私の映像個展のあった1987年は、ドキュメンタリーにとって戦中戦後のそれの終りと、新しいものの登場の、まさに節目の時節だった。私の作品群はそのあいだを埋めている。この年、代表作『戦ふ兵隊』の作家亀井文夫は『トリ・ムシ・サカナの子守歌』を最後に76歳の生涯を閉じ、新鋭の原一男は『ゆきゆきて神軍』を発表した。そして私は1960年代の処女作『ある機関助士』からいわゆる『水俣』シリーズまでを一挙に上映した。講師たちも戦中戦後から当時にいたるいわば現役のドキュメンタリストと同時代批評家たちである。指折れば、40年間の記録映画史にかかわった人たちであった。
亀井文夫をかりに第一期、原一男を第三期と呼ぶなら、私は第二期といえようか。この年はその前と後のドキュメンタリーの眺望を両氏の作品で見ることのできた時代であった。「私ごときものの個展とは、神をおそれぬ所業」と内心じくじたるものがあっても、このタイミングは曖昧さを許さなかった。私のフィルモグラフィーのなかにドキュメンタリーについての討論素材があったからだ。スタジオ 200がこの企画をとりあげた意味は、やはり少なくなかった。映画とトークをセットしたこのゼミナールはここでしか出来なかったであろう。
映画の作り手として、この企画は修錬道場に似ていた。怖かったが、同時にエロスも交錯する奇妙な映画体験だった。観客席の片隅で自作を見る。ときに30年ぶりに見るフィルムもある。しかしスクリーンに写る映画は、いつも現在形なのだ。たった今作ったように語られる。私は冷汗をかきながら、同時代の演出家、映画音楽、音響、撮影のそれぞれの現場的作品論や作家論を聞く。それには腑わけに近い痛みがあった。ときに羞恥に身をよじり、ときにはほめ言葉にのけぞった。その惑乱を整理しつつ、かれらの強い映画愛を感受することができた。それは作家にとって血肉になるものであった。感謝のほかない。
この企画のありようは徹底したしたものだった。映画産業の一労働者として、ひとつの歯車のように手掛けたテレビ初期時代の文化映画から、飯の種に作ったコマーシャルにいたるまで、残らず集めて発表された。幸か不幸か、ほとんどのフィルムはあったのだ。それというのも、岩波映画、東洋シネマ、藤プロ、日映新社、小川プロなどから青林舎にいたる各製作社が、フィルムの保存に見識のあるところばかりだったからだ。全作品の一挙上映に対応する全保存は、残念ながらきわめてまれである。東京都の夢の島近くにはフィルムからその溶剤の銀を抜く再資源利用の工場があると聞いた。ある人はごみ捨て場のぐずフィルムをモンタージュして実験映画を作った。先輩からフィルムの一生はそんなものだという諦めを聞かされ、新人時代に背筋が凍ったものだ。「映画の寿命は二年もあればいい」というのが常識だった。
ひるがえって思う。私もひとりの作家の全仕事を見たい。この好奇心は文学、詩、美術、音楽などには許される。ドキュメンタリーはその時代の視覚的コミニケーションでもある。作家性とともにそれも存分に賞味したいのだ。スタジオ 200は、そうした企ての器でありつづけてほしいと思わずにはいられない。