『ある機関助士』『留学生チュアスイリン』 上映会用チラシ 3月 杉並記録映画をみる会
ある機関助士(1963年 企画・日本国有鉄道)
1960年代はテレビの誕生の時代。政府や公共団体、民間の大企業がPR映画を広報活動のメデイアとして重用した。いわゆる「PR映画全盛時代」であった。国鉄も毎年PR映画を製作していたが、1962年5月、空前の大事故が常磐線三河島駅で発生したことから、とくに「安全」をテーマにした企画を募集した。そのシナリオコンクールに当選、製作されたのがこの作品である。花形路線東海道線は安全装置の近代化が進められ、東海道新幹線の開通も急がれていたかげで、北への路線(東北本線、常磐線など)はいちじるしく立ち遅れており、その安全運行はいつに機関士、機関助士の注意力にかかっていた。事故を引き起こした常磐線を舞台にしたシナリオであったが、運転労働がこまかに書き込まれていたことで当選したといわれる。
水戸―上野の間を走るだけのSLと乗務員の描写に終始している映画だが、ドラマらしいものといえば、「3分遅れ」の出発から「定時」に上野のホームに到着するためについやされた労働のすさまじさそのものといってよいだろう。本物の世界を舞台に描かれた一種の「劇映画」として作られ、ドキュメンタリー映画に一石を投じた。
(撮影・根岸栄、録音・安田哲男・音楽・三木稔、解説・太田正孝)
留学生 チュア スイリン (1965年、自主作品、企画「チュア君を守る会」)
この主題ははじめTVドキュメンタリー番組として企画されたが、当時裁判にうったえられており。「微妙な政治問題」に絡むおそれから、テレビ局は制作中止にした。やむおえず映画の友人たちでスタッフを組み、それぞれの仕事の合間を縫って撮影された。
主人公チュア スイリン君はまだ英領マラヤ時代のシンガポールから、造船学を学びに留学、その第一ステップとして千葉大学学生部に学んでいた。祖国の「独立」の仕方に反発、在日マラヤ学生の反英闘争、デモを指揮したことが新生シンガポール政府を刺激し、帰国命令が出されるにいたった。文部省は事務的に国費留学生の資格を奪い、大学当局も彼を除籍した。大学の一般日本人学生の知らない「留学生社会」出来事だったため、彼の復学闘争は困難を極めた。彼をささえたのは田中宏(現愛知大学教授)ひとりだった。その孤独な闘いはやがて各国留学生の仲間の共感をよび、千葉大生を巻き込んだ闘争に発展していく。そして条件復学を認められたが、問題の根は深く残った。
(製作・工藤充、撮影・瀬川順一、瀬川浩ほか、音楽。三木稔、解説・大宮悌二)