アフガン183日一民衆像を求めて 『公明新聞』 1月7日付 公明党機関紙局 <1989年(平1)>
 アフガン183日一民衆像を求めて 「公明新聞」 1月7日付 公明党機関紙局 

 素顔語る女性たち

 一九八五年に二回、一九八八年に二回、丁度半年アフガンでの撮影を続けた事になる。
 それだけ居てもアフガン情勢の予見もできないし、ましてアフガン問題観察者(ウォッチャー)にはなれない。ただただアフガン民衆を撮り続けただけだ。『水俣』や原子力船をテーマにした『海盗り』と同様の作り方をしてきた。くわえて歴史と文化、特に女性像を描きたかった。そのため女性ドキュメンタリー監督熊谷博子さんを共同演出者に起用し、結果として成功した。おそらく戒律厳しいイスラム社会を描いた記録映画としては、ベール(チャドリ)を脱いで、その素顔を語る女性、農婦などの多数登場によって、アフガンのみならず中東イスラム社会では初のフィルムとなろう。アフガンに関する私の新聞の切り抜きは一九七三年の王政の終幕の日から、スクラップは十数冊に達し記事で構成してみる方が余程克明で多彩、かつ明快だった。ところが、現実にアフガニスタンに行くと訳が分からなくなる。情報の氾濫する日本と違って、現地で情報を集めようとしても収集力、解読力の点で非力である。政府系の英字紙も、内容は極めてシンプルで公的なものでしかない。いうならば自分から飛び込んで、好んで「井の中の蛙」になったようなものだ。
 たとえば名指しで敵対的外交関係とされているパキスタン、アメリカ、中国などの大使館はカブールに健在だ。アフガン当局内や市民にコネを持ち、アフガン・ウォッチングし、日報的にその分析を流すことに専念している。われわれも時に利用させてもらったが、軍事的なものが主で民衆像は皆無に等しい。つまり西側の欲しがるタイプの情報がその提供者のバイアスを経て伝えられて来る。それでもカブールのソ連大使館情報とBBC(イギリス)で裏付ければまだましだ。だがいわゆる「アフガニスタン・ウォッチャー」は多い。

 長期取材型のロケ

 「意外に平静な首都、夜響く砲撃音…」といった紋きり型の記事は絶対に書きにくないと、カブールで会う日本人ジャーナリストの誰もがいう。だがそうなってしまうのにはアフガニスタン政府側の対応のせいでもある。取材はカブール以外ほとんど許されず、仮に地方の主要都市に外国人記者団ツアーがセットされたとしても、せいぜい一、二日間のスケジュールである。これでは「なにを書けるか」と怒るのも無理はない。だがわれわれスタッフは安全性が確認されるかぎり何処へでも行けたし、インタビューや質問はおおむね制限なしにできた。ゲリラのロケットの撃ち込まれる東部国境に近いジヤララバードに三回、延べニ週間、イラン国境に近い古都へラートとその近郊農村にも一カ月滞在し人々の生活を取材した。
 そこはいわゆる灰色ゾーン、政府軍、ゲリラの交錯している現役の戦場である。それは外国人記者団を羨望させた。だがそこで撮ったものは生産活動であり日常生活である。にもせよこの一見「不公平」な処遇と「差別」は何故か。アフガンの映画人との共同製作演出による合作映画だったからだ。時期を同じくしてヨーロッパ、アメリカ、東欧の記録映画スタッフも独自取材にきたが、専ら内戦の現状と戦局の占いに資する報道ドキュメンタリーを主眼にしたものだ。その範囲ではセキュリティ(安全性)を盾に行動の自由は制限され、われわれのような長期取材型のロケーションは許されなかった。政府は罵られた。だが、外国人記者団はゲリラ則のテロリストにとって恰好の標的である。ジャーナリストがアフガン国内で「殉職」することはスキャンダラスなショックを世界に与え得る。

 普通の人々を描く

 われわれも国内で頑強に抵抗し、いわば「地方自治」権を武力的に確保しつつ、停戦状態にある反対派の領袖を取材したかった。アフガン・フィルム(この国の唯一の映画企業)のスタッフとその可能性について検討した際、最後に「それではペシャワル(パキスタン)から入る方がいい」と真顔で言われた。国民和解政策を描くテーマのためなら、その方法は全く自由だが、この国内で合作映画を製作している以上、「安全への責任」はこの政府にあり、パキスタンから入るならそこでは反対派の「安全への責任」になる…彼等の手引きでなら行けるかもしれないとずばりと言って見せた。「なんたる発想」とひそかに舌をまいた。
 この十年、ともに兄弟殺しの戦闘をしながらも、頼ってきた外国の旅人に対しては彼等もまた、命にかけてもその身の安全を保障するという、イスラムの教え、遊牧民の道理、つまりはアフガン人の天性のホスピタリティ(厚遇)なるものへの信頼があっての発言であろう。ここには和解しうる兄弟が居る。
 この国は十年前、元王族の専制政治から「革命」をへて人民の国になろうとした出発点を持っている。それが旨く行かず、七転八倒の苦しみを味わっている渦中の国家なのだ。数百万人の難民を出した背景も見極めつつ、なお国内で生き続けた千数百万人の「普通の人々」を描きたいというわれわれの合作映画の意図は、苦労しぬいたアフガン映画人の選択でもあり希望でもあったのだ。それがこの映画を「合作映画」と言わせるだろう。
 勿論、時事な出来ごとにもフィルムを惜しまなかったが、もっぱらアフガン民衆の目で今回の映画『眠れる泉<カレーズ>の復活』を描きたかった。カレーズは砂漠の民の祖先から引き継いだ地下水道で人工的なかんがいである。自然の泉やオアシスとは違う。だが水源の復活に民衆を重ねて見たかったのだ。