なぜ神は人間を男と女に分ちだもうたか 記録映画『螺旋の素描』上映用パンフレット 記録映画『螺旋の素描』上映用パンフレット 4月
この映画の題名『らせんの素描』のらせんの意味はスクリュー、つまり英語の卑語で性行為、雄ネジの雌ネジに対する螺旋の動態を語義する。だから「らせん」には、SMと並ぶ暴力的で一方的な性欲の印象がある。だが小島康史監督は男性同性愛者の世界のひとびとが、男が女に直線的に恋愛していく「ストレートさ」に対し、ぐるぐる回りながら愛を探っていく、同性愛者特有のらせん状の心理を表わしたものと解釈していたという。はからずも両義性をもったこのタイトルは、映画の劇中劇の演題をそのまま援用したものだといわれるが、この映画は、後者の意味で男性同性愛者(ホモセクシュアル・ゲイ)たちをきめこまやかに描いている。
この映画製作のきっかけは、小島監督みずから同性愛者グループの集まりを傍聴し、自ら『ホモだ』と公言すること(カミングアウト)からこうむる偏見と蔑視に耐えられる自分自身をいかにつくるか、そうした模索の多様さに興味を持ったからという。だが監督をふくめ、スタッフの誰一人として同性愛の理解者はいなかった。あえてマイノリティーの復権といったテーマを立て、「低俗なのぞき趣味」や「ホモの世界の裏側」といったセンセーショナリズムや陰湿さからは無縁であろうとした。
大阪を舞台に数人の男性同性愛者のグループから取材を始めたが、町場に働きながら、街に溶け込み、普通の市民生活を営む彼等を追うかぎり、映画にうねりが出てこない。カミングアウトしたは同性愛者はいわゆるゲイボーイとは違い女装しないし、女らしい仕草をとらない。男性同性愛者にはいわゆる「ホモ」の、ゲイボーイにはゲイボーイの美学がある。映画の側からの波風もそれを翻すことは出来なかった。
映画にでること。それ自体カミングアウトすることにほかならない。
男性同性愛者の多くが社会の一般通念をおもんばかって普通の結婚生活に入り、ひそかに同性愛を続けるといった二重生活は実在しているし、それをターゲットとした「ホモ」の情報誌や盛り場にも事欠かない。そこでは秘密厳守が約束されている。だが、この映画の登場人物たちが目ざしたのは、自分のセクシュアリティを偽らず、自然体のまま生きられる多様化社会になってほしいという指摘と希望なのだ。当初、作家側の振り上げた「少数者である同性愛者の『市民権』獲得運動」なる意図と、彼等の本音とのすれちがいは喜劇的ですらあったようだ。「おれの好きになったのが男であってなにが不都合なのや」「自分が男を好きと気付いてからも、そのことを異常とはおもわんようにしてきた。人に迷惑でもかけたか」。虚をつく言葉だ。「…あえて理解はもとめない、しかしその存在をありのまま認めよ」ということに尽きた。それを転機に作り手たちは、彼等とその生活につき合う気長な製作に入った。ドキュメンタリーのしんどい領域にわけ入ったのだ。
男性同性愛者に類型化は不可能だ。ある詩人は「ゲイと自覚してから偽装結婚は女性を騙すことだと思った。男とのセックスもしなかった。ゲイとして死にたい」といいながら、還暦を過ぎた人とは思えない恋情こまやかな作品を発表している。ある夜間高校の中年教師は生徒にも自分が同性愛者であることを隠さない。だが道化はない。生徒は「芯のある先生」と、その人格に偏見は持たない。同僚の教師は「『ゲイ』が普通やと教えられると困る」という。しかし彼は「自分がゲイであることを卑下することもないし、誇ることでもない」と、達観の境地にいる。
光彩を放つのは十代後半から六年間、夫婦同様の同棲生活をつづけている青年矢野(パパ役)と隆司(ママ役)のふたりである。極めてスター性をもつバイタリティーあふれるる矢野と、美貌の隆司のカップル。このふたりの行動が映画の縦軸となっている。情報誌の通信欄で知り合いその日のうちにセックスした。以来、共同生活が続いている。その生活描写が詳細をきわめる。食卓をはさんで同じ皿からお菜をつまみあうといった類いの描写がセクシーな時間と連続している。隆司は男に寄り添う女役、矢野はいわゆる主人である。男社会の縮図のような生活だが惰性がない。矢野がギラギラした牽引力を持続しているからだ。
その矢野の企画・脚本で劇『らせんの素描』が上演されることになる。主人公は隆司と決め、強引に説得する。テーマはセクシャリティーをめぐる風刺劇である。…男心を虜にする美しい肖像画がある。そのモデルが女であると思い込んでいたのに、男(隆司)であった。だが同性であろうともその恋情は消えない…という骨子だ。グループ全員に持ち場を与えるが、矢野の焦点は同棲者の隆司の魅力の解放にあっただろう。公演直後の放心と昂揚感のない混ざった隆司の発するエロティズムは秀逸だ。おのずと同性愛の存在を受け入れる気持ちになる。
この二人のあいだにも過去に浮気あり、別居そして自殺未遂と葛藤があった。これからもあるだろう。ラストシーンにその答えはない。矢野はピアノで弾き語る「共にいたいだけ…」と。台所で隆司は黙ってじゃが芋の皮を剥いている。いかにも映画的結末である。二人の絆はこの映画の介在があって、さらに強まったであろう。それだけの説得力を持つ楽天的な彼等と映画の「共演シーン」であった。見終えて、なぜ神は人間を男女いずれかの性に分かちたもうたのかと思う。その自問自答はやはり「らせん」の運動と言えよう。映画は終わっても、ふたりの「らせん」は終われない。この映画を、青春のグラフティーとも純愛映画とも思わせるのは、その永久運動に触れているからではないだろうか。