映画『不知火海』の背景 上映会用チラシ 9月15日 杉並記録映画をみる会
不知火海は八代海ともよばれる。九州本島中部の西海岸と、対岸天草諸島、および長島(鹿児島県)に囲まれた面積1200平方キロメートルの内奥湾である。不知火とは、はるか昔、景行天皇の熊襲征伐のさい、旧暦八月朔日(いまの九月一日)闇の船路で迷ったおり、謎の火に導かれて、無事天草にたどりついたといわれる伝説から、今もひとびとは不知火海の呼び名を好む。琵琶湖と同じくらいの広さだが、川水と潮と混じりあうその北部と、太平洋に接した潮流を引き入れている南部、そして水俣沖の中部とさまざまな魚介類が生息している。とりわけ群を抜いているのは回遊するカタクチイワシであった。
ここで営まれる漁業も多彩である。映画『不知火海』にはその一部しか描かれていないが、浜辺でのシャコ採りや、竹を並べたつぼ網漁は、この海の北の球磨川の河口の干潟に特有の漁法であり、打瀬船によるエビやカレイなどをとる底引き網漁は中部水域の平たい海底に適した漁法、そして外洋につらなる瀬戸で、産卵のため上り下りするフグ、タイを一本釣りする漁法など、この海の典型的な漁民の仕事と生活は記録に留めることができた。
水俣といえば「死んだ海」と見られがちだ。だが、トップシーンを水俣湾にカキが戻ってきたことに驚く漁民の声で始め、ラストを豊漁に沸くフグ漁で終える構成をとったのは映画の主題を、不知火海の蘇りと、死ぬことのない海のサイクルに置きたかったからだ。
この映画は1973年から75年にかけて撮影された。水俣病裁判闘争も一段落し、その後の水俣病のゆくえを探っていく時期であった。患者らは、もう支援の波もひき、水俣病への関心も遠おのくであろうとの不安をもっていた。認定され補償はされたものの、今後をどのように生きるかが患者のひとりひとりに問われていた。この映画では、そうした時期の患者たちの生活、とくに青年期に達した胎児性患者の夢と希望に焦点がおかれている。
一方、それまで隠されていた「潜在」水俣病患者の発掘が、告発の運動として進められ、申請者はあとを絶たず、その発症地域も途方のない広がりを見せてきた。
1973年、それまで隠されていた熊本県衛生試験所の不知火海住民の毛髪水銀調査リストが、告発の運動のなかで発見された。それは調査された1960~62年当時、水俣の対岸天草の離島に、毛髪のなかの水銀量が 920ppmに達した人をはじめとして、高度に汚染された漁民家族がいたことを示していた。その水銀値は同じ時期の水俣の患者より高かった。
当時毛髪水銀値が50ppmあれば発症すると考えられてきたことから、県はすぐさま、救済すべきであったにもかかわらず、天草の住民被害者はうち捨ておかれた。
このことにより、以後、「水俣の」水俣病といった考え方…つまり汚染の広がりは水俣を芯に、同心円のように発生するといった見方を変え、不知火海をひとつの漁場とし、その海の幸にたよって生活していた沿岸漁民の被害の全体像を、いわば「不知火海水俣病」として描く必要に迫られた。この映画の終章に、天草の隠れ水俣病を訪ね歩いたのは、そうした背景によるものであった。
この『不知火海』は『医学としての水俣病』とほぼ同じ時期に並行して撮影された。
製作高木隆太郎、撮影大津幸四郎、一之瀬正史、演出助手小池征人、録音浅沼幸一ほか。