未完のライフワーク-鎌田慧の「六ケ所村の記録」 『新日本文学』 5月24日号 新日本文学会 <1992年(平4)>
 未完のライフワーク-鎌田慧の「六ケ所村の記録」 『新日本文学』 5月24日号 新日本文学会 

 一読、また再読。いくにちか経つが、胸騒ぎはいっこうにしずまらない。二十年余にわたる鎌田慧氏の六ケ所村一点に絞った時間の厚みと容量が、私のとぎれとぎれの六ケ所村体験を洗い、さらに自分の「水俣」の流れと照応するところ少なくないからだろう。そして、私のそれも未完であるに違いない。
 ある問題を同時進行的に追いつつ、現在までの小史、氏のいう「中間報告」のしめくくりは「さしあたってここまで」といった擱筆であろう。だが、この『六ケ所村の記録』には、いまにして問える強い設問が残されて終わる。
 たとえば「この本であきらかにしたかった問題のひとつは」と、氏はそのあとがきを記している。「核燃料サイクル建設の野望は八四年にはじまったのではなく、六九年当時の開発計画にすでにあった、という事実である。しかしどうしたことか、『核燃』はその後まもなく、あたかも出番をまちがえたようにあわてて姿を消した。そして秘かに闇の底に沈潜して腐食の時を待ち、一五年を閲してようやくくっきりとした相貌をもってたちあらわれたのである」。
 氏がはじめて六ケ所村をおとづれたのは七〇年三月、これより前にすでに<下北半島の原子力センター化>構想は浮上していた。その財界、国、青森県の一体化した意図は氏によってあますところなく洗い出されている。
 そして、「もしもたとえば、最初から核廃棄物の立居振舞であったなら、工業開発でさえかつてあれだけ盛り上がった村の反対運動は、それ以上のものとして燃えあがり、六ケ所村の現在がもうすこしちがうものになっていたことは疑えない」と氏はいいきる。さらにつづけて「『「むつ小川原開発」は財界主流の経団連ばかりか、ほかならぬ政府機関が介在した『国家的事業』だったから、開発から核廃棄への突然の『計画変更』は『国家的欺罔』ともよべる」とのべている。そのあざむかれたひとびとの記録は克明をきわめる。 下北半島の原子力半島化は一九六〇年代後半には列島改造論の各論として政府、財界、そして青森県の開発の基調音になっていたことは、この本にあらゆる角度から、ほぼあきらかにされている。
 七〇年、大阪万博の年は商業用原発稼働開始のいわゆる「原発元年」、それ合わせるかのように青森県竹内知事は、その年頭「下北原発(東通村から六ケ所村におよぶ)」の建設を発表した。だが翌七一年には、その口跡がふっつり切れ、もっぱら製鉄などをふくむ石油精製、石油化学工業などの臨海性装置工業を主体とする巨大コンビナート計画が全面に押し出されてきた。「原子力」製鉄所の文字が浮き上がって見えるほど、石油依存型コンビナートが前景に打ち出されてきた。鎌田 慧氏の疑いはそこからはじまっている。
 ひろく知られるように、「むつ小川原開発住民対策大綱(第1次案)」は開発区域一七五〇〇ヘクタール、移転対象三四集落、二〇二六世帯、九六一四人という想像を絶するものであった。以後、規模の縮小はあっても「むつ小川原開発」にむけての土地の収奪、住民の追い出しは着実に隧行された。「三〇万人都市構想、一〇万人を超える雇用の創出、貧乏と出稼ぎからの脱出、そして、国家的開発」をうたった、洪水のような宣伝が下北半島を浸した。それまで権力中枢で練り上げられていた原子力エネルギー基地化構想は工場立地図、つまり立ち退きの「線引き地図」から消え、六ケ所村の現地でみるかぎり、住民の意識から外された。元国会議員や一部にその危惧を残すほか、日頃、バラ色の地域振興策には饒舌な東奥日報も黙した。
 鎌田慧氏すら、権力が原子力半島化の意思を一貫して秘めているかどうかに戸惑いがあった。七一年七月、氏は「開発天皇」といわれた経済企画庁の下河辺淳氏とのインタビューに成功したが、「むつ小川原開発」に限定した「原子力」抜きの質問に終始している。相手はこの巨大コンビナートについて青森県の方から正式に持ちかけられたのは一九五七年当時だったと、余裕たっぷりに手のうちを明かし、かれの口から「むつってのは最低一五年かかる。そのあいだに石油がどうなるか、原子力がどうなるのかってことが問題として残ってる訳でしょう」。つまりどう動くか分からないと、先手を打ってはぐらかされた。人に嵌口令を強いたものがもっとも口が滑らかというべきか。「開発天皇」は原子力半島化の意図を近未来の話に遠ざけた。
 青森県の原子力の是非は原子力船「むつ」問題に集中した観があった。その一方で石油ショック以後の石油エネルギー政策の見なおし、企業の進出計画の撤退による買収地の空洞化と一四〇〇億円を超える借入金を埋めるために、すでに過剰にさえなっていた石油備蓄基地を建設し、その「苦境」をしのいだ。八四年の年頭、原子力船「むつ」の廃船論が自民党からも出された、その「末期的」時点を見計らって、政府と電事連はむつ小川原に一兆円を投ずる核燃料サイクル基地、すなわち、ウラン濃縮、再処理、低レベル核廃棄物処理の、いわゆる「三点セット」建設を新聞(日経)発表した。以来、今日につづく。
 二〇年を費やして、六ケ所村の深部、土地を奪われたひとびとのこころのひだにまで触れた氏の実証的な調査力をもってしても、突き止められてはいない疑問…「なぜ、一五年前の報告書(青森県の委託を受けて作成された『工業立地センター』のそれ)に明記され、知事が記者会見(七〇年初頭)で公言していた『原子力関連施設(核燃料サイクル基地)』が消されてしまったのか」。この問には開発にたいする国家意思確認の執念がある。
 九一年二月、知事選挙の日、二〇年ぶりで会った、「陸奥湾小川原開発室」初代室長今野良一氏に、責年の疑問をただすシーンがある。この知事選自体が六ケ所村の核燃の推進の是非をかけた選挙であった。そのあわただしい開票のさなかでの質問であっただけに成功していない。
 もし、この国家としての欺罔性が暴かれたら、戦後、自民党政治の反人民性とその虚妄性は、格別の鮮明さをもって描かれるであろう。現代史を同時進行的に描出できるかどうかである。普通「歴史は二五年経たないと、正確には描けない」といわれているからだ。この本にこめられた「二〇年」からそれを引き出せるか、その期待は希望を超える。
 ここで気になるのは、ある種のイフ、「もしも…」のことである。
 あえて再引用する。「もしたとえば、最初から核廃棄物の素顔をみせての立居振舞であったら、工業開発でさえかつてあれだけ盛り上がった村の反対運動は、それ以上のものとして燃えあがり、六ケ所村の現在がもうすこしちがうものになっていたことは疑えない」そうであったかもしれない。かりにそう思えるとしたら、当時の村の反対運動において、なにがなしえたか、なにをするべきであったかが問い直されなければならないだろう。
 原子力・核燃料サイクル基地反対闘争であれば、当時の「公害一般」反対運動の色濃かった巨大コンビナート開発反対闘争より、「核」である分だけ、熾烈に有効に戦えたのではなかろうかという想像が、かりもにあるとすれば、どちらであっても同じというのが私の答である。
 七〇年代の初頭、原発立地は全国各地で「成功」していた。その前年原子力船「むつ」も、ほとんど異議申し立てもうけず、「はなやかな進水式」で旅立っていた。
 七三年、三月、美浜原発1号の燃料棒の大折損は、七六年末まで隠蔽され、折しも襲った石油ショックで「石油代替えは原子力で」とのマスコミの合唱が、この大事故にかかわる「国家的欺罔」を、さらに覆い隠した。スリー・マイルス島原発事故(七九年)により米国発の「安全神話の崩壊」までは、反原発運動は苦戦を強いられたではなかったか。
 原発立地での住民だましには電力産業の労組をふくむ国、県、企業、マスコミあげての土地取り上げと札束攻勢の日常化といった、まさに鹿島、むつ小川原開発型の開発の病像が先行していたはずである。村境、県境どころか、国境をもこえたチェルノブイリ原発事故以後、たしかに青森の県民意識も変わった。
 「水俣病の悲劇」がマスコミにまで「公害元年」キャンペーンをもたらした。公害の恐ろしさについて、六ケ所のひとびとは都会の人間より学んでいたとおもう。それでも反対闘争は封殺されていった。その当時、「放射能の恐ろしさは格別」とひとびとはかんがえただろうか。
 鎌田慧氏がこの本で市民運動としての核燃料サイクル反対闘争の再生をえがいている。とくに、八九年四月の「反核燃全国集会」にたちあっての感慨は共感できる。県の農政対策委員会などの「核燃の白紙撤回」の要請や、九〇年衆院選挙の反核燃候補の二名当選など、たしかに新しくなにかが動きはじめている。しかし、氏も見抜いているように、国家と資本の中枢、それに直結する県政、村政は、その反対運動を見ながら、その間も、テンポを緩めない、核燃の建設過程をしっかり見詰めていた。「作ってしまえばこっちのもの」なのだ。

 話はとんで恐縮だが、一読、ショックを受けた箇所がある。風景の変貌と記憶の喪失についてである。氏は開発の十字路といわれる新納屋部落に立ってこう述懐している。
 「まわりは一面の原野である。いまは草深い空地になっていても、一〇年ほど前までは、道の両側に民家が並び、ちいさな店が商品をあきなっていた。家の土台石などが草むらに埋もれているのを眺め渡しても、そのころ、この部落がどんなたたずまいだったか、わたしにはもう記憶をたぐることができない。残念なことに、一〇年以上も草むらだけをみているあいだに、昔の風景が記憶から消えてしまったのである」。氏にしてそうか…。私の映画の連作対象の水俣についてもまったくおなじ感慨を持っているからだ。
 水俣病患者の受難を喚起してやまなかった黒々とした水銀ヘドロはいまの水俣湾のどこを探してもない。そればかりか、埋め立て地の海べりには、避暑地カンヌに学んだと噂される、白コンクリートの海浜散策路ができ、視覚的に一変した。ヘドロの映像はもはや映画、写真資料のなかにしか残されていない。
 「このヘドロの風景はこのまま残すべきだ。水俣でなにが起きたかを伝えるために」と、映画『水俣病-その三〇年』のなかで言ったのは、父親を狂い死にさせた患者緒方正人氏だった。そのヘドロはいまも安全基準値を超える水銀を含んでいるのだが、かれはPPMの合唱、つまり「埋め立てれば、水俣湾内の水銀は何PPMに下がる」などといったたぐいの話にはいっさい耳を貸さなかった。「これを残す意志こそが本当の『安全宣言』ではないか。水俣病の記憶として、このヘドロをむしろ積極的に残すことこそ、『安全』についての戒めを残すことになるのではないか」。
 それを聞いたころはある卓見として聞いたが、やはり汚染魚のことを心配したりした。だが最近、その犯罪現場がみごとなまでに隠蔽され、完成度の高い観光的風致に変貌したのを見るとき、あらためて、「ヘドロの光景こそ安全の戒め」と言葉にした氏の直感に同意した。汚染魚など住民には衆知のことだ。それと分かっているうえで、「すこしなら」といって食う人、あるいは「すこしでも」食わない人と様々、それは人の裁量である。緒方氏も私も食う人だ。では、誰のための風景の改変であるか。それはいうまでもない。
 六ケ所村の風景も容赦なく変えられる。かっての開拓、開田のみどりなす風景も、数百年のあいだ人手によってつくられた村のたたずまいも、開発の前にはひとたまりもない。そして、やがては、その変化に順応していく自分に驚くこともなくなっていくだろう。その記憶の風化に抗するものは所詮、思想ではないだろうか。映画でも写真でもそれだけでは風化に耐えることは難しい。風化に拮抗しうるものは思想とからみついた肉声を至上とする。それは緒方正人の例でもいえる。やはり、生身の人の語り継ぎ、言い伝えに及ぶものはない。それはその話や語りの受け渡しに、いわば生身のこころがこもるからだ。すくなくとも水俣病の体験の伝承にはそれしかないと思うようになった。そこに基軸をすえ、文字にせよ映像にせよ発想しなければ、風化に耐え得る記録はないと思う。
 鎌田慧氏の仕事にはそれがあった。開発をうけとめたひとびとの生活の記録を紙数の及ぶ限り、書きとめている。開発体験からさかのぼって、それぞれの人の選んだ人生の岐路に光を当てている。いい悪いの仕分けや、まして賢愚の判断はしていない。だが、かっての反対同盟の輝かしいシンボルだった盲目の指導者、吉田又次郎氏の自分の位相を悟った死に際のことばをひろいあげ、この老人の陥った「開発」の落とし穴を語っている。
 土地をはやばやと売ったひとたちに、今日接するのは難しかったと思う。なぜ売ったのかだけをつまみ食いのように聞き出されとしたら、その相手は落ち込むに決まっている。だが、その人の記憶にすべて耳を傾けるという氏の方法はその人を解放させたであろう。「最初に土地を売ってしまった、そのわけ」を、「開発のせい」にしない、ぎりぎりの心情告白まで聞いたうえで書かれている。それがあってはじめて、今も土地を売らずに、孤立したかにみえる反対派農民ひとりひとりの生きるすがたと等価値の記録にいたっていた。
 抵抗者の生活のディテール描写に鎌田慧氏の本領を読み取る。たとえばかって九二戸あった開発予定地、新納屋に三戸残った、そのひとり小泉金吾さんの場合もそうである。あとで触れるように、私もかれを映画に撮ったことがある。「開発反対」の代表的人物としてである。だが、かれが大工であったことはこの本を読むまで知らなかった。戦後、ここにもどってからは農家をついだが、その前は大工だった。「家をつくるのを仕事としてきただけに、彼にとって家を破壊する開発の音をきくのが堪らなかった」。小泉さんは「…家が泣くくらいに感じましたな、聞きたくなかったんですよもう。家を壊す音ききたくないと、わたしばかりでなく、こどもたちまでも、神社壊したとか、公民館壊したって泣いてきて教えるもんだから…」。この痛みを癒すに相当するゼニの話はないと思う。
 土地を売って移住した先の新住区、千歳平に移り住んだひとを訪ねて、そこのスーパーでビニール袋につめられたお米をみて棒立ちになった氏の驚きは、私の場合、無人の豪邸ごとに綱につながれた番犬が、門前に足を運ぶごとにつぎつぎに吠えてくるのに立ちすくんだ記憶を呼び覚ます。普通、農家の飼い犬はだれにも尻尾をふる、「番犬としては役たたず」の存在だった。それが近づくものには見境いなく牙をむくのだ。
 そんな移転先の造成地の町に示す、こどもの気持が、その作文に紹介されている。
 「この鷹架に開発が来た。…ぼくの家でも、来年あたり千歳の家へ移ることになっている。この鷹架には、高山植物がある。鷹架沼からしじみ貝がとれ、おつけにもする。太平洋は美しく、波あそびは面白い。千歳へいってみたが、沼がない。海がない。面白くもない」また、ある生徒も「鷹架には海があり、沼があり、川もある、少し海が荒れると、波の音はね床まで聞こえる。林もあれば、草むらもある。千歳は、林がかたまり、ほそう道路、標識があり、町みたいな感じである。だが、田もなく畑もない。やさいもつくれないし、米のとれない。どこに田や畑をつくるんだろう」(閉村記念誌『鷹架』)
 この沼の気配、海の潮ざえといった目に見えないものが、まだこどもには見えている。
 開発側は「いまどきこんな土地が日本に残っていたのか」とか「この地域の魅力は広大な面積に自由に絵をかけることだ」とみる。だが村を追われる日まで、こどもの感性はすこやかに呼吸していることに感動する。同じ風景に抱くあいいれない感受性の相剋が、開発の賛否の原核にあることが伝わってくるのだ。
 開発に抗する姿勢とは、たとえば、徘徊癖のちほう性老人になり、ふらふら歩く父を見やりながら「ここだからああして気ままにしていられるんです」と語る人たちの日常ですでに充分であろう。氏がそのあとがきに「書き切れなかったものの多さ」に当惑し、それが「多くのひとたちの生活と歴史を落としてしまったことを申しわけなく思う」との言葉に実があろう。だが、書き切れなかったものがまだありはしないか。

 すぐれて現代を批評的にとらえたこの本に、ひとつひっかかったのは、寺下力三郎村長の選挙(の敗北)について書かれた部分のある「開発問題研究家」についての部分である。それはどう考えても、あの石川次郎氏のことのようだ。一ページほどの扱いだが、これはさきにのべた「かつてあれだけ盛り上がった反対運動」の退潮にかかわる問題であり、いまは「なにをすべきであったか」の考察にかかわることである。また、私自身にもかかわる問題なので言及しないわけにはいかない。
 七一年のはじめに『水俣-患者さんとその世界』を完成させた私は、この映画の上映にすべての時間をさいていた。そのなかで、この映画の六ケ所村での上映も日程にあがった。それと同時に「むつ小川原開発」の記録映画を撮ってほしいとの要請もうけるようになった。その要請者が氏のいう「開発問題研究家」、石川次郎氏であった。
 石川次郎氏の姉が私は映画での同僚であったその縁で、父親のフランス文学者石川湧氏とも面識はあった。その湧氏から中央公論に発表された次郎氏の処女(?)論文『語られなかった鹿島-開発神話の崩壊と農民』を知らされていた。初めて知る話ばかりだった。
 彼と会って、映画を撮る意義はよくわかったし、強い興味ももったが、水俣の次回作のこともあって、おいそれとは引き受けられなかった。内心では、十年くらいの長期取材でこの開発の全貌を追った長編記録映画を作れたらと、秘かに題名も『映画・現代日本資本主義発達史』とつけていたほどだ。そして一部はカメラをまわしもした。七二年正月、雪に埋もれた六ケ所村の行事と景観、それにつづいて、三月、第二期といわれる六ケ所村民の鹿島見学と現地の農民の家を借りての合宿学習など、すべて石川次郎氏の世話による。
 鹿島で六ケ所のひとびとと一緒にすごし学習した体験は充実したものだった。そこで鹿島の活動家にもあった。労組出身の「有名人」I氏や、森羅万象を「公害」に結びつける青年には閉口したが、養鶏をいとなみ、この合宿の場を提供した篤農家の細谷昇氏には開発を受けつけなかった人の肖像をみる思いがした。
 すでに鹿島への数百人に及ぶ学習研究の旅の世話人として、ときに学習のチュータとして、立ち働いた石川次郎氏のこの試みは、農民の学習はこうありたいという、氏の身につけた省察に支えられていた。
 県も開発推進のための見学団をひっきりなし送りこんでいたが、いわゆる歓待旅行のパターンとはまったく違った。合宿では、夕食時にも酒は出ず、夜の部も学習に当てられた。その進行はもっぱら、質疑に沿ってすすめられた。「世直しの塾」の観があった。
 陽のあるうちは鹿島のすみずみまで見せることに時間を割いた。手ぐすねひいて待つ企業の広報担当や、およそ「長」とつく関係者はいなかった。撮影しつつ、映画『水俣』も映写した。
 その四月には、六ケ所村当局の依頼で新納屋を皮切りに、村内八集落を巡回上映して回った。水俣弁の強い方言で描いた映画だけに、下北のひとびとにはしんどい観賞だったろうが、漁民のすなどりには引き込まれたようだし、患者の受難、とりわけ胎児性水俣病のこどものシーンに、あたりはばからず、ガバッと身を伏して慟哭する老婆の姿には、こちらがふるえた。この六ケ所村上映の体験はその後も私をとらえて離さなかった。
 それから十数年後、原子力船「むつ」をテーマにした記録映画『海盗り-下北半島・浜関根』のロケで、ほぼ半年、現地に滞在できた。六ケ所村、東通村のひとびとには、とびとびのつきあいにもかかわらず、この映画でこもごも証言してもらった。そうした仕事の端緒に石川次郎氏はいたのである。
 やや冗長をかえりみず、石川次郎氏との出会いのいきさつから述べたのは、この本には、氏は「開発問題研究家」として、その実名が伏せられており、氏の挙動について触れられた箇所は、この本のなかで最もリアリティーに乏しい部分に思われたからだ。なぜか。多分、苦汁に満ちた鎌田氏自身の記憶の「一こま」であることは推察できる。だが、どうして氏に対しは、インタビューの労を惜しんだのか。いかなる配慮で彼の実名を避けられたのか。それと同時に、さきに触れた六ケ所村民の鹿島見学団についての記述が本文からも年表からも削られているのも私には理解しがたい。
 鹿島コンビナートの「成功」の勢いにまかせて、総資本が六ケ所村に赴いたことは鎌田慧氏の記述にも明快だ。六ケ所村に住み、そこで開発される側の住民の学習にあたって、「鹿島」がもっとも教訓に値することは明らかだった。立場を真逆にする推進側も鹿島いがいの見学先を考えなかったように。
 もし、巨大開発が「公害問題」にフォーカスされるものなら、水俣や四日市がもっとも端的だったろう。六ケ所村の場合、辺境の住民を丸ごと強制移住させ、その生存を無視するといった「植民地戦争」型の開発の場合、鹿島ほど負の体験の蓄積の豊富な現地はないと思われた。その連続的な、犯罪でいえば累犯加重にひとしい「むつ小川原開発」における反対運動の組織化にあたって、当時、労働運動も政党も「反開発」に対する実践的戦闘力を蓄積していただろうか。石川次郎の『語られなかった開発』によれば、どの企業、工場が進出するか、茨城県当局は数年にわたって公表しないことを、地元のみならず、およぶかぎりのマスコミに頼んで、徹底的な情報操作をしとげた。問題の個別紛糾を回避するためだったという。なるほど鹿島について読むに値するレポートは寡聞にして知らない。
 論考『語られなかった鹿島-開発神話の崩壊と農民』ではじめて明らかにした石川次郎氏をおいて、ほかにだれの著作があったのか。もしあれば教えていただきたい。
 七一年六月、石川氏ははじめて下北に招かれ、話をした。その全文を収録した青森県労働組合会議のリーフレット「コンビナート開発シリーズ-『鹿島の経験』編」には、氏の自己紹介がある。「私は取材をしたり、あれやこれやをしゃべる事を商売にしていません。また政治運動家でもありません」と。ついで、茨城県・鹿島の事情を、青森県・六ケ所村にかさね、縦横に、活字にならなかった「開発」、「語られなかった」事実を語っている。これを読む限り、皮肉にも開発一〇年のなかで、鹿島について生々しい報告のできる人物は、それまで無名であった氏をおいて、ついに現れ得なかったのだという気がする。それがまた、「開発」の相貌の一面を語っていた。
 鹿島開発は地方マスコミをはじめあらゆるメディアをあやつり、開発神話を振りまき、貧乏からの脱却をすすめ、県警を思うままに使い、反対者は赤狩りや「暴力分子」あつかいして沈黙を強い、駆逐し、ついには住民「総意」を形成していく…それが社共推薦の革新知事の県政のもとでいかに行われたか。その「開発神話」のメカニズムを、権力の網の目にも捕らえられず、また、革新や左翼や労組にもはばかることなく分析しようとした時、文章書きを職業としたり、まして、職業的政治運動家ではその意思を実現できなかった、それがそのまま、六ケ所村民への自己紹介になったのも、不思議とするにあたらない。

 ある「開発問題研究家」が果たした仕事の評価にたいして、鎌田慧氏と私とでは残念ながら意見を異にしている。ましてこの人が六ケ所にいた時期(七一~七三年)、政治的状況は流動を免れなかった。だが、まったく組織に属さず、鹿島の経験しかもたない二十代のいわば「若輩」、そして無名であり、学歴も定かでない、いわば「どこの馬の骨かわからない」石川次郎なる人間に、一村の命運を担った「開発反対」村長、寺下力三郎氏が、どこをどう見込んで、氏に村民の学習運動のすべてを託したのか。それだけでも記録に値したであろう。
 七三年は、開発の反対か推進かを争う三回もの選挙にあけくれた年であった。石川氏が村を去ったのは、一二月の村長選挙で寺下候補が惜敗した直後の出来事からだとされる。
 「(その夜)彼(石川次郎)はどう計算ちがいをしたのか、突然、怒鳴りこんできた。気丈夫な木村きそさんが『スパイ』と面罵し、それ以来、彼は村から姿を消した」。その出来事の描写はこの数行だ。足掛け三年の同氏の村との訣別はこのようにかたずけられるほど単純なものだったのだろうか。この日にいたるまでの葛藤があってしかるべき、とみるのが順当ではなかろうか。彼は「村外の支援を排除し、運動を偏狭なものにした急先鋒」であり、敵を見誤り、「『左翼』ヅラした学者、モノ書き、運動屋、民主的ポーズのジャーナリスト」を攻撃し、運動内部に動揺を与えるのがその狙いだったとしたら、さらに「右翼の大物」とのつながりを示唆する米内山義一郎氏の「証言」や、あの木村きそさんの「スパイよばわり」をあわせれば、それこそ「前代未聞の珍事」ではすまされない。癖とか欠点とか人間的瑕瑾などの評価を超えている。そこには詳説を求める。寺下力三郎氏はそこまで暗愚だったのかとの不審を含めてである。私はそうは思はない。石川次郎氏にも同じである。
 ともあれ、この寺下候補「敗北」の日から、古川伊勢松村長の一六年にわたる開発の時代がはじまった。としたら、このエピソードには、先行する層々たるディテールがあろう。「あれだけ盛り上がった村の反対運動」の退潮のきっかけであり、「むつ小川原開発」の歴史的事実にかかわる話だからだ。その部分の「四捨五入」はこの本にふさわしくない。
 鎌田慧氏のすぐれた中間報告を、「未完のライフワーク」として受けとることが叶うなら、いつの日か続編をもって六ケ所の現代史を編み上げられるよう、期待を寄せさせていただきたい。
 (九二・五・二四)