水俣を撮るべくして撮れる時にジャストミートした一『安賃闘争』『水俣の子は生きている』『水俣ー患者さんとその世界-』を語る(講演録) 『くりっぷ』 N0.6 4月14日号 杉並記録映画をみる会 <1990年(平2)>
 水俣を撮るべくして撮れる時にジャストミートした一『安賃闘争』『水俣の子は生きている』『水俣ー患者さんとその世界-』を語る(講演録) 『くりっぷ』 N0.6 4月14日号 杉並記録映画をみる会

 土本典昭の部分のみ

 土本
 
 どうも長い時間ありがとうございました。さらに、これから一時間ぐらいおつきあいねがいます。 実はあの、今日何を話そうかずっと考えていたところなんですが、やっぱり映画の中に引き込まれてしまって、あまり言うことがないんで、質問を先にいただいているという方法をとっておいて、非常によかったと思うんです。
 それから今日は全然予期しなかったんですが、色川大吉先生に来て頂いたし、最首悟さんも来られたし、水俣について十年二十年と縁のある方々も来ておられるので、時間をうまいこと使って、おふたりにもお話をして頂きたいと思います。質問がいくつかございますので、その質問から答えていければ、話がしやすいかなと思います。質問をひとつ読み上げます。
 「水俣の子は生きている」についてと「水俣―患者さんとその世界」について質問なさった方が「途中で村人に叱られた「水俣の子はいきている」、水俣病の患者さんのおられる村で、取材について叱られたという話、それでも撮影を完成することができたのは、職業的意識だろうか、使命感だろうか」という質問と、同じ方が、「患者さんたちを紹介していくそのつなぎ方だが、任意的なのか。どこかで土本氏は、見た順ではなく撮った順を原則につなぐといっていたと記憶するが、その意図がよくわからないのだが」らないのだが。」という、うん難しい、はいわかりました。
 
 それから、「水俣―患者さんとその世界」はどんなテーマであるいはどんな方法で編集した本質的な話だと思いますけれど。
 それから「「水俣―患者さんとその世界」の前半で、水俣の女性の一人で、「裁判を楽しまなきゃね」という発言がある。
 そして水俣病患者の子をもつ親の回りにいる人は、「気の毒だけれども、本人は実は不幸なんておもっていなかもしれないよ」という発言がおもしろかった」これは意見かな。

 質問で「土本さんは水俣と向き合う時、水俣の映画をつくる時の感想は、どのようなものなのでしょうか。単に、おもしろい、おかしい、楽しいという気持ちはあるのですか。」
 それから別のご質問「水俣の子は生きている」のケースワーカーの方は、そのまま水俣病患者の闘いに、どのようにつきあいましたか、つきあいませんでしたか。その理由は?今どうなっていますか」というご質問。
 
 それから「患者さんが映画製作に心を開くようになった過程をできるだけ詳しく話して下さい。」「水俣-患者さんとその世界」はもっぱらヨーロッパで公開されたということですが、その反響と国内の運動に新たな展開をもたらしたかどうかおうかがいしたい」というもの。
 どれもみな、難しいと思いますけれども、非常に具体的な質問からお答えします。答えられますかどうか。

 土本
 
 「水俣の子は生きている」から答えますけど、「水俣の子は生きている」という作品の主人公の女の人は、今でも水俣の映画に出てきた施設リハビリテーションセンターと書いてある病院でケースーワーカーをなさっています。
 それであの子供達のですね、今日の映画のラストにありましたように、本当に遊び相手として参加されたわけで、三十年近くがたっております。だから、知らない人はいない。特に入院された患者さんで知らない人はいない。とくに胎児性の子供は、お姉さん、あるいはおばさんとして考えていると思います。
 
 しかし、この人は水俣病闘争の運動には一切タッチしておられません。かなり厳密に病院の中で、なんといいますかね、ケースワーカーとして患者さんの気持、病院の患者さんに連れ添うということにだいたい自分を限っておられましてですね、いわゆる「告発する会」や市民会議とか、あるいはもう一つ別の系統の、今、訴訟をしております運動がありますけれども。これは日本共産党の方が長くやっておられる運動ですけれども。その運動にもあまり参加しないで、もっぱら患者さんの方を向いていると。患者さんたちのプライバシーを全部知っているので、あまり方々へ出てしゃべらないという風にしておられると思うんです。これは思想の問題というよりも、やはり職業的にそうしておられると思うんです。
 ちょっとエピソードを申し上げますと、「水俣の子は生きている」を水俣で上映したことがあるんです。その時に来てもらいました。上映し終わってから「今、西北さんがここに来ておられる」と言った時に、大きな喜びの声というかどよめきがおこり非常に感動しました。つまり日ごろは運動の最先端に立って大きな声でものをいうということはなかったでしょうと思います。

 それからあの、今日、フィルムを見て、日なたぼっこをしている 胎児性の患児を撮ったと叱られたわけなんですけど、あらためて「なるほど本当に見てなかったな」と思ったんです。「水俣の子は生きている」ですけれども、村に最初にあいさつ回りに青年のケースー ワーカーと西北さんが行く・・・ その後ろにキャメラがあると。で、後ろからのフォローショットと言うんですけれども、かなりワイドのレンズでただ後を追っかけて行く撮影手法です。で、ずっと追っていきますと、日向ぼっこをしながら網繕いをしている女の人たちのすわっている中から確かに、写っておりますけれども、七、八歳の子供をあわてて家の中に抱きかかえていくのがそのワンカットに写っております。
 その直後、ぼくは、非常に怒られたわけです。「なして撮ったか(=何で撮ったんだ)」と、何で断りなしに撮ったかということで、怒られました。ものすごく怒られました。それが面と向かってではなくて。私が詫びに行ったんですね、何か雰囲気からみて非常に失礼なことをしたような感じだったものですから。庭先で私がそれを感じて、そのお宅の玄関に立ってですね、それで「すみません、非常に気分を害したようで申し訳ありませんでした」ということで、あと映画の説明をし始めようとしたところが、障子が閉まったままですね。とても、めんめんと怒られたわけです。それはどういうことかと言いますと、「あなたが、映画に撮ってもですね、この子供が少しでも良くなるか。」と。「医者にもみせてきたけど、少しもよくならない。ニュースが来たり新聞がきたりして良くなるかこの子が」と。「もうたくさんだ。」と。「もうほっといて欲しい。」と。「あなたはそういう気持ちも分からんで遠くから、あのキャメラを回してどうしてずかずか入って来たか。」と。ということですね。怒られたわけです。
 で、これは答えようがない訳です。もしその子がいることがわかっていたら僕の性分としては断るんです。しかしそのときは、本当にテレビの仕事で急いでいたということになるんですが、この人達のあとについていけば、街の人がですね、少しも話題にしないところの患者さんの集落にやっと行けるかもしれないと思って、後ろについて行くと。本格的な患者さんの取材は、その次だと思っていましたから。私も非常に不注意だったんです。

 そこでその子のお母さんから聞かされたのです。水俣の患者さんがおかれている状態とか、マスコミに対しての思い方ですね。それから医者にかかりながら病気は少しも直らないと。「撮影してよくなるものなら話は別だが、何もかもよくならん、何にもよくならん、何ひとつよくならん。」そういったのを一時間ぐらい聞いたんです。
 で、これはこたえましてね、こたえて、まあ僕はモノにも書いておりますけれども、文章にしておりますけれども、映画をやめようと思ったんです。こういう罪づくりな商売はやめようと思った。へたへたになってですね、もう言語「障害」からめまいまで起こして、吐き気はするし、まあどうしようもなくなったっていう。

 しかしそのとき西北ユミという、その女の子と一緒ですから、さきほどちょっと映画の中で申しましたように、映画班だけでひとりストレートに水俣にいく気にはなれなかった。
 「水俣病の患者を撮る」というふうにストレートにはいかなかったんですね。ですから水俣病問題は是非撮らなければいけない、こんなことがあっていいだろうかというように、企業の責任でひきおこされた問題ですね、住民が魚を食べて病気になるというようなことが許されていいものだろうかという、正義感がものすごくありました。だから撮るのは正しいと思っていたんですね。だから本当に自分に注意し、やっぱり「撮る」ということをしなきゃいけない。そういう風に思うけれども、まず第一にこわいわけですね。なんともこの話におびえるわけです、自分が。映画にしようと思ったきっかけはですね、熊本短大の女子生徒が、あと二、三ヵ月して卒業したら、水俣に入ると分かったからなんです。この人を撮ればその人と患者とのつながりで水俣病というものが描けるんじゃないかという、まあ非常に構成的なですね、構成を考えたというか、シナリオを考えたというか、まあ水俣に入れる入りロを見付けたような気がしました。そこで熊本から撮りはじめて、水俣へ行く。水俣へ行っても、市役所を撮り病院を撮りですね、病院の子供達を撮り、それをすませてから集落に入った、最初のカットだったんですよ。 
 で、あの彼女はそこであいさつまわりをして次ぎに勤めたいわけですね、勤めたいけれども、映画と映画が起こす騒動に非常に衝撃も受けましてですね、また彼女も、普通に言っている正義感で水俣に入れるだろうか、と考え初めてしまって、映画も考え込む。彼女は「もう私、全部をご破産にしようかしら」と言う。まあそういう表現ではないですけれども、ケースワーカーになるのを、やめるかどうかというところまでいっちゃうもんですから、「やめるのは良くない」と止める。それは良くないといいながら、映画を撮るがわの僕達はどうしようかみたいなことで、お互いに非常にこう転げ周りながらですね。悩んじゃった。そう中で人とのであいがあって助けられたのです。やはりそこで、渡辺栄蔵さんというそのおじいさんに会ってやっぱり心が解放されるというか、わりとごく自然にであえている状態を撮ったと思うんです。

 あの半永一光君という、パチンコの壊れた台をいじっている子供について、さっきから考えているんですけど、あの一件のたぶん前だったんじゃないかと思うんですね、あそこまでは撮れたんですね。それはどういうことかを考えてみますとよく理由はわかんないんです。ただ集落じゃなくて、半永君は街の中の斜面の民家に住んでいました。で、多くの人が非常によく訪ねていたところです。街の中ですから。
 患者多発部落というのは、街はずれのバスの終点から二キロの地点でした。そういった点であの、あまり人が訪ねていかない。訪ねて行ったのは石牟礼道子さんとか、赤崎覚さんとか、その当時宇井純さんとか、桑原史成さんくらいのもんだったんじゃないかと思います。
 そんなことであの「水俣の子は生きている」っていうのは、途中でいっぺん私が完全に脅え込んでまいっちゃった映画なんです。ですから次の「水俣―患者さんとその世界」を撮る前はですね、その体験が非常に強くありまして、とにかく固辞すると、「やれない」と。そういう責任は負えない、撮れないという風に自分で考えてました。
 高木隆太郎というプロデューサーがさかんに映画をこう撮りたいと、東陽一さんにも話をしたし、何とか撮りたいという話があったんですけど、私の最初の反応はですね、誰か撮るなら何かサポートはできるけれども、僕自身が撮る当事者にはなかなかなれないと、いう気持ちが強うございました。それであの二、三ヵ月は、やはりだめだと、やはりオレじゃない、やはりだめだと繰り返していたんです。今日そういったことも思い出しながら、お手元の「水俣―患者さんとその世界」の解説がありますけれども、この通りの行動をやって、初めて映画を撮れるようになったんです。

 七〇年の五月に、映画を撮ろうか撮るまいか、結局引き受けるのは僕なのではないか。他の人には前の体験がないし、前あれだけの体験、つらい目をした自分が撮るしかないんじゃないかと思っているうちに、運動がどんどんどんどん東京にかけのぼってきたんですよね。で、忘れもしませんけれども、五月、この七〇年の五月一五日に大変に大きい記事が朝日新聞にでました。で、それはあの、患者さんがですね、厚生省に初めてね、陳情に来るというので、水俣から取材して、汽車に同行して、そして厚生省までを追った記事でした。

 そして厚生省で、今の橋本さんですよ、自民党の。あれが厚生次官でね、そして映画の中で語られているように「黙っとれ」と言われるわけですね。まだ彼が三二才ぐらいの厚生省政務次官のときに。それで、あんな若いのに勢いがよくてね、なにか一言うたびに「黙っとれ」と言われて、そして座り込むと。本当にコンクリートの上に座っていると。これは、凄まじいインパクトを社会に与えたわけです。

 たとえば「立ちなはれ」という詩をうたった砂田明さんは、その新聞を見てすぐその場に駆け付けてるわけですよね。で、私はその新聞を見たときは、CMをつないでいました。テレビのコマーシャルです。で、どうしてもそのとき行けませんでしたけれども、その記事はしっかり読んでいました。

 そしてそれから十日後に、患者さんたちが、帰って間もなく、補償処理委員会、これ、あとでもういっぺんちょっとその関係を申しあげますけれども、補償処理委員会っていう厚生省がつくった第三者という形のあっせん機関ができましてですね、その第三者機関であるところの補償処理委員会が、患者さんの補償に関して一任を受けたという形で、患者さんの命の値段を決めるということになりまして、そのことを決める日が五月二五日だったんです。
 それで五月二五日に何かをしなくちゃいけないということで支援したい人たちが集まった。ちょうどこれ(百人)位の人数ですね。東京でバラバラだった人が、その記事によって、顔をだしはじめた。そして砂田さんの稽古場に、どうやったらくい止められるかということで、集まりました。で、結局そこから運動が始まっていったんですが。熊本の告発する会から阻止行動の提起がありました。それを受けて、とにかくそういった厚生省のやり方を阻止しようと。阻止するにどうしたらいいかとういと、行って座り込もうと。暴力するわけじゃない、こちらはそういった補償処理を止めればいいんだと。

 その補償処理委員会には一任派といわれる患者さんも来るわけなんですね。裁判をしないときめて、第三者機関に託すという考えの患者さんも来られるけれども、その人達にとっても低い命の値段で、処理されるような厚生省の動きなんだから、それを止めようということで。それであの私も厚生省の中に飛び込みました。

 それで座り込んで、警察に担ぎ出されました。まあ二泊三日だったわけなんですけれども、厚生省の補償処理委員会の動きはそれで阻止できませんでした。阻止できなかったけれども、宇井純さんをはじめ、熊本告発の面々、並びに私たち十人位がたしかパクられたことで、一挙に私と水俣との距離が妙な形で、ワンステップ踏み出せました。そうしたうちに告発する会や水俣の市民会議、中心は日吉フミコさんという、先程映画にも出ておりました元学校の教頭で、市会議員になった人ですけれども。そしてその根っこには石牟礼道子さんたちがおられます。そういった人達が「映画を撮って下さい」と。

 前と違うんですね、「水俣の子は生きている」の時はこっちで勝手に撮ったんですけども。そういう声とつながって、私は最も恵まれた形で水俣に行けたという事にとになります。ですから患者さんとのつながりは、前の「水俣の子は生きている」の時の寝た子を起こしに来た人物としての取材者ではなくてですね。なんで裁判をしているのかということを言いたいと、いっぱい言いたいことがこみ上げてきたという、そういう時期に、そういう患者(原像)と会えたということがあの映画をつくらせたと思うんです。もう不思議な巡り合わせでありました。で、私としましてはやっぱり東京で、何事かの行動をしてからでなければ水俣へは行けませんでした。
 
 私たちが水俣に入って早々に、「立ちなはれ」の巡礼団が、寄付金をもって水俣入りしました。患者さんは初めて、あの装束を見ながらですね、街々を歩いてきた人達に感動のするわけです。この感動のし方はちょっと言い表せないようなものでした。というのは、
 次の四月にもやりますけど、いわゆる勧進姿ですね、お金をもらうずた袋を下げて白い着物に南無遍照金剛って背中に書いて。あの姿は勧進っていいますね。物ごいさんですね、モノモライサンのことを水俣の人は勧進と言います。なんとか勧進とかいいます。魚採り勧進とかね。その姿で全国を歩いて来たということで、非常に魂に衝撃を受けます。そういったところから、よその人と触れあったというか、よその人間とものをしゃべれたというか、そういった流れが出まして、この映画ができたと思います。

 まだいっぱいしゃべりたいことがあるんですけど、今の具体的な話を一番大事にしたいと私は思うんですけど、やはり水俣に撮るべくして撮れるときにジャストーミートしたと、これは映画の技術とかね、手法とかいうことのまえに、何かもうちょっとあると思うんですよね(笑い)。で、やはりそれに技術も生み出されていったし、訴訟派の患者さんは全員撮りました。全員撮ったんですけども、結局遺影しか使えない家族もあります。「七時間全部上映する作品にしよう。」と言ったら、「とんでもない、七時間なんて誰が見てくれるか。」つてんで(笑い)、「途中で帰ってもいいから七時間にしよう」なんてことをいってましたが、結局二時間何分というフイルムに作った。訴訟派の人は全部撮影しました。
 
 僕は別に結論を急ぐわけじゃないんですけれども、これから何年かかけて水俣のことをずっとやっていくという場合に、いつも今の水俣はどうなっているかって思うんですね。いま僕は、何をしなくてはいけないかっていうふうに思うんです。あれこれしたいって思うんですけれども、水俣の現地に行こうとかですね、水俣行ってはやく何かつかみたいって思うんですけれども、やはり待てよと思うところがあって、まあ僕としてはね、映画を作る人間ですから、今までに作った映画で何を言えたのか、何か一番大切なことなのか見たいということがありまして、それをまあ済ませないとちょっと行かないぞというのがありましてですね。それは作品の大小、うまいへた、強い弱いいろいろありますけど、全部見るということをやってみたいと。

 それには見せる方法も雰囲気づくりももちろんあると思いますけれども、私は皆さんに是非お願いして、こういうスクリーンでですね、ビデオでなくて、隅から隅まで見たいと。二十年前、三十年前、あるいは一五年前の水俣の流れを映画の中に見たいと。で「現実のことはそれからで間にあう。」と思っているわけなんです。
 まあそんなふうに思っている中で、色川さんや最首さに来て頂いて、まあほんとうに水俣で宿屋、一泊二千五百円が三千円位の旅館でですね、水俣へ行っても水俣のことがよく分からなかったりしてですね(笑い)、皆で焼酎を飲みながらああでもない、こうでもないといって話した日々があったんですけど。不知火海総合調査団として数年間をついやして色々な本になさり、「水俣の啓示」上下巻を作られたんですが、それでまあこういう風に来ていただいた時には、やはり一緒に、水俣のかつての宿屋の時みたいにですね、話をしたいと思うんですね。

 質問
 
 胎児性の患者さんたちがかなり出てこられたんですが、その患者さんたちは自己認識というか、自分が何であるかということをすごく理解している子とか、理解していなかった子とかいたんでしょうか。

 土本    
 
 その点は僕なんか、誰々さんの場合というように個別的にいわないと説明しにくいですね。
 例えば、坂本しのぶさんなんかは、一二、三才の時からお母さんと一緒に裁判に行ったり、チッッに行ったりしてるんですよ。それから中学生の時には私と一緒にストックホルムまで行きました。ストックホルムまで行ってね、そこでの国際環境会議で訴えたわけですね。訴えたっていうか、つまりそこに存在しているだけで、やはりみんな感じますよね。そうやって見られる存在になるんだと、あの人のお母さんも出席に積極的でした。彼女はベトナムのいわゆる枯葉作戦のときああいった、あの現地被害者にも会いにいってますからね。そういった人の存在は位置はよくわかっているんですよ。

 それから最近思うとことですけども、みんなわかってるんですよ。これは後々の映画をみてもらえばわかりますけど、全部わかってるんですね。表現することが不自由なだけで、娘盛りなら娘ざかりでなりに全部思っているんですよ。だから生きていること自体は強烈な、強烈ななんというかな、生命力があったんですね。流産しないで産れてきたわけですね。

 それでさっき映画でも上村智子さんのシーンにでてきましたように、親として「この子はおかしい」と思ったのは、一歳か二歳になったときことなんですよ。起き上がれないとか立てないとか、首がすわらないとかね。産れたときは丸丸としていた。
 だから産れたときに生命力が強いからこそ産れてきたわけなんだから、全部わかっていると思うんですよね。そいういった意味ではね。この映画を撮った頃の自分はそれが全然わかってませんからね、残念ですけれど。

 それからさっきの質問にですね、株主総会に行くところ、なんか楽しみながら行ったんじゃないかとかいう主旨の質問がありましたけど、その通りなんですね。それはその通りです。つまり悩んでみたところで病気が治るわけじゃないしね。もう毒に汚染されたんですから、後どういう風に生きるかといったら、「楽しみたい、遊びたい」というのがあるんですね。
 
 僕は地元の人間じゃないからそういう風にうまく付き合えませんけど、水俣でこの間亡くなった赤崎覚さんという、僕ぐらいの年配の方がいるんです。その方は水俣の市役所にお勤めなんですね。若いとき文学サークルに所属していて、石牟礼さんと一緒にいわゆる文学を勉強したグループなんです。その人の言葉を昨日読みましたらね、その人は、患者さんとつきあった記録を支援運動の機関紙『告発』に書いた人なんです。その縮刷版を見ていますと彼の患者さんとのつきあい方がスケッチされているんですね。するとこういうふうに描写されているんですね。
 「赤崎さんつていう人は、患者さんの家へ行ってはですね、ずかずか上がり込んで、一番座りごこちのいいところにどっかり座って、焼酎もって来いってね。みんなあわてて焼酎を買いに行くわけですね。焼酎もって行くと一人で陽気になってね、もうたのしむ。で、帰り道に、『あんた、どうしてそんなことできるんですか』つて聞くと、『病気は良くも悪くもならんばい。なに言葉かけても良くなるものじゃなかばい。』「だから遊ぶしかない」といった」というんですね。だから彼は自分で遊んでやってるんですね、「酒もってこい」つていって。それでいながら、やっぱり患者の家庭を観察し、患者から何かを聞き出し書いているんですね。つまりそういった意味で、患者もまあ「市役所に勤めておんなはる人なのにおもしろい酒のみなこと」と言って、赤崎さんを受け入れて、絡んでいるうちに、やっぱり絆ができてくるっていうか、そういった意味では、患者としての暮らしの中にも、喜びとか、罵声っていうか騒しさとか、遊びとかが、にぎわしくあるんですね。
 ですから私たちも水俣に何日もいますとね、しかめっ面しい事を考えている日もあるし(笑い)、酒ばっかり飲んでいることもあるし、その中で、患者の痛みなんていうのをさっぱり忘れてですね、ほいほいと行って、こんにちはってなもんで撮影しちゃったとかね、遺影を撮りながら、「この人はきれいな人なんだろうなあ、もし生きておられたら。」とか思って撮ったり。何かを患者から習って、人間の冥利とかね、女の冥利とかね、色々なものを嗅ぎ出しながら撮るとかね。やっぱり不謹慎極まるものですよ、映画を撮るっていうのは。しかしそういったことでもないとね映画で撮れてこなかったと思うんですね。だからやっぱり映画を撮るっていうのはどっかで映画を撮る人間も、遊んだり、楽しんだりしないと撮れないもんで、よくよく考えれば大変なことだと思うんですけれど、やはり使命感では撮れないですね。だから長い時間撮影にかかっちゃうしね。そこで人間関係を作っていかないと撮れないようなことだと思うし。あの「水俣―患者さんとその世界」のときには、やっぱり患者さんが撮らせたのでしょうね。