みちのうた「気配りといたわり生んだ 連れ立って歩く夜の線路みち」 『東京新聞』 5月13日付 <1990年(平2)>
 みちのうた「気配りといたわり生んだ 連れ立って歩く夜の線路みち」 『東京新聞』 5月13日付

 戦後、昭和二十年代のことだ。歩き慣れた道のひとつに郊外電車の線路みちがあった。真夜中、足元を照らす月あかりを頼りに枕木を踏みながらの刺激的な道である。
 当時、友人との付き合いに、「今夜は終電までやるか」といった目途(めど)の置き方があった。その頃の小田急線の新宿からの終電は十二時まで、車庫のある世田谷の経堂駅止まりだった。そこから二つ先の祖師谷大蔵まで帰るのに最短距離をえらぶとすれば、線路伝いということになる。ふだんはもちろん立ち入り禁止だが、駅員もホームから降りてレール伝いに歩き出す人影をとがめなかった。タクシーなどめったにない時代であった。
 人影は三三五五と自然と連れ立った。水商売らしい婦人もいた。彼女らは「ご一緒していいですか」と声をかけてくる。線路みちの見通しのよさが警戒心を解くのだろうか、婦人は必ずそうして連れに寄り添った。店じまいがつい遅くなり、線路みちを歩くことがしばしばあるのか、彼女らはかかとの低い靴をはいていた。男たちは努めてさりげなく同伴を引き受け、さりげない会話を楽しむのだった。話題は映画が無難だった。見覚えた映画の数を指折りかぞえて枕木を辿ったりした。夜気は澄んで小声でもよく通った。
 二駅間の線路みちは三十分もかかった。時に婦人がわきの草むらに入って用を足すとき、目を夜空に向けて「きれいな月だ」とつぶやいたりしながら待った。ひとりぼっちにしておけないある怖さが線路みちにはあるのだ。レールは一直線に光るほか、街灯もなく、まして人が歩くための目印などない。森閑としたその一本道は、かって村があり、くねくねとした小道沿いにあった人家を左右に分け、たんぼや畑を突っ切って敷設されたものであろう。鉄の塊、電車の驀進のためだけにある空間である。人間のひとり歩きを許さない怖さを備えていた。それがひとびとを連れ合わせるのかもしれない。おのずと、足早やのものは歩みののろい人を待つ。鼻歌が低音の合唱になったり、ひとかたまりのひとびとの間に湧く笑い声にほほえみかえしてみせたりといった、慎ましい「社交」があり、落とし穴のような溝のありかや回送電車の接近を、いち早く知らせる気配りがあった。そこには町の歩道には見られない、いたわりあいが生まれていた。ひとり先を急ぐ道ではなかった。
 のちに機関士から聞いた話だが、相手がひとりだと飛び込み(自殺)かと思ってひゃーとするが、二、三人連れならまず安全だそうだ。歩行者と機関士が汽笛で会話をしていた時代の話である。「旅は道づれ」という言葉を聞くと、お互い寄り添わずにはいられない道、連れだって歩いた深夜のあの線路みちを思いだすのだ。