『安賃闘争』『水俣の子は生きている』『水俣一一患者さんとその世界一一』作品解説 上映会用チラシ 4月 杉並記録映画をみる会
『安賃闘争』 1962年、水俣は水俣病事件以後、あらたに、新日窒の城下町を揺るがす「争議の街」として知られるようになった。「安定賃金制」反対闘争、略して安賃闘争は三井三池炭鉱の争議につぐ大争議といわれる。水俣の市民は会社と組合とに二分され、親は会社側の分裂組合(新労)に、息子は争議中の新日窒労組にと、家族までが引き裂かれた。地元の中卒は工員にしかなれず、役付は大学出のよそものという差別の構造も暴露された。当時、チッソ会社と主婦たちをふくむ水俣住民との闘いが熾烈にあったのである。
このフィルムは労働組合の作った唯一の情宣映画。サイレント版を上映し、オルグが解説して全国を回ったといわれるが、フィルムは消失したとされてきた。最近、元新日窒組合員の鬼塚巌氏がこれを発見、8mmとビデオに再編集した。30年ぶりの公開といえる。(鬼塚巌氏は戦時中、水俣の高等小学校を卒業。以来、チッソ工場の職工として働きながら、写真・8mmサークルを主宰、水俣病や撮影禁止の工場現場、汚染されていく水俣の自然と景観を撮りつづけ、定年退職後のいまは記録に専念している。著書『おるが水俣』には職工事情、特に差別された労働者像が詳しく書きこまれている)
『水俣の子は生きている』は1965年 4月、日本テレビの「ノンフィクション劇場」で、放映された。水俣病発生以来、テレビに記録されたものとしては1959(昭和34 )年、NHKの『日本の素顔』のみといわれ、いかに水俣病問題が忘れられていたかを物語っている。このフィルムはもともとナレーション、音楽、効果音がつけられていたが、そのサウンド・トラックは音楽著作権の配慮からか、寄贈されるさい外され、フィルム(画像)のみのサイレント版になった。
1965(昭和40)年は「水俣病の発生は終息し、かねて懸案の小児痲痺に似た症状をもつ患児が、水俣病か否かを確定し終えた」時期であった。その調査、研究のための医学フィルムのほかには、当時の胎児性患児の記録としては、これしかないのではなかろうか。
『水俣-患者さんとその世界』は裁判闘争と、それを支援する「告発」の運動側の強い要請によって、幸運にも、水俣病患者の多発集落に入りえた点で、前作と対照的である。
撮影の前、患者と「告発」によって、東京を舞台に水俣病闘争が展開された。70年5月、水俣からの厚生省への陳情や、低額補償を画策する補償処理委員会への東京抗議行動などがそれである。スタッフはその運動にかかわり、水俣病事件が全国にひろく知られるようになってから、はじめてカメラを回した。いわば典型的な「運動」映画であったが、まわりは「患者さんの世界」を描くように配慮をつくし、患者さんらも裁判に及ぶにいたった苦しみとその日常を、カメラとマイクに明らかにしてくれた。株主総会といったドラマは、その撮影の半ばに提起された運動であり、予想もしなかった。
撮影現場では、カメラと録音テープは別々、編集の過程で画面に音声をあわせた。いわゆる「シンクロ撮影」方式ではないので、口元と言葉が合っていない。
製作・東プロ(のち青林舎)、スタッフはプロデューサー高木隆太郎はじめ、撮影・大津幸四郎、撮影助手・一之瀬正史、助監督・堀傑、録音・久保田幸雄らである。
この映画はのちに英語版、フランス語版が作られ、もっぱらヨーロッパで公開された。