小さな旅を終えて一一水俣のいま 「社会評論」 84号 11月1日号 小川町企画
この七月、四年ぶりに水俣へいってきました。そこにはさまざまな変化がありました。みなさんもあるいはご存じかもしれませんが、この間にいわゆる甘夏事件(八九年)という、水俣運動の歴史にとってかつてない不祥事がありました。そのあたりから変化の本質をお話ししたいと思います。
水俣あたりは昭和三〇年代から海岸線沿いに甘夏栽培が奨励され、リアス地帯の丘陵地にオレンジゾーンを作りました。水俣病がおきると、海の仕事がかなわなくなった漁民・患者が自分の生活の根拠を、半ば以上山に移しました。水俣病患者をもつ栽培家庭はそれまでの農協の指導どおりに農薬を散布し、「マル田」(芦北郡田浦産)のブランドで市場に出していましたが、散布する自分たち自身がその毒性になやまされ、水俣病に悩む身に重なる苦痛を味わっていました。「水俣病の有機水銀を毒と分かっていてそれを放置していたチッソと、その被害者の自分が有毒物と知りながら薬をかけていることは、矛盾しやせんかな」との素朴な疑問から発して、低農薬による甘夏づくりに転換し、農協出荷以外のみち、つまり産地直送をはじめました。いわゆる「水俣の甘夏」運動です。この産直運動には水俣病センター相思社の若い人たちがその実務を担当しました。そのイメージは全国的共感を生みました。またこれへの支援はその他の水俣病闘争、たとえばもろもろの裁判闘争や未認定患者の掘りおこし運動をひきうける相思社の経済的基盤ともなりました。若い人たちは最低生活費七万円でやっていました。水俣だからこそたべられる額です。
一昨年春、問題は明るみにでました。農薬をかけたいわゆる基準外の甘夏を非会員から仕入れて販売していたことが内部告発の形で明らかにされたのです。総扱高八〇〇トンのうち三六トンでした。生産者団体「水俣病患者家庭果樹同志会」の会員数は一定です。需要はふえる傾向にありましたが、甘夏には表作と裏作とで一年おきに変動があり、その調整に非会員の甘夏を入れていたのです。そのさい低農薬の基準は守られるべきでしたが、それが軽視され、やぶられました。内部告発がありました。「単なるブローカーのように品数揃えをした。そうしたものを『水俣の甘夏』というレッテルでながし、全国の消費者をあざむいた。その質はチッソと同じではないか」というのがその中身でした。若い人たちの自己批判はありましたが、相思社のよどんだ体質の批判から、旧い患者との断絶まで諸問題がそれを機に一挙にふきだし、結果としては果樹同志会の分裂、相思社の理事の退陣、事務局の販売担当の退任から、ひいては旧患者グループと未認定患者の反目や、支援グループの亀裂が表面化しました。
甘夏事件はひとつの契機でした。同じ部落の半農半漁のひとびとのうち、かたや低農薬、かたや農協指導の農薬使用というだけで、後者をチッソの犯罪になぞらえるのは酷ですし、消費者の災難とまでいうのは言い過ぎでしょう。消費者はその事情があきらかにされ、自己批判されれば納得します。マーマレード作りにしてもよく皮を洗うとか、こんごのことを考える機会にするとかできますから。
この亀裂、分裂は水俣病患者運動をとりかこむ二〇数年の客観的情勢のむごたらしさの反映と私には捉らえられます。だが、その現れ方としては、認定された患者といまだ認定されていない患者、つまりいま低額和解に追い込まれている多くの被害者との断絶というか、途絶というか、一緒に行動できないようになってしまいました。
市民は政治的な思惑によってたれながされたニセ患者よばわりに毒されていますが、じかに患者に会おうとはしません。魚を多食した漁村のひとびとは認定患者の自分と未認定患者との間に「線は引けない」と思っているものの、「金欲しさからじゃろ。自分らは怨みを晴らすためじゃった。いまの申請者のなかには、自分らに石をぶつけて差別したものも居るばい」とこだわりを残すひとも少なくありません。
水俣病の運動の先端、未認定患者救済運動の指導的立場にいた川本輝夫さんは三期目の市議選で落選しました。一部の患者の票を失ったからだといわれています。水俣でただひとりの患者の市議だっただけに、またかれを落選させることが地元の既成左翼政党の狙いであっただけに残念です。
「この結果は国、県、チッソを喜ばせたと思います」という私の意見に、川本さんから「喜んだのは患者内部の反対者たちたい」という返事がかえってきました。「わしが落ちたと聞いて、だれそれは赤飯炊いて乾杯したそうな」といった寂しい声も聞きます。
今回感じたのは差別の構造の変質です。かつて市民と患者の間にあった差別が、患者と患者、被害者と被害者のあいだの区別というか差別というか、そうしたものになっているのです。ともに並んで、弾を向こうに投げるべきものが、です。味方同志での相討ちです。たしかに諸状況の困難さはあります。かつて連戦連勝した裁判も上級審にのぼりつめるにしたがい、また水俣病始末の政治風潮がつよまるにつれ、和解が唯一の解決策、勝訴であるかのように取り沙汰されるようになってきました。
私の意見をいえば、もともと裁判は企業、行政の犯罪性に対する制裁をうちに秘め、非和解的に争うのが水俣病事件の原則だったはずです。勝つか負けるかとことんまで争って、恨みを晴らそうという精神性がその芯にありました。だが、いま裁判所は和解の斡旋の場となりました。
ある専門家は「裁判所は二千人にもおよぶ患者原告を抱えて立ち往生している。もともと解決策としては、和解しかなかった」と指摘します。民事裁判において被害をあきらかにし、その補償を確定するのに、現行の裁判制度ではもともと不可能な話だ。交通事故のように限定された人数の被害ならば審査も補償額も算出しうるが、これだけの原告数の個々それぞれに異なる被害の査定には、十倍、百倍の裁判官が必要だというのです。
私のように、第一次水俣病訴訟(一九七三年判決)の原則にこだわるのはもう現実から遊離したものかもしれません。結局いま既成左翼の指導する「いのちと健康とくらしをまもる」統一戦線からいえば非現実な考え方になるでしょう。しかし現在の第三次水俣病訴訟の弁護団は第一次のそれとほぼ同一の陣容です。和解といった基本路線の変更には、しかるべき論理があってしかるべきです。素人の意見ですが、和解には被告、原告にともに共通する「痛み分け」があった上のことではないでしょうか。それは水俣病事件にはありません。原告に痛みも凹みもありません。じつにクリーアな因果関係しかない。被害者は無辜なるひとりひとりの民なのです。
結局、原告弁護団はそのもつ法廷技術論的なところで、「和解のある日」を念頭において裁判をつづけてきたように思えます。いろいろ正当な既得の基準の要求は出すけれども、低額の和解を強いられることを念頭に裁判を積みあげてきた。法廷では国、県、チッソをむこうに原則を述べ、ぶつかりののしりあったとしても、和解のABCをお互いにさぐりあってきた。原告の被害程度を裁判所よりははるかにくわしい弁護士の立場をもって、和解の落ち着くべきところを阿吽(あうん)の呼吸で相手に分からせ、善処させる役割をになってきたのではないでしょうか。繰り返していいますが、被害者になんの引け目も凹みもありません。病状にいまのところ濃淡の個人差があるだけです。年齢を経れば治療の方法のない病状を呈する可能性はだれにもあるのです。かれらが無辜なる民に変わりはありません。
国は和解案にたいしてそのテーブルに付くことさえ拒否していますが、それは感情的なものではなく、冷静な計算の上にたっています。県とチッソがテーブルに付くことになったのは、負担可能な低額和解の匂いを嗅ぎとったからにほかなりません。その対象となる被害者総数、推定約五〇〇〇人に一人三〇〇万円という「見せ金」を掛けた総額一五〇億円ぐらいは、最終的に国家財源を借りてなんとかなるとふんでいるのです。湾岸戦争の際にさしだした九〇億ドルの約八〇分の一です。(ちなみに当初の原告の請求額は一律一九八〇万でした)。
国は今後の公害事件における被害民の抵抗権、糾弾権を抜き取ろうとしています。さらに、この種の事件における国家賠償の判例だけは絶対に忌避したいのでしょう。国家権力の意思は冷徹透明なりと思います。左の人民の権利は盾をもって断乎として防ぎ、右の企業犯罪にはいわば再犯をおもんばかって、国家の尻ぬぐいについての抜け道をつくる。それがあいも変らない国家の姿勢でしょう。
今回の旅で驚いたのはチッソの復活ぶりです。ある自信すらもっています。水俣病にとりくんでから今日までチッソの工場のなかに入ることはできませんでしたが、今回は私の名刺だけでチッソの門をくぐりました。総務担当の案内で一巡しました。外観では廃墟に見える大工場の建屋も近くとりこわし新鋭工場の用地になるらしい様子です。大煙突や工場正門のシンボル的蒸留塔も、そして水俣病の記念碑的構造物アセトアルデヒドの櫓もきれいに撤去され、実験室、研究室風の施設に改造されていました。製品はきわめて付加価値の高いものにしぼられ、かつての重化学工業特有の重厚長大な釜、パイプ、クレーン、粉煤煙、貨車と騒音といった趣は一変していました。まさに軽薄短小の先端を走っているようです。案内者は「以前はその溝から有機水銀は流されていたようです」とさりげなくいいます。液晶では世界の六割のシェアをもっているといわれます。一〇〇CCの小瓶で五〇万円だそうです。液晶の特許は二〇〇件、うち実用化は一〇〇件とのこと。「技術革新のチッソ」「チッソのパイオニア精神」は着々とよみがえっていると感じました。チッソのその儲けは補償金の支払い分までには達していません。県債という税金による肩代わりをしてもらっています。後見人つき禁治産者なみですが、いまのところそのイメージに甘んじていたほうがチッソにとっては好都合でしょう。しかし問題解決のあとには一挙にその蓄積された技術力をもって陽のあたる場所にうって出るにちがいありません。
一方川本さんを指導者とあおぐ未認定患者は、チッソ前の座り込み闘争を解除してからのこの二年半、有効なてだてを失っています。市議落選は組織のイメージダウンにつながり、そのうえ甘夏事件での分裂の傷口はさらに癒えていません。未認定患者を敵視する構造は同じ被害者のなかにも、その原像たる旧訴訟派患者にもあることはさきにのべたとおりです。それは新しく生じたものではなく、生活の水脈のようなかくされた意識かもしれません。今回つきあいの一番ふるい原像的な患者から一番あたらしい水俣への移住支援者まで歩きまわりましたが、ひとことで言えば、それぞれの水俣との関わりの個人の歴史のなかで、あの人、この人との断絶があり、空白がありました。あるときから付き合っていない、話し合っていない、つまり生活のうえの接触がとぎれているのです。情報はばらばらで間接的でそれぞれに主観的で…、つまり運動がなくなっているのです。
四年間の空白を埋めようとあちらこちら歩きまわったことで、かれらの生活のまっとうさを見聞きしましたし、その生活感の本来の自然さは伝わってきました。おそらくその生活の源流には海山があるからでしょう。不知火海のすばらしさはやはり替わりのないものでした。問題提起だけにおわりました。
私はつねづね「よそものゆえに映画が撮れる」と思っていますが、これからの水俣をいかに記録するか、まだ時間がかかりそうです。しかしその興味はつきません。
(八月五日のシンポジュームでの発言に加筆しました-土本)