映画は上映することからはじまつて…… 上映会用チラシ 1月 杉並記録映画をみる会 <1990年(平2)>
 映画は上映することからはじまつて…… 上映会用チラシ 1月 杉並記録映画をみる会
 
 「杉並・記録映画を見る会」の発足のご相談を若いひとから受けたのは、昨89年春のことでした。その第一回上映作品に、私の『海盗り-下北半島・浜関根』が選ばれました。そのときから監督自身の解説、質疑応答+懇親会という形をこの映画会の特色にしましょうと約束したものです。この映画会はリラックスしながら持ちたいと思ったからです。
 普通、「新作の試写会」などは怖くてかたくなります。まして上映運動の宣伝のための試写ともなれば今でも緊張します。みんなで映画を楽しみ味わうにはどうすればいいか、いまだ手探りをつづけているところです。映画は見られて「映画」になるものだからです。
 じつは私自身、「映画は上映の場ではじめて映画になるのであって、それ以外はただのフィルムにすぎない」と気づくまでに、この仕事に入ってから10年くらいの月日がかかりました。それまでは映画が作れれば幸せだったのです。あとでのべますように、この「90年度・特別企画」の根底には「生き生きとした映画会をやりたい」という思いがあります。映画の「監督」である私も観客のひとりになって映画を見、そのうえで感想や発見を語りあう、そのような映画会をしてみたいのです。それは私にとっても新しい「映画的体験」になりましょうし、それは開放的な上映運動の場にして、はじめてできることでしょう。次なる水俣への私のつながりもこれを経なければ何も出てこないと思っています。

 はなしは飛びますが、88年、89年の二回にわたって、『水俣病-その20年』(76年度)を携えて、シベリアとアルメニアにいきました。バイカル湖、サバン湖(飲料水の水源)などの汚染に抗議する、それぞれ地元の作家たちの要請によるものでした。
 その上映の雰囲気は印象的なものでした。参加者が生まれ育った「母なる湖」のすがたと水俣の海とをかさね合わせてみていただけたからです。三ヵ月前、懇望をもだしがたく、フィルムを格安でその運動・バイカル・フォーラムに手渡しました。それが、いまどのように上映されているか興味があります。ソ連でも辺境の市民は工業化による自然・人間破壊をまともにかぶっているのでした。水俣病問題は形をかえて世界の問題になっていることを目の当たりにすると同時に、私たち映画を作るものの仕事にとってもこれは強い刺激でした。

 今回の「杉並・記録映画を見る会」の特別企画は昨年末に申し上げましたように、根底には、いろいろ変動する「水俣」を全映画のなかで辿りなおして見てみたいということがあり、それが私の動機でした。数日前、改めて『水俣・患者さんとその世界』(1971)を仲間と見ました。そのインタビューの言葉に、当時は聞き流していたこと、いまこそ聞き耳を立てなければならない言葉がいくつもありました。たとえば『親兄弟もさえも見舞いにきてはくれなかった』『おなごのきょうだいだけでしたね、見舞いにきてくれるのは…』といったような声が新鮮でありました。チッソ会社への憎しみ、その「怨」とともに、差別のまなざしにとりまかれてどんなに深い孤独であったことか、それが現在の声のように聞こえてきました。そのような流れに沿ってラストシーン、株主総会での患者とチッソとの対決の場面をみますと、印象はさらに刻みの深いものがありました。誤解を恐れずにいえば映画として、より面白くドラマティックに見えたのです。…それは20年前のフィルムだったからでしょうか。

 私はつねにドキュメンタリーとはなにかを考えてきました。とくに水俣に関する映画については、のちのちも記録として残るようにと思って作ってきたつもりです。そうなっていたのかどうか、正直怖い気もします。とはいえ、私はドキュメンタリーは若々しく、表現としての可能性にみちているものと信じています。この上映会を機会に皆さんとドキュメンタリー論も活発にかわしていただければと願っています。
 今回の水俣シリーズの上映には、私・「土本の仕事」を中心にすえ、水俣に関係のあるフィルムを年次の順にならべ、しかもそのつど、興味のある語り合いのできるように組んでいきたいと思っています。水俣はいつでも辛く重苦しいテーマに違いありません。しかし、作る身としては映画的視覚的興奮なしに撮影できませんでした、それが成功か不成功かは問われますが。
 「面白い企画にしよう」と話しあって、この年間企画を題し『ドキュメンタリー・全水俣=土本典昭の仕事』とすることにしました。杉並の地元で、そして杉並の地から…ということにふさわしい上映会になりますよう願ってやみません。