遅れてきた離島の被害者たち ユージン・スミス写真集『水俣』 新装版付録小冊子 12月 三一書房
水俣病の発生にさきだって飼い猫の狂い死んだ例は、その発生期の疫学研究でもひとつの指標として指摘されてきた。一九五〇年代の後半、その事例は水俣湾周辺に限らず不知火海の対岸や離島からも集められている。しかしそれがただちにヒトの水銀汚染と一本の線でむすばれることはなかった。水俣から見れば、大河の向こう岸ともいえる島々に水俣病はどんな形で沈潜しているか。それを確かめたい気持もあって、水俣から半径30キロの対岸天草や不知火海の離島の漁家集落をたどることにした。ユージンとアイリーンの仕事から数年後、私たち水俣映画の製作スタッフが、フィルムをもって五ヵ月間「巡海」上映して回り、猫の死とヒトの病苦を聞くことができたのは一九七七年、有力な資料が発見され、水俣病のひろがりが天草にまで至っていることを強く疑われた頃である。
いわば水俣病にとっては辺境ともいえるこの一帯に、六〇年頃、熊本県衛生研究所の目がむけられたことがあった。その前年一九五九年、いわゆる見舞金契約がチッソによって押しつけられ、県はその仲介で事終われりとして被害者の発掘から手を引いた。「水俣病はようやく終息した」と言われていたこの時期に、その県の一機関が、不知火海の沿岸住民の毛髪を集め、その水銀値を掴む調査をはじめたことは興味あることだ。国の研究主管が厚生省から経済企画庁に移管されるといった構図のなかではなおさらである。だが少ない予算のなかで着手された衛生研究所の毛髪水銀調査は、スタートしたばかりで勢いを失ってはいなかった。
毛髪の水銀分析は人体にとりこまれた水銀の測定には有意な方法と言われるが、水俣病の原因物質が有機水銀とほぼ確定される一九五八、九年以後の研究を待って調査を立案したためか、そのスタート自体遅かった。だが猫の発症の線はほぼ辿られており、その実施にあたっては分析のテストが慎重に繰り返されたといわれる。その担当技官は松島義一氏であった。氏によって、調査に協力した住民(全住民ではない)の毛髪が集められ、分析された。この調査報告書が後年水俣病事件史を書き換えるほどの力を持った。
今日では毛髪水銀量が五〇PPM以上あれば水俣病の発症の蓋然性があるとされている。のべ三千余人のその毛髪水銀調査データにはそれを超える数値が並んでいた。とりわけ離島、御所浦町の牧島椛ノ木に九二〇PPMという、世界のこの種の記録にかつてない高濃度の水銀汚染者の存在が記されている。一方、水俣病の最汚染地と思われる水俣湾の月浦の住民の最高が四二PPMと低い。多発した時期から四、五年たっており、その間の恐怖の体験から、徹底した魚の摂取の自粛があったことの現われであろう。それに毛髪は月一センチ伸びるといわれ、すっかり抜け変わっている。おそらく多発した頃、水俣の急性患者の毛髪に着目していたら、一〇〇〇とか一五〇〇PPMの高い毛髪水銀値が検出されただろうといわれている。その数年、この島では食いびかえはなく、水俣病と無縁の食生活がつづいていたことをものがたっている。そのズレが離島のありようではなかったか。
このデータは一九七一年、調査から約十年のちに、水俣病を告発する会々員によってあかるみにだされた。この公表を押さえていた県当局は困惑したが、その原資料がすでに退官した松島技官の所蔵によるものだったからどうしようもなかった。この調査の全貌から私たちの目は一挙に離島、天草へと注がれたのだった。水俣病はたんに水俣湾を中心にした同心円的な汚染ではなく、食生活の実態、漁民の漁撈圏の拡がり、潮流など海の生態などを考え直す必要に迫られた。離島はおもに慢性型水俣病の舞台に思われた。また水俣から遠く離れた地で急性激症型水俣病の経過をたどって死んだ漁民も少なくない。天草の漁民でありながら、かつては水俣湾で網子として働き、漁獲自粛の声を無視して網を引き、湾内の魚を食べていたなどその一例であろう。水俣沖の汐はその六割が離島をぬけて外洋に流れるという調査もある。くわえて水俣湾はカタクチイワシの最大の漁場であり、それに群れる魚類の宝庫であった。漁民にとっては不知火海の中央部の最良の漁場が水俣湾内外だったのである。つまり、この毛髪水銀調査の示唆するものから見て、汚染の局部としての「水俣」の水俣病の呼称にかえて、内海、不知火海全域にたちあらわれた水俣病、いわば「不知火海」水俣病というべきだと思われた。
この毛髪水銀調査の後始末に触れないわけにはいかない。当時、県当局もその調査結果におどろいたようだ。だが松島技官自身、検査のさい有機水銀農薬を散布した直後の毛髪ではないかと一旦は疑い、慎重を期して三回採取し、その平均をとって記入した経過があり、その数値に疑いをさしはさむ余地はなかった。
水俣の多発地帯から二〇キロ離れた離島の片隅にこのようなケースがあるとは、県当局も信じられなかったのであろう、その病状を確かめるため、ひそかに衛生部長らを現地に派遣した。だがかれらは観察したのみでなんの救済もしなかった。その毛髪水銀値保持者である松崎ナスさんは在宅療養のままやせ衰えて息絶えた。その夫の証言によれば「顔ば上げきらんで、よだれをながし、這うように生きとった」という。死亡の連絡を受け、船でかけつけた天草の倉岳町の医師はその死亡診断書に「老衰」と書くほか方法がなかったと述懐した。「死者は認定せず」という水俣病認定審査会の決まりにより、この松崎ナスさんでさえ水俣病として救済されなかった。この例は行政の離島、対岸天草の水俣病患者への対応を典型的に示すものだろう。
さきにのべた巡海映画活動のなかでいくたびも訴えを聞いた。映画会に足を運んで、水俣病のなんたるかを知り、あとの質疑応答といった機会に、待っていたようにあれこれたずね、申請の方法を聞く人が少なくなかった。この映画会の性格がどちらかといえば、潜在患者の発掘といった使命感をにじませていたからであろう。しかしこの調査を兼ねた上映の旅は、水俣病の多発期から約四半世紀のちである。手をつけるにはあまりにも遅かった。その辺境ゆえの遅れはいかにしても取り戻しがたかったし、多くの人の印象は「いまさら申請しても遅かろう」という諦めの方がつよかった。
水俣周辺の水俣病事件と離島、天草のそれとの違いは極端な時差である。水俣では自分の問題として二〇年の年輪をもっていたが、離島、天草のそれはゼロに近い。すべてがはじめてのことばかりだった。かれらの水俣病体験といえば、豊かな漁場である水俣湾での漁獲禁止や魚の出荷停止の苦しみ、漁協ごとの部隊編成で、チッソへのデモし「暴動」をしたことだ。どちらかといえば忘れたい記憶だ。その後の水俣病裁判もいわば対岸の火事として眺めていた。そもそも認定患者がひとりも島にいなかったからだ。このながい空白はかれらの責任だったろうか。
だが、この離島の人々も水俣の漁村で起こったことをほぼ同じように体験している。人々はその間に、猫の狂いまわるすがたを見、狂い死んだひとを見てきた。だがそれを「わが水俣病」と結びつけては考える島の雰囲気ではなかった。天草、離島に水俣病の知識も、ましてその救済のためのてだても知らず、さらに訴える手段は伝えられなかった。
いわば情報の途絶ともいえる生活であった。たとえば数十軒の漁家集落の場合、新聞は一軒の店とか区長の家しかとっていなかった。人々はそこで新聞種のはなしを聞けば用が足りた。島に電気がついたのは、昭和三十年代近く、それも自家発電機だった。夕方から数時間だけ。ようやく昭和四十年代に入って電力会社の送配電が完備し、待望のテレビを購入した島もある。だから水俣病を「見た」のは遅かった。水俣病裁判のテレビ報道によってだ。ネコとヒトの狂死の映像を、人々はその記憶と符合させた。それでも諦めてきた。
熊本大学水俣病研究班やボランティアの医師たちの検診があってその気になったのは、この十年前後からといえる。そのときはすでに申請しても即、棄却の時代になっていた。このごろよく「水俣病三十五年」ときくがここでは「十年」とか「十五年」の実感だ。
「いまどき、金に目のくらんだニセ患者が、島くんだりから」と顰蹙の声もある。だがそれは企業城下町としていちはやく近代的生活を享受できた水俣をふくめ、都市の視点なのだ。いま島も都市と変わらない生活になった。しかし人為的な時差は尾を引いている。
遅れて近代に入った離島、天草の被害者の「遅れたもの」の苦悩は、表にでにくいだけに深いだろう。いまは行政が水俣病事件に幕を引こうとしている時代である。島ごとすっぽりと遅れてきた辺境の被害者たちは前途の困難を見据えてはいる。しかし周辺にボロボロ出てくる慢性的な「健康異常」に不安を持たないわけにはいかない。水俣病申請者の運動を担っている患者の多くが、水俣をはるかはなれた離島や辺境の人々と聞くにつけ、その遅れてきた患者のどうしようもない焦りの気持が伝わってくるのだ。