア人の世界』では、ブリヤート・ヤクーチャ人の社会主義下にあっての土着性をそこに見た。時間の尺度は想像を絶した。交歓のきっかけは頬をさすりあって「アジア、ハハハァ、アジア」で足りた。
これらの仕事を通じて、訪日アジア人や留学生を知る一方、彼らを支える人々にふれる機会もえた。そこで強い感化を受けたのは留学生のお世話をするアジア文化会館の穂積五一先生である。「純正」右翼といわれながら、一生をアジア人留学生のために尽された。「アジアの人を日本の物差しで見るな」が口癖の人だった。晩年は政府、企業のアジア人研修生にたいする処遇に抗議され、食を自ら断って憤死にひとしい最後を選ばれた。「アジア人と誠実につきあう」この一言の中味の凄絶さに畏怖すら覚えたものである。
今回、アフガニスタンとの合作映画を撮ることになって先生の言葉をしきりに思い出す。いまアフガニスタンの政府指導者は自ら内戦を「兄弟殺し」と規定し、殺し合いをやめる事を至上の目標に、民族史的な「和解」にむけて動きだしたという。米・ソによる政治解決への動き、ジュネーブでの間接交渉、ソ連軍の撤退、政権をめぐって激動する波浪の基底部で、アフガンの人々がどのように平穏な生活を願いつつ、百年千年の叡智を生かそうとしているのであろうか、それを見たい、そしてその物差しを探し続けたいと思うのだ。