アフガニスタンで験される私たち 『社会評論』 69号 9月号 活動家集団思想運動 <1988年(昭63)>
 アフガニスタンで験される私たち 「社会評論」 69号 9月号 活動家集団思想運動

 映画『眠れる泉(カレーズ)の復活』の撮影余話から話に入らせて戴きたい。
 カブールの街にカメラをすえてまず困るのは群がる子供たちである。「僕を撮れ」「俺が先だ」と迫って来る。カメラなしでバザールを歩いていても「ハポン?ジャーパン?」と声をかけてくる。間違っても「チーノ(中国人)?」とは聞かない。そうだと言うと嬉しそうな顔になる。同じように街を取材している白人スタッフに人だかりはしない。多くの国では日本人は、チーノと聞かれるほうが自然だ。アフガンは隣接国だからだ。「醜い日本人」ではないが、東南ア諸国で「日本人」と答える時の科が人めいた気持ちは、この国では持たなくて済む。天性、ホスピタリティーの国民性だから、だろうか。その疑問は誰しものようだ。カブールの日本国代理大使は「インドでは日本人何するものぞという芯がある。パキスタンはちょっと距離を置こうとするがここの人は違います」という。その理由はまちまちだ。そこで自ら設問する。なぜそうなのか、験されるはこっちだろう。
 
 1)歴史的に干渉しあう事のなかったアジアの「独立国」同士であったこと。英国の植民地時代、かってロシア・ツアーリズムやトルコの勢威に脅やかされた時代、この十数年はパキスタンとその背後の米国や中国に苦しめられた体験…それに比べ、その地理的隔たりが第二次世界大戦の日本の侵略性を不問にさせたまま、戦後は各国の「援助競争」に伍してTV開設に協力し遺跡の発掘に寄与するなどした。日本については「援助国」のイメージがつよくこの国に残されている…。「醜い日本人」として、つい伏し目勝ちになるが。 
 
 2)日本商品への憬れがそのまま、われわれ日本人のイメージ・アップに繋がっているのではないか。ならばそれは「友好的」体質とか人格的資質に対する好感度とは別のものだ。TV、ビデオ、時計、ラジカセから服地まで日本製はそのままブランドとなる。自動車に「TOYOTA」ではなく、右書きに「ATOYOT」とペンキ塗りされていたりする。だからと言ってバクシーシ(喜捨)を求めることは稀だ。「アジア人は欧米人にひけを取らない」。そんな仲間意識からか…。「祖父」から褒められたようにくすぐったい。
 
 3)人の交流の永い間の途絶状況にあって、シルク・ロードの人々特有の、異邦人の訪れに対するストレートな歓迎の表現が私たちに向けられているのだと思う。世界の人々の行き交ったこの国の文化の十字路が内戦によって閉じられ、ソ連や「東側」の国々以外からは見捨てられていたような孤立感があったとしても不思議ではない。その交流のはじまりにシルク・ロードの終点の遥かなる地から日本の人々が立ち現れた事の、いわば意外性ある出会い方を、面白がっているのが、今のアフガン人の心情であろうと言ったら、穿ちすぎであろうか。加えて、この映画のまなざしが軍事・政治ではなく、民衆や文化に向けられているらしいことへの、「なるほど」といった同感が、その親しみを増幅させている。いわばキー・ワードは「アジア人ならばアジア人の友達のはず」という思いでは…。
 こんな逆説的な物の言い方をするのも、今のアフガニスタンに一歩入ってみて見えてくる国際関係の露呈の様が、いかにも生々しいからでもある。アジア人は必ずしもアシア人の友ではなかった。「隣りは敵」のパキスタン、中ソ対立の図式のままの中国。「敵の友も敵」、さらには「敵の敵は味方」という腸ねんてん的構図もアフガンでは透けて見える。
 その好個のエピソードが「西側大使館情報ネットワーク」ともいうべきものだ
 ところで、今回のロケのヤマ場は国境に近いジャララバードの取材であった。そこではソ連軍は一兵残らず撤退し、西側報道にいわせれば「空白地帯」化したとされる所、反政府ゲリラのばっこ跳梁する地と見なされてきた。われわれ自体も市内はともかくさらに七十キロ先のパキスタンとの国境や、かって激戦の舞台となって全壊を伝えられる遺跡、ガンダーラ美術の仏像群のあったハッダまではいけなかろうと、なかば諦めていた。だがジャララバードの当局は西側の風評を改める好機とでもいうように、すべての撮影希望をかなえた。それらの地域に行くのに、アフガン政府軍の分隊の警護はあった。だが一発の銃声も、緊張する事態にも会うことなく取材できた。前後七日間、その国境の街、大学、バザールをも撮影した。
 その旅の後、日本大使館から焼き鳥パーティに招かれた。表敬訪問の機会でもあったが日本食への渇望が先立った。恒例のカブール名物化しているらしいこのパーティの主賓は中国、パキスタン。その他、米国など西側のみの代理大使ばかりである。これら代理大使は、ただ駐在しているだけでもっぱら情報収集に当たっている。中国代理大使は「ソ連軍によって登場したカルマル時代から、今の『カブール政権』を承認していない。われわれもこの国の政府と接触を持たないし、彼等もわれわれをセレモニーなどに招かない」と明言する。「中国人新聞記者もこの十年入国取材していない、この四月モスクワ駐在外国記者団の一員として一週間訪問しただけです」。彼等も日本の代理大使同様、危険を案じてか、バザールまでも行ったことがないという。そこで情報源は専らこの種のパーティになるらしい。カブールの「西側外交筋の情報によれば…」である。それにしては「新華社電」はペシャワル発で世界に反政府勢力の“健闘”ぶりを精力的に報道して来たものだ。
 この席で中国の一等書記官と話す機会があったが、「えっ、ジャララバードでバザールが開いていましたか?」。とても信じられないと絶句する。まして国境まで貸し切りバスでいき、途中の山岳地帯も撮影したというと「ムジャヒディン(反政府ゲリラ)は居なかったか」と事細かく聞く。この人たちがこのパーティで交換している情報との隔たりに茫然たる趣だ。「新華社電」のみがニュース・ソースの場合、「裏を取らない限り危ない」というのが日本の新聞社の常識になっている、と忠告したかったが、場所柄差し控えた。
 一事が万事、国際関係から逆算したニュースに彩られてきたアフガニスタン、ここでは当たり前の話だが民衆の記録の積算しかありえないのだとの思いを新たにした。
 日本の難民援助構想もこの延長線上ではアフガンを悩ませる事になろう。のまま、国家としてのアフガニスタンを黙殺してきたボタンの掛け違いを、自ら疑わずには、である。