水俣から世界へのメッセージ… 水俣病を背負って生まれた胎児性患者たちも成人を迎えた… 上映会用チラシ 杉並記録映画をみる会
『水俣病-その二〇年』(42分・青林舎作品・1976年)
水俣病患者は二〇年を経てもなお、不知火海沿岸から被害者がつぎつぎに出ていました。この短編は、世界的事件となった水俣病を、それまでに発表した映画や未編集のフィルムを使って、いかに凝縮できるかを試みた映画です。
水俣病は医学的には回復することのない有機水銀中毒です。この疾病のもとはそもそも工場の排水のたれ流し環境破壊にあります。水俣病事件の恐ろしさは、その原因がわかっていながら、長年にわたってチッソの公害犯罪を見過ごしてきた国・県のその態度にあります。もし被害の広がりを防ごうとしたら十数年前に手の打てた事件でした。
水俣病は人体に対する有機水銀の被害の酷さもさることながら、この事件をひた隠しにし、ごまかし、放置した企業と行政が犯した「社会病」でもあったのです。したがって、この短いフィルムの中に、患者ひとりひとりにとっての水俣病と、社会の病としての水俣病を描いています。この病いから被害者を救うには、医学のほかにもうひとつ社会的な運動による告発が必要でした。(これと同じ構成により、英語版、仏語版が作られました)
『わが街わが青春-石川さゆり水俣熱唱』(43分、東北新社・青林舎作品・1968年)
灼けるような南国・九州の水俣に『津軽海峡冬景色』の歌を流す宣伝カーが走り回ったのは昭和53年の夏でした。水俣病裁判から五年、水俣の町中ですら水俣病事件が終わったかのように人の噂も途絶えがちなころ、はじめて聞く「水俣・若い患者の会」という胎児性患者たちの主催によって「石川さゆりショー」が開かれようとしていました。
その準備活動の二ヵ月は、かれらにとって初めての社会的デビューでもありました。「どうか一人前の人間として見てほしい、やればやれる自分たちを大人として扱ってほしい」との願いで、かれらはポスター貼りから切符売りに不知火海の漁村まで足を運んで歩き回ったのでした。それはこの人たちと住民たちとの付き合いのはじまりになりました。
石川さゆりは熱唱で応え、水俣市はじまって以来のイベントとして成功したのです。
製作高木隆太郎、撮影一之瀬正史・大津幸四郎、録音久保田幸雄、解説伊藤惣一ほか。