『医学としての水俣病一三部作』第二部 病理・病像篇一現実を変えられなかった病理学一 上映会用チラシ 7月28日号 杉並記録映画をみる会
この『病理・病像編』は製作当時、熊本大学の病理学教授、そして水俣病認定審査会の会長、第二次水俣病研究班の班長であった武内忠男氏を中心に描いています。できるだけ被害者の立場を考える氏は、水俣病をひろくとらえ、不知火海沿岸の数万に及ぶ住民に、水銀の影響があったと認めます。しかしその認定には補償問題が伴うことから、氏の手で一定の枠を嵌めなければならない。そのジレンマがこの映画の底流にあります。
水俣病研究17年、氏の病理研究の成果は、その豊富な標本、顕微鏡写真を使ってあますところなく解説されています。それらは犠牲者の死後解剖によってあきらかになったのでした。患者病犠牲者のいけにえのうえに築かれた病理学は現実の患者さんの救済に役だっていますか?
この映画はその問いかけによる「質疑応答」形式でつくられています。
この映画化に着手したのは、水俣病裁判の判決によって、チッソがその企業責任を裁かれたあとでした。水俣病事件は全国の反公害運動の先頭をいきました。そのなか73年5月、熊大の第二次水俣病研究班はあらたな研究結果を熊本県に提出しました。それはそれまでの水俣湾の水俣病の概念をくつがえすものでした。微量汚染魚介類の長期摂取による慢性水俣病患者の発生など、初期の急性激症とは異にした病像を指摘するとともに、天草郡有明町に、ほかの工場の廃水が原因と思われる水俣病類似の患者の発生、いわゆる第三水俣病(第二は新潟水俣病)の可能性も警告しました。
この研究班の発表にひきつづいて、現実に、全国各地にあるチッソと同様の工場付近から水俣病と疑われる患者が浮かびあがり、パニックは徳島、大牟田、佐賀、長崎へとひろがりました。しかしその1年後、有明第三水俣病はシロとされ、あいついで各地の水俣病の疑いはうち消されていきました。その逆風によって、氏らの警告は無視され、被害者の立場にたとうとした医学者に、ふたたび苦境がおとづれました。それは今日の水俣病処理にもひびくものでした。映画はその時期の水俣病の病理・病像と現実の救済策との、断絶と矛盾を描いたものです。
製作高木隆太郎、撮影大津幸四郎・一之瀬正史、録音、浅沼幸一、助監督小池征人ほか。